カレードーナツはドーナツホールの夢を見るか?

冴草

カレードーナツはドーナツホールの夢を見るか?

 女は疲れていた。はっきり言えば、ふた晩ほぼ徹夜であった。勤める幼稚園のお泊まり会を明日に控え、夜に子どもたちを起こして催す肝試しの、衣装や飾りを作っていたのだ。コミカルな妖怪、お化けの切り絵や、厚紙でできた魔女の帽子。子どもを楽しませたいのは本心だが、毎日の仕事の後、こうして作業を続けていると、もううんざりだとさえ感じた。しかしその苦労も今日で報われる。ひとまず完成だ。

 ガスコンロの脇には、帰りに買ってきたパンの詰め合わせが箱で置いてある。明日の朝食べるクリームパンとチョコドーナツ二つ、それから夜食にするはずだったカレードーナツ。しかし手をつけることはない。立ち上がるのも億劫だった。一刻も早く眠りたかった。

 枕元の目覚まし時計のアラームをセットして、投げ出すように戻し、ベッドに横になる。画用紙の切れ端かなにかが首筋に障り、チクチクと煩わしいが、それもやがて眠りの彼方へと去った。


 睡眠を邪魔したのは、すみません、という男の声である。初めは無視していたが、どうにもしつこい。眠い目を擦って呼ぶ方を見た。

 目覚まし時計の上に、カレードーナツが鎮座在している。

 一瞬で目は冴えるが、ベッドの上で正座したままの身体が動かない。これは何なのだ。そもそも女ひとりで暮らす部屋で男の声がしたのはまずいのでは。二〇歳を過ぎ三〇が見えてきた眠れる乙女の枕元にカレードーナツを置いて興奮する不埒者の仕業か。戸締まりが甘かったか……。

 と、時計をベタベタにする目の前のカレードーナツから、間違いなくそのカレードーナツから声がしたのだ。

 「お休みのところ大変申し訳ございません。急ですが、一つお願いがあるのです」


 女の夢枕に立ったこのカレードーナツは――寝不足で見る幻覚にしても馬鹿馬鹿しいので、車に轢かれてぐちゃぐちゃになったカレードーナツの霊だと思う事にした――、自分には失ったものがある、それは僕の真ん中にぽっかり空いたこの穴に、元は納まっていたものだ、それを取り戻すのを手伝ってくれ、と訴えた。口調は紳士的であり、また極めて真剣で、ふざけた様子は一切見受けられない。できる範囲であれば、とことん協力してやってもいいな、と考えてしまうほどに。

 だが部屋の灯りを点けてみて、どんなに目を凝らしても、件の穴は無い。表にも裏にも無い。彼女はとりあえず、優しく諭すことにした。

 「えっとね、悪いんだけど、君にはそもそも穴がないみたいだよ」

 「いや、そんなはずは。ぼくはドーナツという名前を与えられてますよね」

 言い募るカレードーナツ、頷く女。

 「ならば当然穴があるはずでは?」

 なるほど、そういう見方もあるな、と唸ってしまった。しかしあんドーナツやカレードーナツには、初めから穴は空いていない。これは難題だ。

 ちょっと逡巡した後、どうかしらね、今調べるからちょっと待って、とスマートフォンを手に取る。検索窓に適当な語を打ち込んだ。『ドーナツ␣穴␣区別』。

 いくつかのサイトを女は斜め読みしてみたが、やがて目を上げて告げた。

 「あの、特にこれといった定義はないし、そもそも穴の由来すらわかんないみたいなの。ごめんね」

 それを耳にしたカレードーナツの落ち込みようといったら、もう喩えようが無かった。粗い肌に、ありあり絶望したような色が浮かんでいた。おかしな話だが、はっきり表情が読み取れる気がした。彼女は何も悪くないのだが、なぜだか申し訳なくなった。

