旅立ち 2

 たった6年人が通らなかっただけの道なのに、密林と言う他ないほど、木々もその大きな葉も生い茂っている。

 鳥使いが時おり鳥を飛ばして方向を確認しながら先頭で道に切り開き、ノアとエルザが荷車を引く。ダラスの王子はそれを後ろから押していた。

 鳥ならばこんな森簡単に抜けられるのに。再び鳥使いの肩から飛び立つ鳥を王子は恨めしく見つめた。地面を這っていくほかない人間5人には、この密林はあまりに大きく、あまりに過酷な環境だった

 地面はぬかるみ、突き出た根に引っかかる。その度に3人で持ち上げたり遠回りしたりする。想像以上に時間が取られていたし、体力も奪われていた。ただでさえ密林に入ってからは蒸し暑く不快でならないのに。

 何十回目かの荷車のつまずきに王子は舌打ちをした。手伝うでもなく隣をぶらぶらと歩くターニャへの恨み言をぐっと堪える。

 仕方ない。実際、エルザの言う通り、ターニャは優秀な狩人だった。歩きながらもふと弓矢を構え、突然消えると獲物を手に帰ってくる。荷車の一角はターニャの取ってきた獣や木の実や薪で山ができていた。

 確かに今日を乗り切るには充分な量が集められていた。だからといって何もせずに見ているだけというのは、その神経が王子には分からなかった。

 エルザと二人掛かりで後輪を持ち上げ、その間にノアが引っ張る。大きく傾きながらなんとか乗り越えたところで、軽い休憩を取ることにした。

 日は既に南天に差し掛かっていた。


 この国に城はあるか。城に行きたい。

 何日もベッドから起き上がらず、何も食べず何も話さずいたノアが最初に口にした言葉だった。王子は驚いたが、王都にあると答えた。この国中で城と呼ばれるのはトリシアの王族の城のみである。ノアはどうしても行きたいのだと言い、王子は渋々密林を抜けるまでの間旅の一行に加わることを承知したのだった。

 思えば初めから不思議な娘ではあった。浜辺に倒れていたのである。

 人は何より海を恐れる。王都トリシアは海から遠く離れた大陸の中心に作られたし、ダラスの村はそもそも国にいられなくなった無法者たちが大陸の最南端まで追いやられ、寄り集まってできた村だ。そのダラスにしても、万が一にも波にさらわれることのない崖の上である。

 だからこそ、崖の細い道をつたい降りた先のその浜辺は、ダラスの王子が1人になりたいときに訪れる場所だった。

 ちょうどトリシアからの使者が着いた日だったから、よく覚えている。しきたりに従って先王からの遺言を受けたあと、王子はひっそりと屋敷を抜け出して浜辺に向かった。ずっと恐れていた日がやってきてしまったことや、もう後戻りのできない自分の人生をどう受け止めればいいのか分からなかったからだ。

 上空には密林から湧き上がった雲がまだ厚く掛かっていた。それが、王子が海辺に降りたとき、そっと世界の秘密を見せるかのように小さく雲が晴れ、光のはしごが降りてきた。スポットライトを浴びるようにその光を受けて、ノアは倒れていた。

 遠目に見たときには、どこかこの世の外から放り出された罪人のようだった。白い布だけを身にまとい、うつ伏せで打ち捨てられていた姿は、楽園から追放された女神のようにも見えた。

 ああ、これはどういうことなのだろう。よりによって、恐らく後にも先にもないくらい自分の運命に直面しているこのときに、この出来事は一体どういう意味があるのだろう。自分に何がもたらされたのか。自分に何をしろというのか。

 永遠のように思える瞬間が過ぎ去り、光は再び陰った。王子は我に帰るとノアを助け起こし、屋敷まで運んだ。

 何日も何も口にせず、目を覚ましてもぼんやりとどこかを見つめていたノアだったが、何日か過ごしたあと、いつもと同じように眠りから覚まして突然、城に行かねばならないと訴えた。不安そうに揺らぎながらも強い意志で自分を奮い立たせる、その瞳に惹きつけられた。目を奪われた。

 彼女の強い意志に負けたというのは言い訳で、自分の運命に巻き込んでしまうこの旅への同行を許したのも、結局はそんな理由だったのかもしれない。自分勝手さに思わず自嘲してしまう。

 当のノアは食事に手をつけていないようだった。大きな葉の陰で膝を抱えている姿は、見る者を心細くさせた。なにか声を掛けずにはいられない思いで、王子はそっと近付いた。

 その気配でノアは小さく体を強張らせ、顔を上げる。

「食べないのか?」

「ええ」

 拒絶するかのような短い返答。張り付いたような薄い笑顔。

 自分は何を期待していたのだろう。失望が胸に広がった。自分は傷ついているのだろうか。いったい何に?

 無性に腹が立った。

「それで後から足を引っぱられても困る。荷車で運んでやる余裕なんてない。倒れたら置いていくからな」

「駄目よ」

 後ろから明るい声が降ってきた。

「あなたはとにかく食べないといけないわ。最初の頃のようになっては駄目。希望通りお城に行きたいのならね。この先しばらくはこの生活が続くのだから」

 エルザは少女のそばにかがみこむと甘酸っぱい芳香の飲み物を差し出した。

「疲れていると何かを口にするのも億劫なのは分かるわ。それにこの暑さだもの。でも、これだけでも飲んで。飲みやすいし元気が出るわ」

 優しい口調に、ノアはおとなしく受け取ると、口を付け始めた。

「ダラス様も駄目」

 エルザはきっと王子を振り返ると勢いよく立ち上がった。

「慣れない環境、慣れない人間の中にいるこんな若い女の子に気遣い出来なくてどうするんですか」

「分かった分かった、俺が悪かったよ」

 そそくさと退散しようとすると、ノアが小さく微笑んだのが分かった。

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