第四話 陽介の危機
その頃、後方の隊列を進んでいた陽介の状況は、少しずつ悪化し始めていた。傷を抱える足元をしきりに気にしていた。痛めた右の足首からは、ついに血が吹き出してきた。自然と腰をかがめ右足を引きずるような体勢になった。それに伴い、歩む速度は確実に落ちていく。近くに見とめた岩に手をかけて、力を入れて進もうにも、その下半身に力は入らず、そそり立つ険しい傾斜を、今や乗り越えられなくなっていた。人生の岐路においては、ほんの少しのことで、気持ちは負の方へ傾く。精神が一度でもよろめいたなら、その身が遥か崖下にまで転落するのも、当然の成り行きである。皮肉なことに、この暗闇にも次第に目が慣れてきた。案内人が手に持つ灯や、他の参加者の背中が動く様は、もはや、視認できないほどに離れていた。自分の身だけがこの隊列から遅れ始めていることが、はっきりと認識できた。焦りからその足を速めようとするたびに、踏破させる気など持たない何ものかに抵抗されている気がした。どこからか烏の鳴き声が聴こえた。誰かが己の命を失くしたのかもしれない。それを考えることも辛い。自分だけはと、はやる気持ちと不安から襲い来る逡巡。案内人の鳴らす鈴の音は、少しの時間が経つごとに遠ざかっていく。このまま皆から逸れてしまったなら、どれほどの幸運に恵まれたとしても、この峠を生きて抜けられる可能性はなくなるだろう。自分の速度を上げることは、もはや、考えられないわけだ。前を進む仲間たちに見捨てられ、ここに置いていかれることは、直接の死を意味している。無論、前にいる誰ひとりとして、後方の自分を振り返ろうとはしない。おそらく、自分が順当に進んでいたとしても、他の落伍者に対しては、そういう態度に出たはずだ。
人生の大きな賭けに出た冒険者たちは、この地に巣食う亡霊などより、情けない仲間に足を引かれることの方をより恐れる。こうなった以上は、自分の力で解決しなければならない。そのことは陽介にも当たり前のように理解できている。しかし、その身体は空回りしていた。焦るたびに両足には余計な力が入り、山道をうまく捕らえきれなくなっていた。自分の力量不足が、ここに来て嫌というほど実感できた。先ほどまで、すぐ傍を進んでいたはずの同志の気配は、次第に感じられなくなっていった。
「進む道も分からず、夜明けまではまだ遠い。もう、だめだろう」
彼はそのとき、そんなことを考えた。他の者の死については覚悟していたし、その際には手を差し伸べられぬこともよく分かっていた。しかし、自分の方がこんなに早く根を上げるとは考えてもみなかった。何という運命の冷たさか。しかし、敗死という結末が、成り行き任せに進んできた、自己の半生の漂着点であるならば、受け入れる他はないのだろう。
『知らない街に移り住んでまで、人生を変えたいと言うのかい。でもね、あの峠を無事に越えられた話なんて聞かないんだよ。どんな人間に付いていくかは知らないけどね、そんなに危険なことは、やめたらどうだい?』
あのときの母の声が、今また記憶の底から蘇ってくる。彼が栗殻峠へと出かけることを両親に話したのは、出発日が三日後まで迫った深夜であった。自分の勝手で出て行くというのに、余計な心配はかけたくなかった。今生の別れになることも明白であった。案の定、両親はそれを聞いて絶句してしまった。彼らとて、やがては、この家を継ぐはずの大事な一人息子を、簡単に危険な旅へと向かわせるわけにはいかなかった。しかし、もはや、出発日は目前に控えている。今さら懸命に止めてみたとて、頑固な息子の決心が揺らぐとは到底思えなかった。
「それなら、死ぬことだけはやってくれるなよ」
寡黙な父はそれだけ呟くと、おもむろに立ち上がり、寝所へ向かった。母は夜明けまでの長い時間泣いていた。何とかあきらめがついたように見えた。しかし、そのやつれた表情は「おまえ、危なくなったら、何としてでも逃げ戻ってくるんだよ。逃げることなんて、両親より先に死ぬことに比べたら、恥ずかしくも何ともないんだからね」と訴えているように思えた。生涯を賭けた願望を捨ててまで、逃げ落ちてくるなど、いささかも考えてはいなかった。しかし、母のため思い、その場では同意しておいたのだった。
