守り神

つっちーfrom千葉

第一話 死地への出発、親友との会話


 当初の目安通り、夕方近くになって、ようやくその茶屋へ到達した。すでに日は陰っていて、杖をついても坂道を歩むことは困難だった。峠道は岩石に阻まれ、狭く、常に険しく、他の旅人や動物たちの姿はどこにも確認できなかった。なんとか正気を保とうと、辺りの景色を見回したが、この異様なる茶屋以外には、近くに人家は見えないようである。しかし、その小さな存在は、なんとか光を見つけようとひた走ってきた男たちの心に、仄かな灯りをともした。


 そこは藁葺き屋根の外見で、全体にずいぶんとみすぼらしいあばら屋であった。他に選択の余地もなく、中に入ることにした。思ったより暖かかった。小太郎は草鞋を乱暴に脱ぎ捨てると、真っ先に障子戸を開け、めらめらと燃えさかる囲炉裏火に遮二無二取り付き、何か特別なものでも見つけたかのように、揺れる炎を覗き込み、それに手をかざしてから、はあと大きなため息をついた。彼が囲炉裏の向かい側に座っていた、小さな老婆に気がつき、とっさに会釈をしたのは、その後である。老婆はたいして理由もなく微笑みながら「ようこそ、ようこそ」としゃがれた声で言いつつ、白髪頭を深々と下げた。その礼儀正しさに恐縮してしまい、小太郎はもう一度頭を下げることになった。彼とともに、この旅路に挑む、他の者たちも続けて飛び込んできた。彼らはこの家の見も知らぬ所有者に対して、何の遠慮もなく、どたどたと上がり込んできて、囲炉裏端を隙間なく取り囲んだ。この茶屋に入り込んできた者は、全部で十人にもなるだろうか。


「いやあ、寒いねえ、いくら山の中腹とはいっても、まだ秋口だというのに、こんなにも寒いのじゃなあ……」


 その中の一人が、誰に話しかけるでもなく、独り言のようにそんなことを言った。ただ、その言葉はここにいる皆の思いを代表したいという趣きがあった。しかしながら、自分の隣にいる者たちが、この先も味方であるわけではない。もちろん、全員が顔見知りというわけでもない。その誘いの言葉に対して返事をする者はなかったが、なぜか多くの者が意図せずに深く頷いていた。あまりの寒さと疲れのために、山道でのことを声にして出すのも億劫であった。愛想笑いすら、馬鹿馬鹿しいことのように思えた。しかし、少しの時の経過によって、皆の顔が少しずつほころんできた。何を思ったのか、あからさまに笑い出す者さえいた。念願の目的地へと一歩近づいた安堵感と高揚感がそうさせるのかもしれない。


 だが、貴重なる安息の時は長くは続かない。入り口にあの名の知れぬ案内人が姿を見せると、皆の顔から、必然的に笑みが消えた。再び、多くの障害を乗り越え、この山奥まで必死に歩んできたときの、重苦しい表情へ戻ってしまった。小太郎もこの際に小さな喜びを捨て、眉間にしわを寄せて、再びうつむいた。老婆は全員に茶を出し終えると、この場の陰鬱な気配を感じ取ったのか、速やかに奥の間へと消えていった。この場に集められた、無謀な旅行者であるこの者たちだけが、これからどこへ向かうのかを、よく知っているからこそ、かける言葉は少しも無かった。得体の知れぬ案内人は、老婆の背中を見届けてから、自分も草鞋を脱ぎ、囲炉裏に集う者たちにゆっくりと近づいていくと、一度頭を下げてから、皆の間に、どっかりと座り込み、あの緩やかな口調で語り始めた。


「ええ、皆様、ご無事でなによりです。たいそうお疲れでしょうが、ここまで皆様全員、無事にたどり着けまして、なによりでした」


 その最初の言葉を聞き、小太郎たちは少し緊張を解いて頭を下げた。案内人は一同を見回して、全員の表情を逐一確認してから、その話を続けた。


「皆様がずいぶんお疲れだということは、重々承知しております。しかしながら、ここはまだ山の中腹です。村での寄会でお話ししました通り、長く休憩を取るわけにはいきません。あと、半時ほどで焦点となります、峠へと向かいます。短い時間ですが、それまでに、どうか皆様、身の回りの準備などを終えておいて下さい」


 案内人は最低限の説明だけをすると、再び丁寧に会釈をして、それから足早に奥の間へと消えていった。皆の視線は再び中央の囲炉裏の炎に向いた。


 彼が立ち去ったあとも、参加者たちは暗くうつむいたままである。すぐにその顔を上げることは出来なかった。この茶屋でのしばしの休息により、これまでどこかへと消えていた、あの忌まわしい緊張感が、再びこの身へと戻ってきた。そして、前頭部をがんがんと痛めつけたり、胃や喉を鋭くつついたりしたからだ。我が身にこれから降りかかる最悪の妄想を広げていくのだけは、たやすいことだった。そんな後ろ向きな考えに没頭しているうちに、小太郎は顔が熱くなり、両手で隠すように覆った。


