第二話 案内人の説明


 囲炉裏に集った、旅人たちは、この嫌な間合いを何とか潰そうと、各々話し相手を見つけて他愛もない会話を仕掛けているようで、ごにょごにょと低い囁き声が聴こえてくる。しかし、その薄暗い表情から、前向きな話とは思えなかった。これからの厳しい展望を睨み、何か予測不能な出来事が起きたときの対応や連絡の取り方を練っている輩がほとんどだろう。故郷の村から持ち出してきたか、盗んできたか、そのわずかばかりの金銭を用いて、苦無や小刀を買い求めている者も多くいた。しかし、彼らはたったこれしきのことで、確実な安全を買うことなどできはしないことも重々承知していた。全ての心づもりや準備はやがて無駄になり、死ぬときは死ぬのだろうと誰もが感じていた。


 やがて、奥の間から、案内人が準備を終えて出てくると、その密やかな話し声も途絶えていった。彼は左腰に脇差しを差してきたが、その堂々とした風貌から、元々は名のある侍なのではないかと思わせた。彼の存在自体が、この奇妙な旅路にもう一つの疑問符を付け加えていた。


「皆様、お待たせしました。準備の方は、もうよろしいですか? 用を足したいという方はおられませんか?」


 案内人はまずそう問いをかけた。小太郎も陽介も周りに並んでいる顔を何度か確認した後、小さく頷いた。多くの人間が彼らと同じ行動をとった。その場の空気はきわめて暗かった。案内人は全員の様子を一度見回して、決意が鈍っている者はいないと判断した後、意識的に沈めた声で話を続けた。


「それでは、まず、体調の方をお聞きします。いかがでしょうか、怪我をしてしまった方、気分がすぐれない方はいらっしゃいませんか。もし、いらっしゃいましたら、今、この場で申し出てください。もし、体調などに不具合がありますと、栗殻峠に入ってしまってから、取り返しのつかないことになってしまうでしょう」


 案内人は少し寂しそうな、何か、ものに脅えるような顔をしながら、皆にそう呼びかけた。それは、これまで幾人もの不幸な死を見てきた顔だ。このような未来を賭けた挑戦の場合、敗退はやり直しにはならないのだ。陽介は肝が冷えた。今の言葉が、まるで自分に対して向けられたように思えたのだ。しかし大丈夫だ。このぐらいの怪我ならば皆の背中にすがっていけば、上手くごまかせる。今のうちは黙っていても問題あるまい。汚れた半生を覆すためなら、崖のような岩道だって駆け登ってみせると、そう思い込みたかった。その決断は揺らめいていた。必ずや勝利すると、自分の繊細な気持ちに強く言い聞かせるようにした。


「それでは…、これから峠に向かって出発いたします。ここに至るまで、皆様方に、この栗殻峠についての予備的な知識をひとつも与えられませんで、まことに申し訳ありませんでした。ただ、誤解なきように願います。これまでに何度かこの恐るべき峠を往来した体験から、初めて峠に入る方には、なるべく余計な知識を与えないほうが良いであろうと、個人的に判断いたした次第であります。決して、皆様を欺こうと考えたわけではございません。しかし、この地まで、この茶屋にまで来てしまえば、皆様の心中におかれましても、すでに前方へと歩を進めていく覚悟がお決まりになっているかと思います。ですから、あの忌まわしい峠に踏み込む前に、やはり、栗殻峠について、あの心霊の地が、いったい、どのような場所であるのか、それを少しでもお話をしようと思った次第です」


 案内人はゆっくりと噛んで含めるような口調でそう話した。小太郎は座り位置を変えずに身を前に乗り出した。陽介は思わず唾を飲んだ。


「ご承知のとおり、栗殻峠の由来のことは、これまで近隣の村々でさえ、あまり知られていませんでした。しかし、陸地から危険な山道を抜けて狭灘の城下町へと至るためには、現在ですと、栗殻峠を通過する以外にはないと考えます。運輸用の船を持たない山地の村に暮らす人々のうちの何名かは、これまでの長い歴史においても、おそらくですが、何度となく栗殻峠の通り抜けを試みたのでしょう。幾人かの寒村に住む古老から、それを証明するような話を伝え聞いたこともあります。ですが、その大胆な決心のたびに、大多数の人間は峠の最中で命を落とし、友と認め合った仲間たちの危機を見捨てて、命からがら狭灘の町に辿り着いた者ですら、もう二度とあのような悪霊の峠には入りたくない、この先は故郷の家族にも会えずに生きた方がまだましだ、との思いから、再び元の村に戻るという愚を犯してまで、峠において起きた出来事を後世まで伝えていこう、などという、無謀な判断をしなかったわけです。ですから、狭灘の都市が栄えてから数百年が経過した今日まで、この付近の村の大多数においても、栗殻峠の内情について、深く知っている者は、ほとんどなかったわけです」


 案内人はそこで一呼吸を置いた。そして、一人一人の顔を睨みつけるように、もう一度、ゆっくりと部屋の内部を鋭く見回していった。それは狩人が縦に並び歩く大勢の猪の群れから、もっとも肥えている一頭、狩りたてるに足る一頭を探し求めているかのようであった。


「皆様に以前お話しました通り、私は幾度かあの峠を往来したことがあります。まだ、誇れるほど多くはございませんが、これからの日々を狭灘の街で生きたい、という願望を持った方々を、幾度となく峠の向こう側へ送り届けて参りました。しかし、まことに残念ながら、毎回幾人もの犠牲者を出してしまうことも事実です。そのことにつきましては、ご参加を希望する皆様からの了承を事前に取ってありますので、私自身としましては、それほど大きな問題とは思っておりません。しかしながら、そういう人々の非業の死に直面するたびに、この峠を越えるために必要なのは、ただの体力ではなく、精神の力なのだ、ということを思い知らされます」


