第5話 運命の交錯


 先頭を歩く男たちの流れに連れるままに、小太郎は峠の頂上付近にまで達していた。今は苦しいが、後は下るだけ。身の危険は感じられず、順調に思えた。先程、坂の下で、何かが転がり落ちるような音が聞こえてきた。旅人たちを先導していた案内人は、心配だからと、かなり慌てた様子をみせて、そちらの方へ駆け下りていった。しかし、それ以外の男たちは、誰もそのことを気にかけなかった。それも当然のことで、もし、下の方で誰かが鬼や大蛇に襲われていようとも、助けようがないのだ。ここにおいては、他人への配慮や善行などといった言葉は完全に無益であり、単純に身の危険を招くのである。一時の感情から、そのような無謀な行動に走れば、自分たちまでその危険に巻き込まれ、被害はより大きくなってしまうことだろう。そういう冷静な判断から、先頭を歩く彼らは、落伍者の助けに向かわぬどころか、かえって、歩む速度をあげたものだった。


 この小太郎にしても、一度は下で倒れたのが友人の陽介かもしれぬ、という憶測がよぎった。しかし、彼はそこで足を止めるどころか、後ろを振り返ることすらしなかった。仕方がないからだ。そう、命の存続と尊い成果、つまりは、死と幸せというものを引換にしようとする、こんな状況にあっては、自分の不手際により負けてしまうような人間を思いやっても仕方がないのだ。ここでは、一人ひとりが自分だけは峠を越えられればと、そう思い込んで進んでいく他はない。その考えはきっと正しい方向へ向かうはずだ。しかし、山頂付近の酸素は薄く、呼吸はさらに乱れた。すでに目が霞むほどに疲れきっている、彼らの意識をさらにか細くしていく。


「厳しいなあ……」


 彼のそばで誰かがそう呟いた。わざわざ、この場面を選んでまで、周囲の人にそのようなことを告げる意味は何もない。不意に飛び交う音のみが頼りの漆黒の闇、そして、行く当てのない山道のあまりの過酷さから、思わず口から飛び出た台詞だと思われる。小太郎はその言葉に強く共感した。もはや、両腕も膝も思うようには動いてくれない。酸素を失った心臓はどんどんと高鳴っていく。これが目的もない旅や、行軍であったなら、とっくに行き倒れている。眼前に微かな未来が見えているから、そして、後ろには身に迫る悪鬼がいると頑なに信じているからこそ、まだ歩けるのである。


「しんどいなあ……」


 ついに彼の口からも、そんな弱音が漏れ出した。生い茂る木々の隙間から、月のない漆黒の空を見上げると、いつのまにか、この峠に入る前に目立っていた雲たちが流れ去り、風の向きが変わっていた。


「そんなにしんどいとお思いなら、いっそのこと、やめてくださいな」


 不意にそんな言葉が頭に浮かんだ。その一刻、なぜか、懐かしい匂いがした。今朝、障子戸を開ける直前、突然襲ってきた恐怖と胃痛のあまり、玄関でうずくまった彼に対して、妻はそう声をかけたのだ。浅慮から発せられたその台詞に反応して逆上してしまった。妻を思う様に罵倒し、挙句の果てには着物の胸ぐらを掴んで、蹴り倒してしまった。ああ、まったく、何ということをしでかしたのだろうか。自分の決意を歪める言葉が、ただ許せなかっただけなのだ。妻を憎む気などさらさらない。暴力にまで及ぶつもりもなかったのに……。思えば、今朝の挨拶は今生の別れであった。最後の朝くらい、笑顔で家を出てくればよかった。


 今になって、激しい後悔に捉われていた。狭灘の街に行こうと決めた、ちょうどその頃に、故郷の村に妻を捨てていくことを決めた。一生涯をこの人と決めた女を、軽く思ったわけではない。ただ、自分ひとりの身も危うい中、彼女の手を引きながら、栗殻峠を越えることなど、できるわけがなく、たとえ、狭灘に辿り着けたとしても、一生元の村に戻ることはできなくなるのだ。妻には面倒を見なければならぬ両親や親戚もいるし、自分が去った後にも、他に男はいるだろう。彼女のことは諦めるほか仕方がなかった。しかし、この日が近づくにつれて、妻だけを村に置いていくことが、ことのほか辛くなってきた。狭灘まで行くことができれば、どうあれ、自分の夢は叶うのだろう。しかし、それと同時に、同じくらい大事なものを失わなければならない。彼はその重大な決心の日から、次第に物思いにふけることが多くなっていた。ここ数日の彼のそうした態度を見て、妻としても、これが夫との今生の別れであろうと気がついたらしい。だから、別れしなにそのような言葉を口にしたはずだ。