 「…………由来すらですか」

 絞り出すような問いかけ。答えるのが心苦しいが、ちゃんと伝えねばなるまい。

 「……由来もよ」

 カレードーナツはしばらく黙っていた。気まずい沈黙が何分も何分も続いた。カレードーナツが再び、静かに反駁を始めたとき、時刻は午前二時を回っていた。

 「……しかしですね。僕には確かに、身体の真央に、ちょうどこの辺ですが(女にはどこか分からなかったが、生地の中央だろうなと検討はついた)、失った感覚があり、失った部位に疼きを覚えています。幻肢痛のように」

 怯んでしまった。カレードーナツが幻肢痛という言葉を用いるとは……。だがこの哀れな勘違いを、正してやらなければいけないとも思った。それは奇妙な責任感だった。彼女は傍らに一度置いたスマートフォンをまた手に取り、画面側のカメラを起動し、毅然としてカレードーナツに突きつけた。

 「ほら、これが君。どこにも、お腹にも背中にも、穴なんかないのよ。それは単に失くしたと思い込んでいて、そこがむずむずするんじゃない。その、肌荒れか、神経痛かなにかで」

 衝撃のあまり固まるドーナツ。蚊の鳴くような声で「しかし僕はドーナツなのです」「穴がないならドーナツでないのでは」「僕は、僕は」と呟くのみだ。

 女はもう一度、辛抱強く、思いやりを込めて説いた。だからね、穴の由来や定義すら、今はもうわからないのよ。それに貴方を作った人がドーナツと名付けたのならいいじゃない、私カレードーナツ好きよ、と。

 だがカレードーナツは認めない。認められないのだ。ただひたすらに、いやよくはない、はっきりさせたい、僕はドーナツだ、ドーナツには穴があり、欠損こそドーナツの証明であり、僕は、と譫言のように繰り返すだけ。

 そしてその精神は、細い玉ねぎの筋一本で、かろうじてつなぎ止められていた自我は、遂に切れて、焦げついてしまった。朗らかな調子でこんな事を言い始めたのだ。

 「そうだ、貴方僕の真ん中あたりを齧ってくれませんか?」

 「はい?」

 「何故思いつかなかったんだろう、簡単な事なんです、本当に無くしてしまえば済む話ではないですか。頼みます、ひと息に頼みます、万事うまいこといく」

 それまでこの馬鹿げた光景の演者であった女も、さすがに困惑して「貴方大丈夫?」と尋ねた。カレードーナツは彼女の様子など気にも留めない。僕は本気です、お願いします、と熱っぽく、ある種病的な口調で頼み込んだ。いよいよ女が根負けした。

 「いいけど難しいよ。真ん中だけって……」

 「貴方のやりやすいような形で構いません。穴が空きさえすれば」

 女は意を決し、意外にずっしりしたカレードーナツを持ち上げて、齧り付いた。遠慮がちに初めの一口分を食い破った時、ああ、という響きがカレードーナツの口(口?)から漏れた。それは明らかに悩ましげで、表現を選ばず言えば嬌声である。あまりの気味悪さに取り落としそうになったが、カレードーナツはねだるように喉を――あるはずもないのだが『喉』としか言いようがない――鳴らすので、仕方なしに一口、また一口と食べ進む。

 すぐに生地には歯型で縁取られた穴があいて、そこから中のルウが溢れた。フローリングに嫌な音を立てて落ちる。彼女は最早促されるままカレードーナツを食べるだけで、落ちてゆくルウに関しては目で追うばかり、一方カレードーナツはといえば土手っ腹から中身がだぼだぼ零れているのに、相変わらず陶酔したように呻き続けている。人も、あまり出血が多いと、脳が快楽として誤認するらしいから、カレードーナツにもそういう事が起こるのだろうか。

 やがてルウも八割がた零れた頃、カレードーナツの法悦も苦しげな嗚咽に変わり、最期の息が漏れた後、まったく静かになった。女はただ、くたくたになった手元の皮と、床にぶちまけられたスパイシーな香りの臓物とを交互に見て、片付け、面倒だな、と思った。

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