第三話 山道での恐怖
空が暗く染まってみると、山道の様相は一変していた。猛獣でも落石にでもなく、ただ暗いということだけに警戒をせねばならなくなった。道の上に、この先を乗り切るための材料になる何かを探す者もいた。置き去りにされた数少ないすすきの穂だけが、ふらふらと風になびいていた。すっかり葉っぱの抜け落ちた老木と、山頂から吹き降ろすから風が、人の踏み込んだことのない山道の寂しさを強烈に演出していた。ここいら一帯は、雑草や芝が伸び放題で、獣道すら存在していなかった。きちんと前の背中を見ていなければ、いつでも、足を踏み外す恐れがあった。肌に触れる細い枝の先や、ほんの少しの坂道の変化が、道を遮る異様なものに思われた。普段は気にも留めぬ小石を踏んだだけで足元がふらついた。栗殻を名乗る峠に着くまでの約一刻ほどの歩みで景色は大きく変わった。高地ということもあってか、その頃には山道に緑は見られなくなっていた。そのため、初めてここを訪れる小太郎たちにとっては、たとえ昼であっても、峠へ進む方向すらわからなかったであろう。しかし、前を進む案内人の足取りには露ほどの迷いも見られず、これまでの経験から、峠を最短で抜ける方向に、おおよその見当をつけているに違いなかった。ある地点に着くと、案内人は松明の灯を高く掲げた。目の前に突如として広大な杉の林が姿を現した。そのとき、日は完全に沈んでしまっていた。
「ここからが栗殻峠になります」
そう説明されるまでもなく、山全体がまるで大量の杉をかぶせられたような、この光景を見せられれば、誰でも想像がつく。なるほど、これは栗の殻のようだと。試みにすぐ傍にある草木を掻き分けて、杉林の中を覗き見ても、そこに方向を指し示す道は見えなかった。いや、そんなものは古来より存在していなかった。隙間なくそそり立つ巨木の大群と、視界を塞ぐ灌木、足元に茂る雑草どもが、人の侵入を敢然と拒んでいるように思えた。これまで、どんなに山道が険しくとも、常に一定の速度を保ち、力強く歩んできた旅人たちも、この現状を前に、さすがに臆したのか、そこで数人が自然と歩みを止めた。一寸先も見えぬ漆黒の中で、ここを通り抜けることは、誰の目にも困難なことに思えた。
「打ち合わせの通り、ここでは少しの休憩も取りません。漂ってくる霊気の感じでは、狭灘へ通じる本道に入るのは、今が一番良い頃合いでしょう。迷いはありません。すぐに出発します。大丈夫です。峠の中ほどに至るまでは、私のすぐ後をついてきてください。視界が悪いので隊列からはぐれないように。もし、灯の光を見失ったら、この鈴の音を目標にしてください」
案内人はそう声をかけると、背負った袋の中から、細い木の枝を取り出した。その枝先には幾つかの鈴がぶら下がっていて、彼が枝を振ってみせると、ちゃりちゃりと鳴いた。
「これは私の故郷では死地において身を救う守り神といわれています。今日のために神社でお払いをしてもらいました」
後にして思えば、この言葉はずいぶん印象的なものだった。彼は手に持った鎖鎌で、入り口付近の邪魔な古木を乱雑に切り倒すと、躊躇せずに杉林の中に踏み込んでいった。後方にいた冒険者たちは、まだ誰ひとりとして後をつけていく決心など準備できていなかった。しかし、ここで遅れをとるわけにはいかない。あれこれと考える暇すらなく、他の旅人たちも、後に続いて暗闇に飛び込んでいった。その様子は、深手を負った獲物を取り逃がすまいと、あえて崖から飛び降りていく獣のようにも見えた。
「おい、何も見えんぞ。みんな、どこにいる?」
誰がそう叫んだのだろうか。真っ暗な森林の中で、これまで心中の奥深くに潜んでいた恐怖が破裂することになった。切り株や小石に足を取られて転倒する者を蹴飛ばして、押しのけて、次々と顔にあたる木の枝を使える方の腕で乱暴に振り払い、目印である先頭の灯りを懸命に追いかけた。早々に脱落しそうになった者は前を過ぎる人影に組み付いて、何とか生き延びようとしていた。あちこちで乱闘が起こっていたが、当初計画されていたはずの助け合いは、ほとんど見られなかった。最初は不安を押し殺し、押し黙っていた者たちも、時が経過することで、緊張より恐怖心が上回ると、次々とあらぬ声を張り上げるようになった。
「あ、足に、足元に何かいるよ!」
「何ひとつ見えねえぞ! 前の奴らは灯りを掲げろ! おい、みんな、どこにいるんだ!」
未来というよりも、まずは生命がかかっているので当然であるが、皆、自分だけは置いていかれまいと必死だった。漆黒の中、あちこちで杉の木に体をぶつける音や、木の根っこや、まるで罠のように、わざわざ通り道へと枝を伸ばしてくる草木によって腕や足を取られ、転倒するような音が方々から耳に届いてきた。
「落ち着いて。もうすぐ、見通しの良いところへ出ます。ここで慌てないでください。鈴の音を、鈴の音を聞いてください」
案内人は皆にそう呼びかけながらも、時々、右手に持っている神木を、ちゃりちゃりと鳴らした。どこまで進もうと、この先に見通しのきく場所など、現れようもないのに、なぜ、そのような嘘をつくのか分からなかった。小太郎は周囲で喚いている人間たちと違って、心はそれほど慌てておらず、助けを求める声を出す気もなかった。ここは魔の峠である。命がかかる冒険においては、孤独が当然である。このぐらいのことは事前に予想できていた。先行きへの不安は当然あったが、こんなところから叫んでいたなら、疲れが溜まってくる中腹以降にしんどくなるに決まっているからだ。周りがどう騒ごうと、今は冷静に追っていく。ひたすら、視界にかろうじて目に入る、前の人の両脚だけを見つめて、一定の速度を保って山道を登り続けた。なるべくなら、顔を上げることはしたくなかった。こんなに視界が効かない状況では、そもそも、なにも見えるわけはない。それに、もし、顔を上げたとして、自分の眼前に大蛇や鬼の形相が映ったとしても、どうにもならないのだから。周囲の様子を確認すること自体無駄である。疲労で足腰が弱ってきていて、どんなものに襲われても、まったく逃げ切れる気はしなかった。今生きている事実が、天運に救われていることだと思う他はない。後戻りしようにも、元々、どこにも逃げのびる場所などない。少し未来の自分の姿が運任せとは嫌なものだ。否応なく精神は疲れてくる。この自分としても、少しばかり、夜の山道を甘く見ていたのかもしれない。ぜいぜいと息を切らしながら、小太郎はそんなことを考えていた。
かなりの間、暗闇の中を登り続け、ふと、後方を振り返ってみた。すでに杉林の入り口はどこにも見えなかった。周りはすべて大小さまざまの杉の影、そして、足元には障害となる雑草と岩があるだけだった。辺りを漂う空気は、どんどん冷たく、そして陰湿になっていく。もう、先ほどの茶屋にも、そして故郷の村にも戻れない。例え、どんな手段を用いたとしても、退路はないのだ。こんなことなら、武器など必要はなかった。小太郎はそこで初めてそんなことを考えた。少し胃袋が寒くなった。夜になって気温が下がったせいではない。それでも、彼の歩みは一定を保ち、かろうじて聴こえる足音につられながら、真っ暗な杉林の中を突き進み、順調に目的地へと近づいているように思えた。
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