 硬く尖った岩道を這うように進みながら、そんなことを思い返していた。次第に嫌になってきた。歩くのが、この無法な暗闇に怯えているのが、そして自分の命を賭けてまで、危険な旅を続けることに対して、嫌悪感が増してきた。そうだ、狭灘に着いても、新しい職に就き、しばらくの猶予が貰えたならば、一度は故郷に戻ってこよう。自分にはそれができるはずだ。もう一度、村に帰ろう。そして妻に謝り、共に……。彼は案内人との約束をいつしか忘れていた。精神的な苦しさの余り、そんな低劣なことを考えるようになっていた。人生の分岐においてはあり得ないその折衷案が、自分の心を休めると勝手に思い違いしていた。それは極めて危険な誤解であった。


「おうい、大丈夫ですかー」


 坂の上方から、風に乗って、そんな声が聞こえてきた。やがて、近くの茂みが通り道はどこかと探すように激しく揺れた。木々の隙間から案内人の顔が覗いた。彼の存在があることを知って、陽介は初めて胸をなでおろした。これで助かるはずだ。自分はずいぶん運がよかった。


「おお、足を負傷してしまいましたか。でも、大丈夫ですよ。もうすぐ、山の頂上です。そこからは大した障害もなく、道幅も広くなり、緩やかに下っていくだけですから。旅は順調に進むはずです。他の方は、おそらく、もう峠を抜けている頃でしょう」


 案内人はそんな創られた言葉によって、未だ過酷な状況にある陽介を励まそうとした。もちろん、怪我人という重荷を背負ってしまった、この状況はまったく楽観視できるものではない。ここに置かれている二人が、無事に峠を抜ける見込みはそれほど高くないと見ていたはずだ。だが、そんな非礼な思惑を少しも表情には出すまいと、考えた上での発言のようだ。彼は落ち着いた動作で腰の袋から数枚の布切れを取り出し、それを陽介の右足に素早く巻きつけた。


「これで大丈夫でしょう。出血さえ止まってしまえば、この程度の怪我は思ったほどの重荷にはならないですよ。この先は三人で助け合って行動致しましょう」


 この男はなぜ何度も同じような物言いを繰り返して、自分を安心させようとするのだろうか。時の経過とともに、陽介は少し不気味に思うようになった。行く手を阻むように生い茂る草木を、三人で手持ちの鎌で掻き分けながら、さらに奥地へと進んだ。陽介は辺りの様子を少し気にしてみせた。なぜか、何ものかに見られているような気配を感じた。心を針で刺すような不安は最初から感じていたのだが、今は、それが未来を阻む巨大な壁に見えてきた。そういえば、この森に飛び込んだ頃は、多少なりとも鳥や小動物の声が、この耳に聞こえてきたものだった。しかし、今は自分たちが落ち葉を踏みつける音と苦しさの余り、口から吐く呼吸の音しか聞こえなくなっていた。この不安は単に感覚的な問題なのだろうか? そんなはずはない。


「おいおい、ずいぶん静かになっちまったなあ」


 助けに来てくれた男も同じようなことを考えていたようだ。そのまま、ふと首を右方に向けると、いつのまにか案内人の表情が先程とは打って変わって、険しくなっていた。おそらくは、彼も事前に感じていたのだろう。我々をすぐ近くから見つめ、監視し、あざ笑い、その微かな隙を伺っている、悪霊たちの存在に。


「できる限り早く、この場所から離れたほうがいいようです。少し急ぎましょうか」


 今度は突然そんなことを言い出した。彼は陽介の左腕を強く引いた。訳も分からず、緊張が高まった。せめて、錯乱しないように努めるしかなかった。


「そうだな、そろそろ速度を上げないと、前のやつらに追いつかなくなるぞ」


 大男もそれに同意した。二人とも、案内人の賢明な判断に賛成した。しかし、彼としては、歩く速度を上げることには、何か他の理由が隠されているような気がしてならなかった。自分の足の状態を知っているはずの人が発する言葉としては、少し辛く、違和感のある台詞に感じられた。


