第6話 それぞれの結末


 暗闇の坂で、未知の樹林の中で、永遠とも思える長い戦いの時が過ぎた。その行く手には、幾度となく、鬼も魔物も現れたはずだ。夜明け頃になると、未来を目指して走っていたこの一行は、ようやく、この長く苦しい旅を終えようとしていた。一番先頭を駆ける男たちにしても、その歩みを緩やかにして、遠くを見やるほどの余裕が生まれていた。


「少し、明るくなってきたな。もう、ここまで来たなら、さすがに大丈夫だろう」


「先ほど、山頂付近で、後方の東南方向に薄い光が見えた気がしたな……」


「うむ、峠に入る頃と比べて、ずいぶん、穏やかな空気に感じられてきたしな」


「おお、明かりだ。あそこが森の出口じゃないのか?」


 その中の一人が、森の奥深くから差し込んできた、一筋の光を指差して、半ば楽観的にそう言い放った。多くの者がその光に目を取られ、自身の勝利を確信するに至った。これまで溜めに溜めてきた、心中の不安は、なかなか拭えなくとも、そんな明るい皆の声はようやく掴んだ、希望的なものに聴こえた。小太郎もこれまでにない安心感を得て、口元には自然と笑みが浮かんだ。命を張ってまで幸福を得たいという、向う見ずな旅人たちを祝福する、朝の陽が段々と昇り始めた。それに応じて、木々の隙間からは徐々に太くなる光線が、こぼれ出してきた。そうして、夢幻のように、じんわりと辺りの様子が見えてくるようになると、この大森林も、もう怖いものではないように感じられた。


「やはり、そうなんだ! あれが暗闇の出口だ、やっと、狭灘に着いたんだ!」


 先頭の男が、ほとんど狂ったようにそう叫ぶと、方向も定まらぬまま、突如として駆け出した。それに続いて、周りにいた男たちも、我さきにと、その光に向かって、がむしゃらに駆け出していった。だが、小太郎はなぜかそれを追いかける気にはならなかった。何かを目指して駆けていく男たちの表情は真剣そのものに見えた。それはこの戦いの最後の勝負であり、目的地にはすでに着いたのだ、という安堵や緩みがいささかも感じられなかった。


 森の中にひとり取り残された小太郎は、そのことがまた不思議でしょうがなかった。彼は折り悪く気がつかなかったようだが、それは未来を願う人の命への執着心から来るものであった。他の者たちは少なくとも、今このときまで自分の進むべき道を見つめる気持ちを絶やさなかった。これはもちろん、自分と関係してきた人々の願望を未来へと繋げるためであり、それ以外のことはまったく考えていなかったはずだ。しかし、小太郎は他の旅人たちが全員走り去った後も、今の自分を捨ててまで、それを追っていく気持ちにはなれなかった。相も変わらず地面を向いたまま、必要もない考え事をゆるゆるとしながら、希望とも失望ともとれる歩みを続けていた。もう戦いは終わった。念願であった目的地へとたどり着いたのだから、そんなに焦らずともいいではないか。彼はそう考えていたようにみえる。これは冷静ではなく、気の緩み以外の何ものでもなかった。ここであえて言うまでもなく、まだ、何も決着していないというのに。どこかで青鷺の声が響いた。それに反応して、彼は不意に腰に手を当てた。


「あれ、あのお守りはどうしただろう」


 その場でついに立ち尽くし、一人でそう呟いた。逆上して妻を突き飛ばしたあと、玄関にお守りを置き忘れてきたことを思い出したのだ。突如として、信じがたいほどの寒さに襲われた。彼は極度の不安のためにその顔を強ばらせ、完全に立ち止まってしまった。その足は動くことはなかった。そのとき沸き起こった記憶は、前の晩、妻から手作りのお守りを手渡されたときのこと。そうだ、そのときからだ、自分の道に迷いが生じたのは。また余計なことを思い出した。ほとんど、意識もなく後ろを振り返った。そして、また中身のない独り言を呟いた。


「そうだ、そういえば、あの陽介はどうしたのだろうか……」




 彼がここまで追いついてくれば、一緒に狭灘にたどり着き、喜びを分かち合うのも悪くない。しかし、後ろからは誰もついて来ていなかった。気がついてみると、彼を取り囲む杉林は、ずいぶんと静かになっていた。しばらくの思案のあと、小太郎は仲間のことを半ばあきらめ、再び前を向き、一歩踏み出した。だが、次の瞬間、大地の窪みに足を取られたのか、派手に転倒してしまった。


「いかん、いかん、考え事をしていたからだな……」


 彼は自分を励ますように少し苦笑して、服についた砂を払い、起き上がろうとした。当然だが、簡単に立ち上がれるはずだった。しかし、その右足は思いのほか深く大地に突き刺さってしまったようで、うまく引き抜けなかった。


「根っこだ。木の根っこに絡まったんだ」


 彼はどうにか自分を安心させようと、そう独りごちて、再び下半身に力をこめたが、その窪みに捕られた右足はまったく動かない。そう、どうしても動かないのだ。だが、彼はこの事態にも、あまり動揺していなかった。もう森の出口も見えていることだし、自分の明るい将来は、あらかた約束されていると、そう思い込んでいたからだ。この死霊の森に、初めて足を踏み入れたときのような、研ぎ澄まされた集中力が、疲れ切っている今の彼にあろうはずもなかった。何度も何度も、額に冷たい汗を流しながら、窪みから足を引き抜こうと努力してみて、彼はようやく事態が切迫していることに気がついた。右足が蔦や木の根に絡まっているのならば、少しは動かせるはずである。だが、その窪み、いや穴に捕られた右足はどんなに力を込めても、まったく動こうとしなかった。


「これは、いったい、どうしたというんだ」


 彼はさすがに疑念を持ち、その中を覗き込もうとした。その穴はさして深いわけでもなく、少し腰をかがめただけで、その底まで一望できた。そうやってよく見てみると、彼の足は気の根っこに捕まっていたのではなかった。掴んでいたのは人間の手だった。土気色をした人の手が彼の足を押さえつけているのだった。


「なんだ、こいつは……」


 自分が発したはずのその声は、今まで聴いたことのない音質だった。まるで腹の一番底から自然に湧き上がった来たような。彼は自分でそれがわかった。そして、自分が生まれて初めて心底恐怖していることも。それを見た瞬間から、顎と首が同時にがくがくと震えて、声を出すどころか、身動きすらもできなくなってしまった。


「くそ! くそっ!」


 そう叫びながら、必死に取られた右足を引き抜こうとしたが、何ものかによって、がっちりと掴まれたそれは、もはや自分のものではなかった。仕方なく、彼は懐に手を入れ、用意しておいた短刀を探った。それで右足を切断してしまえば、この場は助かるかもしれないと、そう考えたからだ。彼は短刀を引き抜き、自分の右足を切りつけるべく身構えたのだが、そこで動きを止めた。自分の足を切り裂くということに若干の躊躇があり、なかなかそれを振り下ろす気にもならなかったのだ。こんな痛ましいをしなくとも、無事にこの危機を回避する方法が他にあるような気がしたからだ。そうだ、考えようによっては、まだ後方に案内人や陽介がいるはずだし、彼らがこの道を通ったときに、大声で助けを求めれば無傷で助かるのだ。ここで焦ってはいけない。彼はそんなくだらないことを考え、短刀をしまってしまった。しかし、その直後、状況が一変した。足を掴んでいた悪霊の手が、もの凄い力で彼の体を引き付け始めたのだ。彼は慌てて、近くの大木にしがみついた。しかし、そのときはもう、彼の右足は膝まで地面に引き込まれてしまっていた。