 これまでの道のりは思ったほどではなかった。音に聞く栗殻峠というからには、もっと陰惨で険しい道のりを想像していた。事実、村で説明を聞いた際には、自分の未熟な脚力においては、峠の入り口にあるという、この休憩所に到着することすら出来ないのではと考えたものだ。しかし、この茶屋に至るまでの道中は、驚くほど上手くいった。大きな蛇や獰猛な熊が出ると脅かされたものだが、藪に覆われた人通りの無い道が多く、道幅が極端に狭かったということ以外は、村の周辺と特に変わらなかった。踏破することに時間こそかかったものの、命の危険を感じることは一度もなかった。案内人が時折口にする奇妙な台詞は、少し大袈裟ではないかと、拍子抜けするほどだった。小太郎はこの遠征を共にしている、周りの人間たちと無駄話をする余裕すらあったのだ。まあ、道中が平穏であったおかげで知人も増えたことだし、これから先のことを考えれば、話し相手が増えることは、無駄であるどころか、非常に重要なことでさえある。命を懸けた旅程において、もっとも必要になるのは、水よりも、食料よりも、まず頼りになる友人であるのだから。


 小太郎は案内人が去ると、静かに立ち上がり、囲炉裏を挟んで向かい側に座っていた陽介のところまで忍び寄っていくと、その隣にどっかりと腰を下ろした。


「よお、お互い無事だったな。それで、大丈夫だったかい、足の方は。 もう一度、見せてみろよ」


 その突然の声に驚いて、陽介はあわてて振り向いた。思い詰めているときに打開策を見つけるには、打ち解けた会話が必要である。彼も心のどこかでは、話し相手を捜していたのかもしれない。


「あ、ああ、あんたにはすっかり迷惑をかけてしまったな。二回も手を貸してもらって……。本当に悪かったよ。今、足袋を脱いでよく見たら、実は、ただ岩肌に触れたときに皮がむけただけだった。痛みも次第に引いていくだろう。全然大丈夫なんだよ。なんともない……」


 陽介は相手に気取られぬように、そう答えたものの、本当は挫いてしまった右足が、まるで、この先の不安を掻き立てるように、今もまだ、ぎんぎんと痛むのだった。しかし、皆が最後の身支度をしているこの段階にあって、そんな弱腰なことを口に出してしまえば、下手をすると、ここで仲間外れにあうかもしれない。おまえは足手まといだと言われ、進むも引くもならぬこの荒野に、置いてけぼりになってしまうのかもしれない。信頼を置いている数人の仲間たちも、手の平を返すのかもしれない。そういった複雑な思いが彼の口を塞がせた。


「こちらはどんな苦労も厭わない。とにかく、生きて辿り着けばいいんだ。このまま、うまく行けばいいがね」


 陽介は懸命に言葉を選びながら、そう言ってみたものの、これからのことが再び脳裏に浮かんだのか、再び深くため息をついた。そう、このおぞましい夜さえ無事に過ぎれば、目の前に広がる、この峠さえ越えてしまえば、彼らには、素晴らしい未来が約束されているのだ。これまでの陰鬱で凡庸な生活とは、比較にもならぬほど、明るく輝く毎日が。気丈に振る舞ってはいるが、本当はこの段階において、すでに倒れてしまってもおかしくないほどに、彼らは疲労し切っていた。肉体的なことはもちろんあるわけだが、問題は精神の方だ。肉体における深刻な疲労とは、元々精神の病によって湧いてくるものである。村で集められた際、何の前置きもなしに、あれほど脅かされたわけだから、無理もないのであるが、昼間、暗く深い森を彷徨い歩いていたときは、ずっと、「この先に何を見ようと、否応なく、みんな死んでしまうのかもしれない」などと、すべての事象を悪い方へと考えながら、歩んできたものだった。そんな不穏なことを考えて、険しい山道を登ってくれば、普段の何倍も疲れるのは当然である。それでも、彼らは長時間に渡り、へこたれずに不平も言わずに歩き続けた。この茶屋に来て確認してみれば、結局のところ、脱落した者は一人もいなかったのだ。ここまでの道中においては、人間の執念が勝った結果である。ここから先は、ついに、最近まで『人が越えられるとは誰も思わなかった』ほどの秘境へと足を向けることになる。