「他の生き物の声があまり聴こえなくなりましたねえ……」


 このまま沈黙が続いていくことに恐れをなして、案内人にそう声をかけてみた。自分を励ますような、温かい返事がくることを期待して。


「動物たちも鳥たちは、すぐ傍にいるんですよ。でも、彼らだって声を出せないのです。地面の底で耳をそばだて、こちらの弱みを知ろうとする存在により、すでに危険が迫ってますからね」


 そんな理解しがたい言葉が返ってきた。相変わらず必要な言葉が足りないと思われた。そして次の瞬間、隣を走っていた大男が「ううっ」という、うめき声をあげ、前方に倒れ伏した。足腰が一番丈夫そうに見えた人が、突然に崩れ落ちたため、ずいぶん、不自然に思えた。


「どうしました、大丈夫ですか」


「うわっ、なんだ、変なものに足を掴まれちまった。なんだ、これは……」


 彼は先程までとは打って変わり、かなりの動揺がみえた。自分の身に迫る危機を確実に感じ取っている悲鳴であった。


「何に掴まれたんですか? 動物ですか?」


 陽介はいまだにこの状況を飲み込めておらず、のんきそうにそう言うと、腰を少しかがめて、何の気なしに脅える男の足元を覗き見ようとした。


「あなたは、見てはいけません。離れなさい、巻き込まれますよ」


 突然、案内人がそんな大声をあげて、陽介を藪の中へと突き飛ばした。そして、そのままの勢いで腰から脇差を引き抜き、大男の足を握りしめている何かを強く切りつけた。ぐしゃという音がして、黒いものが地面の方々へと飛び散った。夜陰にあってそれは見えなかったが、多分、血だろう。陽介はなぜだか、それが分かった。案内人は素早く刀をしまうと、沈黙のままにうつむき、両の手を合わせて経を唱え始めた。もはや、腰に力が入らず、地べたに座り込み、唖然としている陽介のところまで、彼が小声で唱えるお経の声が響いてきた。恐怖のあまり顎が固まり、声が出なかった。自分の救いになる行為とは、とても思えなかった。やがて、それが終わると、助けられた大男は顔を強張らせながら、ゆっくりと立ち上がった。


「なんだ、今のは……、地面から飛び出してきたのは、間違いなく、人の手だったぞ……」


 その声も身体も震えて止まらなかった。陽介も自分の憶測を確かめるべく、勇気を振り絞り立ち上がった。いったい何ものが襲ってきたのかと、案内人が切り割いた場所を、彼らの背中の向こうから、恐る恐る覗き込んでみた。


「見てはいけませんよ!」


 その瞬間、横から案内人がそう叫んで、陽介の腕をしっかりと掴んで押しとどめた。しかし、彼は一瞬だけ、それを見てしまった。地面の上に転がっていたのは、たしかに、土に汚れた人の手のようなものである。それだけではない。そのやつれ切った、醜悪で悪意に染まる手の風貌は、ある恐るべき予測を想起させることになった。しかし、そんな筈はない。彼はとっさに自分の思いを吹き消そうとした。これ以上の恐怖があったとしても、とても背負いきれない。今のは、何かの間違いであると、そう思い込む他はなかったのだ。


「このことについては、峠に入る前に説明したはずです。多くの方がこういう亡くなり方をしたと。あなた方も亡者に変えられないように、気をつけてください」


 この冒険の最終的な結果から見た場合、この体験は幸いだといえた。この悪意の峠から、一刻も早く立ち去るべく、三人は肩を組み、がむしゃらに坂道を登り続けた。陽介は地面から生え出た、かつての落伍者の成れの果てを見せられたことで、返って開き直ることができた。自分の足の痛みさえも、いつしか忘れることができた。もう、余計なことを考えるのはよそう。故郷の母も、暗く狭い道も、前を塞ぐ岩も、仲間だったはずの小太郎のことも。この薄気味悪い森さえ何とか抜けてしまえば、いつの間にか身についた、恐怖や迷いは確実に去るはずだ。そして、再び、命を狙われることのない、安閑とした日常が戻ってくるのだ。今は前を向いて進むしかない。どんな障害にも知恵を働かせ、懸命に進んでいくことしか、自分に出来ることはない。ようやく、迷いを捨てられた陽介の足取りは軽く、前を行く他の旅人たちの背中に迫りつつあった。

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