「まずい!」


 彼はようやく自分がどのような最期を迎えるのか理解できたようだ。額から静かに静かに血の気が引いていくのがわかった。小太郎は大木を掴む両手に懸命な力を込め、全身から脂汗を流し、必死の形相で自分の体を引き上げようとした。すると、わずかだが、こちらの力が勝ってきたようで、少し彼の右足が地面から戻ってきた。


「ようし! この意気だ」


 彼は恐怖をひた隠し、なんとか自分を励ましながら、額を汗びっしょりにして、右足を引っ張り続けた。しかし、ふと、今度は腰の辺りに違和感を感じ、顔をそちらのほうに向けた。


「げっ」


 それを見て絶句した。いつのまにか、地面からもう一本の腕が生えてきて、腰の部分を押さえていたのだ。再び、恐怖と焦りが増大し、今度は下半身にうまく力が入らなくなってきた。恐怖に負けた精神が集中できなくなったのだ。これがいったいどういう現象なのか、自分を引っ張っているものたちは何ものなのか。彼にはそのことすら理解する暇がなく、対応する策を考える余裕もなかった。彼が上を見上げると、大杉の枝に飢えた烏からすが数多集まってきていた。やつらはこんな光景をすっかり見慣れているから、これから人間が死ぬことがわかるのだ。そんなことを想像してしまうと、絶望感で胸が押し潰されそうになる。否応なく、体は地面にずぶずぶとめり込んでいった。しかし、腰の部分まで地面に埋まってしまっても、彼はまだあきらめるわけにはいかなかった。こんな状況においても、必ずや、なにか、助かる方法があるはずだと、必死になって自分の運命に抗おうとした。彼は命綱を放ってくれる助け舟を求め、辺りを見回した。するとそのとき、遠くの方から、ちゃりーんという本当に微かな、懐かしい音が聞こえてきた。


「しめた、あれはたしか……」


 小太郎がそう呟いているうちに、後方から、確かな人間の足音が聞こえてきた。その足音は独りの人間のものではなく、明らかに何人かの男が連れて走っているのだ。


「よし、これで助かった」


 彼はすでに肩の辺りまで地面に沈められていながら、まだそんな楽観的なことを考える余裕があった。やがて、自分の左後方に、三人の黒い影が走っているのが見えてきた。少し距離はあるが、大声を出せば十分気づいてくれるはずだ。


「おおい、ここだー、助けてくれー」


 小太郎は身体に残されていた、あらん限りの気力を振り絞り、これまで溜めておいたすべての言葉を出し切るようにそう叫んだ。しかし、三人の中の先頭を走る一人がちらりとこちらを見ただけで、彼らは方向を変える素振りはまったく見せなかった。誰ひとり、助けにきてくれる様子はなかった。あるいは聞こえなかったのだろうか? 


「おおい、どうした、聞こえんのか、こっちだー」


 小太郎は再び全身全霊の叫び声で呼びかけた。声はほとんどかすれていて、風か雨か判断がつきにくく思えた。足音がさらに近くなってくると、はっはっという三人の激しい呼吸音が、小太郎の耳元まで聞こえてきた。そのとき、眼の前に三本目のおぞましい手が現れ、小太郎の髪を掴んで、勢いよく引っ張った。彼の首はその勢いで反転し、通り過ぎてゆく三人の姿を間近で見ることができた。小太郎はその中に陽介の姿を見つけた。彼は痛んだ足を引きずりながらも、他の二人に支えられ、懸命に走っていた。その顔に妥協の色はなかった。自分の声など届かないはずだ。陽介や他の旅人たちは自分が生き抜くことだけを考え、自らの希望や夢のためだけに走っていたのだ。


 小太郎はもう叫ばなかった。抵抗することも止めた。そうだ、自分が考えていた妻や狭灘やこの杉林の恐怖のことなど、すべて、現実のものではなかったのだ。本当の現実は、こんな悪鬼の巣食う森にありながら、生き方に、より多くの選択肢を残し、なるべく楽をしようと甘えていたために、命を落としかけている、今のこの自分だけなのだ。なぜ、そのことにもっと早く気づかなかったのか。彼の心から、あるものが去っていった。そして間もなく、小太郎の身体は、声も光も届かぬ暗黒世界の中に引きずり込まれていった。



 杉林の外は快晴であった。早朝で気温はまだ低かったが、鋭く幾重にも降り注ぐ太陽の光が、凄惨な戦いを終えて、森を抜けてきた勇気ある旅人たちを暖かく迎えた。最初に林を抜けた男は、ぐるぐるとあちこちの風景を見回していたが、まだ信じられないというように、しばらく呆然と青く光る空を見やった。やがて、次々と後続の旅人たちが暗い森からその姿を現した。疲れのためか、あるいはあまりの状況の変化に頭が対応できないのか、皆きょとんとした顔で立ちすくんだり、幼児のように辺りをきょろきょろと見回したり、先ほどまで、命を賭して、見えぬ恐怖と戦っていた人間とは思えないような落ち着きぶりであった。やがて、一人の男が前方へと歩み、この先にはいったい何があるのかと、木々の間から遠くの方を覗き見た。


「あ、おい見ろ、あれは狭灘だ、狭灘の町が見える」


 その男の鮮やかな声は、空に高く響き、全員の意識を覚まさせるには十分の大きさだった。一斉に男たちが駆け出した。彼らは先を争うように、良い景色の見える場所へと殺到した。そこは丘陵になっていて、生い茂る木々の隙間から狭灘の城下町が一望にできた。これまで一度も荒れ果てた村の外へは出たことがない彼らにとって、その光景は別世界であったに違いない。そして、そのまま彼らの未来であると言ってもいい。巨大な城を瓦屋根の屋敷が幾重にも取り囲んでいた。大波がしぶきを上げる、広大な海も見える。それだって、彼らにすれば初めて目にするものだ。港には伝え聞いていた鋼鉄船の姿があった。


「いやあ……、しっかし、でっけえ船だ。あれは、いったい、何をするんだろう……。魚を捕るのかな?」


「あそこで煙を噴出している屋敷はいったいなんだ? あれが銭湯か?」


「ばかだな、あれは鍛冶場というやつだ。あそこで鉄を焼いたり切ったりするのだそうだ」


「そうか……、あとでちょっと覗いてみよう」


 各々の心において、先程までの恐怖感は朝霧のように消えつつあり、それと同時に希望が少しずつ膨らんでいた。美しく建ち立ち並ぶ、華やかな城下町を見て、彼らの現実感も次第に戻りつつあった。森の中での数々の悪夢は、すでに過去のものだった。そして、やはり現実のことではないのだ。これまで夢破れて命を落とすことになった、多くの旅人たちからみれば、それは素晴らしいことだった。しばらく時間が経ち、陽介も杉林を飛び出してきた。待ち受けていた者たちは、笑顔で手を振り、彼を迎えた。一緒に苦労を分かち合った同士と一頻り喜びあうと、彼も狭灘の街のことが気にかかり、多くの勇者が待つ丘陵へと歩を進めた。そして、他の旅人たちを押しのけると、一番よい場所へと自分の身を滑り込ませた。


「おお!」


 彼もまたその壮大な光景に目を奪われ、感嘆の声をあげた。陽介は過去の多くを過ごしたはずの故郷の姿をもう思い出さなかった。栗殻峠での幾多の危機もすでに忘れてしまっていた。一緒に生存を誓ったはずの小太郎のことなど、彼の頭の中に一欠けらも残っていないだろう。非情さからではない。目の前に希望があるからだ。


 陽介はしばしの間、なにも言わず、じっと狭灘の町を見据えていた。そして、自らの新しい生活と輝ける未来に思いを馳せていた。

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守り神 つっちーfrom千葉 @kekuhunter

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