窮地において、こんなことを思い出すことは、縁起のいいことではない。陽介は人生の結末が確実に迫っていることを感じていた。俺はまだ若い、こんなところで死んでなるものかと、必死に皆の背中を追いかけているつもりだったが、極度に悪い視界と、巨大な岩に阻まれた細い道、あるいは、足元に生い茂る雑草などにその動きを阻まれ、うまく足が進んでいかなかった。直後、目の前に巨木が現れ、身体はとっさに大きく右へ寄れた。その途端、地面の窪みに足を取られ、真後ろに転倒してしまった。陽介は焦った。心臓が急に高鳴った。彼は大きな荷物を背負っていたので、後方に負荷がかかり、うまく立ち上がれなかった。
「まずい、とんだことをしてしまった」
陽介はそう叫び声を上げ、ほとんど半狂乱となって、身体を右へ左へとよじり、足をばたつかせたが、坂の下に向いている頭の方に大きな力が加わっていたために、立ち上がれる気配はなかった。一度荷物の結び目を解こうとしたが、寒さで手が悴んでいて、それもうまくいかなかった。状況は刻々と絶望的なものになっていく。熱い脂汗が額を伝ったが、どんな手段を用いたとしても、どうにもならないことは明白であった。その上、右足を負傷していたことを思い出し、彼はさらに暗い気分に陥った。このままここにいては、鬼が出なくとも、狼でも山犬でも眼前に現れれば、そこで一巻の終わりだ。彼は最後の力を振り絞り、大きく身体を左右に振った。その激しい動きは、深い茂みの中で、がさがそと大きな音を立てた。そして、次の瞬間、顔に何か生暖かいものが触れるのを感じた。陽介は絶叫した。
「おい、おめえ、大丈夫か。こんなところで躓いて転んだのか?」
魔物のそれと聞き違えるほどに、かなり濁った声。しかし、それは間違いなく人のものだった。その声に反応して、とっさに首の角度を変えて、顔を後ろに向けると、視界には熊のような大男が映った。たしか、ここまでの道中において、その優しげな風貌は、何度も見かけた印象が残っていた。男は陽介の肩を力強く掴むと、そのまま一気に身体を引き起こしてくれた。しかし、彼にはまだ助かったという実感はあまりなく、思考は停止したままだった。死と直面するような恐怖から、簡単に立ち直れる者はいない。おそらく、相手が自分を害する存在であったとしても、同じような心持ちに陥ったに違いない。この頃の記憶は薄く、しばらくの間、呆然としたままであった。
「おい、足を怪我しちまったようだな。本当に大丈夫なのか?」
彼はまだ意識を取り戻せないでいる陽介のことなど、一切意に介せず、自分の方で話を進めた。
「いや、さっきまでは平気だったんだがね……、本当に申し訳ない……、今はかなり痛むんだ」
輝く未来のために、己が命を賭けて、ここまで懸命に走ってきた者にしては、ずいぶんと弱気な発言である。自分の虚言とふがいなさから窮地が派生して、関係のない者まで巻き込むことになった。陽介が情けない気持ちでいっぱいになるのも当然である。
「それなら、俺が右肩を支えてやるから、早く追いかけよう。ほら、立ち上がりな。このままじゃ、連中に追いつかなくなっちまうぞ」
大男はそう言って、陽介を片側に支えながら歩き出した。
「なあに、慌てることはない。この峠の本性がようやく表れてきた。伝え聞く死霊どもが出てくるのは、おそらく、これからなのだろう。前に行った連中だって、このまま上手くいくとは限らん。今頃どんな目に遭っているか、わからんよ」
その男も大きな荷物も背負ってここまで登ってきたので、その動きに疲労の色は濃く、表情もずいぶんと険しかった。しかし、それを気にかけずに、窮地にある自分を助けてくれた。彼にはそれが嬉しかった。そして、この峠を抜けることが叶ったなら、必ず、この男を友として、丁寧に礼を言おうと心に決めた。ただ、思い返してみると、誰かに声をかけられた瞬間に、陽介は窮地を救うために駆けつけて来た小太郎の存在を頭に思い描いたものだった。しかし、助けられてみると、その男は小太郎ではないのだ。そのことを強く意識したつもりはなかった。ただ、そのとき、ふとある思いが胸を突いた。
「小太郎は今頃どうしているのだろうか……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます