願わくば花の下にて春死なん その如月の望月の頃

 どうしてもどうしても桜が見たかった。まだ蕾も膨らまぬ寒さだったが彼の願いは一つだった。

 どうしてもどうしても花開くところを見せたかった。こよなく愛してくれたあの人の死期が近いとわかっていたから。

 その桜の木は森の奥深くに佇んでいた。ほとんど人の目に触れたことのない、忍び桜だった。その桜のもとに季節を問わず足繁く通う男がいた。咲き零れる花を一目見たときに、母を見る赤子のように嬉しく、久方ぶりに会う女房のように恋しく、自分の一部を見つけたかのように愛しく思ったのだという。

 桜の寿命は人のそれよりもはるかに長い。だが、男がその桜に出会ったころにはもう、その桜は晩年の時を迎えようとしていた。年々少なくなっていく花の数を淋しく思いながらも、咲き誇る花を見ながら酒を飲むのが男は好きだった。

「今年もたくさん咲いてくれたな、ありがとうな」

 そう言いながら優しく幹を撫でた。

 時は流れ、青年だった男も年を取り、山へ来るのも次第に難しくなってきた。それでも男は長い時間をかけて、痛む足をさすりながら、花盛りのときだけでもと花のもとへと駆けつけていた。

 ある冬、男は、この冬は越せないだろうと医者に言われた。いちばんに想ったのはもう桜の花を見られないということ。最後になるとわかっていたのなら、もっと、もっと見てくればよかったと後悔した。

 次第に弱っていくのを感じながら、男はどうしても桜が諦められなかった。いずれ尽きる命なら、桜のために散らせたいと周囲の反対を押し切って家を出た。数歩歩いては止まり、数歩歩いては止まり、泥だらけになって、傷だらけになってもなお男は諦めなかった。

「お別れの挨拶もしねぇまんまじゃ、死んでも死にきれぬ」

 一方桜にも最期の時は着実に近づいてきていた。山の奥に忍ぶ桜、本来なら人の目には触れずに枯れていくものだったかもしれないその木は、季節外れの狂い咲きをしようとしていた。それはただただ桜を想う男の願いが届いたのかもしれないし、歳をとった桜がどこか異常をきたしたからかもしれない。

 けれどその桜は、桜としての運命を捻じ曲げようとしていた。

 男が桜のもとに辿りついたのは偶然にも満月の夜だった。

「おれの目、おかしくなっちまったのかな。蕾んでいるように見える」

 桜の木の根元に体を横たえ、男はそう呟いた。身体はあちこち痛むし、寒くて寒くて死にそうだったが、男は満足だった。


「おれにはなぁんにもなかったけど、おれの体もこの桜になると思えばそれだけでしあわせだなぁ」

 ふと薄紅色の花弁が見えた気がして、男は目を擦る。目を開いたその眼前には無数の花、花、花。桜から溢れる愛が一瞬にしてそこに具現化したようだった。

 彼の吐息がホゥと零れた。そして終焉。春遠からじ、如月の頃だった。


(お題「春遠からじ」「溢れる愛情、零れる吐息」「しゅうえん(変換可)」「運命を捻じ曲げてでも」)

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