 案内人は再び間をおき、皆の顔の一つひとつを、嘗め回すように、さらに一度見回した。すでに峠の悪鬼が皆を睨めつけているような空気であった。


「先ほど、皆様にご気分のことをお伺いしたのはそのことなのです。本当によろしいでしょうか? 栗殻峠に入ってしまってから、一番脳裏に描いてはいけないことは、もう元の村に帰りたい、止めたい、逃げてでも生き延びたいと思うことです。なぜならば、そのような精神力の弱さにつけこまれたことで、これまでに多くの方々が命を落とす羽目になったからです。魔物は生き物を外見では区別しません。常に我々の心を見ているのです」


 案内人はこのとき、山中でどのような異物が現れ、旅人の弱みにつけこんでくるのかについては、あえて話さなかった。


「ああ、やはり、山の奥では鬼が出るのだろうか」


 陽介は激しい悪寒に身を震わせた。小太郎も目に見えぬ何かに心臓をつかまれるような思いがした。精神などというものは、ことが起こる、その時になってみなければ、どう変わるかわからないものだ。このような人の助けのない奥地にまで来てしまってから、そんな手厳しい話を聞かされても、どうしようもないではないか。今になっては背後に道はなく、取り返しがつかない。しかも、希望ある未来か命かという、こんな両極端な選択を示されてしまったら、否応なく家に戻りたくもなってしまう。


 小太郎はそのとき、生まれ育った小さな家のことを思い描いた。そこに帰っても、大したものが待っているわけではない。この侘しい茶屋よりも、さらに狭く貧相な二間の上に、藁葺きの屋根が付いている。痩せこけて死にかけの牝牛が一頭、それと狭い水田と畑がある。二年前に村長の紹介により結婚した女房が一人。そして、いつの間にか屋根に住み着いた燕の親子。夢を打ち捨てて戻ったところで、彼を待っているのは、たかがそれぐらいのものなのだ。しかし、自分の住処というものには、他の場所では絶対に得られない何かがある。自由とか、安堵とか、安らぎとか、単純な言葉では説明しにくいが、自分の家というのは、彼が唯一、意見を気楽に思い通りに、ぶちまけられる場所でもあるわけで、そういう意味では非常に稀有な存在であった。それと比較すると、今の状況は最悪である。こんな寂しく危険な場所に置かれて、ろくに話したことも無い連中と一緒に集められ、命を賭けてまで、内情すら伺い知れぬ、未知の領域へと踏み出そうとしている。そんな全く気を抜けない状況の下で、今度は『家に帰りたいなどと考えるな』ときたものだ。まったく、冗談ではない。当初の話とはまるで違う。これでは制約が多すぎる。


 小太郎は脳自体が重心を失うような、軽いめまいに襲われ、気分が悪くなった。自分は本当にこんな素性も知れぬ案内人に導かれて、狭灘へなど行きたいのだろうか? そもそも、この目の前の男は出身や名前すら名乗らず、必ずしも味方とは限らない。こちらを手助けしたいという熱意もまるで感じられない。地獄のような峠を踏破できる気など、まったくしなくなってきた。彼は自分が両手を堂々と振って、狭灘の城下町を歩いている画を頭に思い描けなかった。極限の恐怖という厚い障壁が現実感を遮っていた。しかし、それでも、何が起こっても、なんとなく、自分だけは峠を越えられるのではないか、とも考えていた。それは、死ぬ気がしなかったからだ。今の段階においては、狭灘へたどり着くということよりも、栗殻峠で意味もなく死ぬことの方がよほど非現実的である。そのことに思い至り、小太郎は少し安心をした。自分が、自分だけは、死ぬわけがないのだ。おそらく、今、ここに集まった旅人のすべてが、同じようなことを考えているに違いない。


「このことについては、あまり多くは触れませんが、峠道の途中において、もしかすると、皆様がこれまでには目にしたことのない、異形のものが現れるかもしれません。しかし、たとえ、自分の身にどのようなことが起こっても、どのようなものを見てしまったとしても、何としてもこの道を通り抜けたいという執念において、乗り越えてください。私はどのような障害や恐怖よりも、今日、ここにお集まり頂いている方々の、目的地へ向かう執念の方がそれを上回ると、堅く信じております。今、申し上げることはそれくらいです。それでは、出発致しましょう」


 案内人は取り付く島もなく、奇妙きわまる説明をそのような形で締めくくった。すると、誰からともなく皆次々と立ち上がり、無言で土間に降り立ち、草鞋を履き始めた。気がつくと、先程のお婆が奥から出てきて、死地へと赴く旅人たちに、事前に用意してあった笠を手渡していった。最期の中継地となる茶屋の中には、意図せず、陽介と小太郎だけが残されていた。囲炉裏から漂う、微かな藁の匂いが感じられた。二人の動きはそのときほとんど同じであったが、陽介は無意識のうちに小太郎よりも早く戸外へ出た。最後に土間に残ったのは小太郎だった。そのことは彼にとって意識的なことではなかったので、さほど気にも止めなかった。最後に小太郎が茶屋から出てくると、案内人は全員の姿が揃っていることを今一度確認して、庭先に置いてあった、磨き抜かれた鎖鎌を左手に握り締め、峠に向け、再び一歩ずつ歩み出した。小太郎や陽介たちも否応なくそれに続いて歩んだ。初秋の情景はすでに光を失っていた。旅人たちが茶屋を去るのを見て、屋根に留まっていた烏が、くわあとひと声鳴いてから、いずこかへと飛び去っていった。

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