朝靄の中で

 どこからか笛の音が聞こえる。どこか物悲しいような、懐かしいような、柔らかい音。

 瞼の裏に光を、頬に風を感じて、ノアはそっと目を開けた。太陽はまだ昇っていないようだった。あたりは薄くもやがかかっている。

 身じろぎすると肩や腰が痛んだ。昨夜はターニャと話すでもなく座り込んでいたが、明け方にそのままうとうととしてしまっていたようだった。

 悪い夢は見なかった。こんな風に目覚められたのはダラスで意識が戻ってから初めてのような気がする。

 たき火の炎はいつの間にか消されている。ターニャは木に寄りかかり目を閉じていたが、起きているようだ。目を瞑ったまま呟く。

「あの王子が吹いているみたいね。こんな才能があるなら王より楽師になったほうがよっぽどいいんじゃないの」

 笛の音は靄に溶け込んで、懐かしい夢のように漂っている。

 ノアはそっと立ち上がり、音の方向を探った。


 改めて見ると野営地の周りは密林に覆われている。天幕を張った場所だけは大木が倒れて開けていたようだ。蔦を持ち上げて間を進む。ちょうどそのとき、日が昇ったようだった。こずえを縫って光が差し込み、朝靄は金色に輝く。はるか頭上で鳥が鳴き始めた。

 苔に覆われた大きな切り株の影に隠れるようにして、王子は立っていた。

 小さな横笛から音が響き渡る。

 朝を連れてきたようだ、とノアは思った。

 気配を察したのか、王子が振り返る。音が鳴りやみ、ノアは残念に思った。

「もっと聴いていたかったのに」

「そうやって人に改まって聴かれるのは苦手なんだ」

 王子はふて腐れたように言った。

 思えば王子と二人で話すのは初めてだった。

 夕べの雨と、降りた夜露で草は濡れている。座ることもできず、二人は立ちつくしていた。

「お前は本当に何も覚えていないのか?」

 ノアは黙って頷く。

「本当に?名前も?」

 娘はまた頷いた。何一つ覚えていないのだ。毎夜見る夢以外は、昔を知るよすがはない。

「物も、記憶も、何一つ自分のものは持たずに海からやってきたのか。不思議なやつだな」

 ノア――海のかなたにあるという伝説の楽園の名を取って、王子が名付けたのだ。その名を呼ばれるたびにどこか心が騒ぐのはなぜだろう。

「時々、何もかも忘れて、誰からも忘れられて、遠くへ行ってしまいたくなる」

 王子がポツリと言った。

「本当に忘れてしまったお前に言うのはむごいことかもしれないが、全て捨てて真っ白な状態から生き直すことができたらと思う」

「そうできたら、どう生きたいの」

 王子は少し考えてから、ゆっくり話した。

「そうだな。鳥か魚になりたい。自由な体で海の向こうへ行ってみたい。お前は、俺たちの行けないはずの海の向こうから来たのかもしれないな。記憶が戻ったら聞いてみたい」

「なりたいものは、人間ですらないのね」

 ノアには意外だった。確かにいつも不機嫌そうにしているが、王族というものはもっと幸せなのだと思っていた。ダラスの中でも一番の屋敷に住み、エルザにあんなに愛情を注がれて、それなのになんで今こんなにも痛々しい表情をしているというのだろう。

「人間はもうごめんだが、エルザのような明るくて強くて賢い女を妻にして、旅の楽師として生きるのならいいかもな」

 思わず笑ってしまった。

「それは正しい選択ね」

 ノアは王子が何か話したがっているのを感じていた。手元で笛を弄んでいる。懐に入るほどの大きさで、古そうだが繊細な彫り物がしてある。何ともなくそれを見つめていると、明け方の優しい光と顔を隠してくれる靄が王子の背中を押してくれたようだった。

「正直なところ、お前からこの旅についてきたいと聞いたときはどこかの密偵だとばかり思っていた。ターニャや鳥使いと同じようにな」

 ノアはぎょっとしてしまった。確かに王子に心酔してつき従っているようには到底見えはしないが、それにしても密偵とは穏やかでない。

「この旅のこと、どこまで聞いた?」

 エルザに聞いたことを思い返しながら言葉にした。先王が亡くなってその葬儀のために王子は王都へ向かっていること。三つの都市から同じようにトリシアを目指している者がいること。

「その三人は俺の母親の違う兄や姉だ。当代の王が亡くなったら王子王女のいる各都市にその伝令が来る、それがスタートだ。その後王都トリシアに最も早く着いたものが次代の王。簡単な話だろ」

 ノアはエルザの見せてくれた地図を思い浮かべてみた。単純な競争となるとダラスと最北のコルトがあまりに不利だ。他の二都市に比べて明らかに遠すぎる。

「早い者勝ちって平等じゃないわ」

 王子はどこか投げやりに笑った。

「そう、ご明察の通り、俺たちの勝負は最初から決まっている。トリシアに最も近いアルーにいるやつは母親が絶世の美貌を持つ先代最愛の寵妃。花の都なんて呼ばれるウィンザは女だけど正妃の子だ。一方人の住める北限のコルトは反乱軍首魁の娘の子。気まぐれに手をつけただけの平民の子は地の果ての海辺ダラスへ追いやられましたとさ」

 王子は濡れるのにも構わず座り込んだ。

「それで、ターニャは明らかにアルーの息が掛かっているし、お前が違うのなら鳥使いがウィンザの密偵なんだろ」

 手元の笛を見つめると、王子はぎゅっと握りしめた。

「これは母様の形見なんだ。先王が気まぐれに贈ったこんなに古い笛ひとつを大事に持って、不幸に死んでいった。

 エルザは母様の同僚で親友だったんだ。それだけのことで、何の未来もない俺についてくれた。これ以上道連れにするわけにはいかない。大切にしたいんだ」

 その言葉はなぜかノアの胸を打った。いつも不機嫌で素っ気ないのに、この人だってずっと悩んできたのだろうか。

 ノアもそっと隣にかがみ込んだ。

「でもエルザは、あなたが王になると信じているわ。それに私も信じたくなってきた。私、あなたの作る国を見てみたい」

 王子は驚いたように顔を上げ、じっとノアを見つめた。こんなに近くで見合ったことはなかった。

 王子の瞳は何かの迷いを映しているかのように揺れていた。

 ふと目が逸らされた。何かを吹っ切るかのように王子は立ち上がった。

「これは死に向かう旅だ。お前も俺には肩入れするな」

 王子はそのまま背を向けて去っていく。

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