「もうすぐ、栗殻峠かあ……」


 小太郎は生来ずっと村の外へ出た経験はなかった。つい最近まで、本当に数週間前まで、自分の村の先に幼少の頃から見てきた、広大な栗殻峠の向こう側に、ここより遙かに発達した城下町が存在している、などということを、彼を含めて、村人の誰一人として考えもしなかったのだ。ただし、その漠とした情報には現実味は全くなかった。この寒村に住む農民たちの大多数は、栗殻峠の名を聴かされただけで身が震え、その地に一歩たりとも踏み込むことさえ不可能だ、という思いの方が先に頭に浮かぶ。まだ子供の時分から、そこは人知の及ばぬ場所であり、悪鬼の住処であると伝えられてきたからだ。ましてや、踏み込むだけにとどまらず、そこを素足で通り抜けるなど、ほとんど狂人か、あるいは生に絶望した者の考え方と思えた。しかし、『峠を越えるは無理』は現在までのところ寓話のままであった。伝説の怖ろしさよりも、人の知や体力がそれを乗り越えた形にも見えた。それは、根源的な恐怖心や教えつけられた曖昧な常識より、人の欲望が勝った結果なのかもしれない。


「もし、その足で、峠の向こうへと走り抜けられたなら、まず何をしたい?」


 そんな余計な物思いを、どこかへ吹き飛ばそうとしたのか、しばらく経ってから、小太郎はなんとなく問いをかけた。


「あの険しい峠を無事に越えられたらか……。そうだなあ、まず、何よりも酒だな。どこでもいいから、小さい居酒屋でもいいからさ、そこへ駆け込んでいって、一杯ぐっとあおるんだよ。そんで、あとはもう、侘びた宿屋へでも行って、風呂を浴びて畳の上にひっくり返って、ゆっくりと時間をかけて、この生を実感したいね。自分という男が人生の大勝負に勝利して、ここまで到達できたのだ、ということをさ」


 その単純な答えに対して、小太郎は心からの同意をすることにした。彼自身が心中に置いていたのも、大体そんなところだったからだ。この定めの日に、意を決して栗殻峠へと向かうのは、この近隣にある村の代表者たちである。小太郎にも運が向いたのか、望み通りに村の代表者となることが出来た。単純な確率からみれば、それは幸運なことである。若者の少ない寂れた村ではあったが、彼よりも山に精通した者、身体の丈夫な者は多くいたからだ。しかし、それら熟練者としても、栗殻峠の名を聞くと、さすがにその身が震え、金銭的な成功よりも、今は命が欲しいとの思いが強く働くのか、この過酷な試練に対して、積極的に挑んでみたいという者は、ほとんどいなかったのが実情である。それでも、小太郎は積極的に名乗り出ることはあえてしなかった。そんな浅はかなことをすれば、人の非行について、えらく鼻が利く長老たちに怪しまれるかもしれない。それに、滅びかけた村を見捨てる行為ととられるかもしれない。望みが叶わず、今後とも、この村で生活していく羽目になったときに、なにかと面倒なことになる。


 静かに、末席において、息をひそめて、誰も名乗り出ないことを祈りつつ、自分の番が来ることをひたすらに待った。そして、長老が、「小太郎、おまえはどうなんだ。外の街の話を信じているのか? 峠に行きたいのか?」と、よく通る声で話しかけてきたとき、満を持して、大きく頷いたのだった。長老たちはすぐには納得はしなかった。何しろ、村一番の働き者である彼はその将来をもっとも期待されている若者だった……。しかし、風は向いていた。数日後の評議を経て、小太郎は狙い通りに村の代表となれた。その後、各村の代表者たちは、この山のふもとに設けられた集会所に呼び集められ、密やかに寄り会が開かれた。この密議においては、自分の名や籍を名乗らないこと、そして、ここで聴かされた話を、どこにも漏らさないことの二つを、まず最初に確認し合った。


 その秘密の会合では、何度かこの魔窟を往来したことがあるという、素性も知れぬ案内人を紹介され、彼の口から栗殻峠についての説明を聴いたものだ。その怪しげな説明の中には、日々の退屈な労働の積み重ねによって、何とか日々の食を得てきた者たちにとっては、きわめて理解しがたい、不可解な内容が多くあった。ただ、これまでの長い人の歴史においても、この峠を越えようとした、多くの無謀なる人間たちがいて、彼らの多くは、その旅路の途上で非業なる死を迎えたということを知らされた。説明を聴いたあと、小太郎は決意を秘めて挙手をした。


「その人たちは、どのような形で死ぬことになったのですか?」


 あくまでも冷静を装う彼に対して、そう問いかけた。その問いかけに対して、案内人は一切の動揺を見せないままに、しばらくの沈黙のあと、「その質問には、今はお答えしない方がよいでしょう。栗殻峠が眼前に迫ったときに、皆様には必ず説明いたします」との返答をよこした。この無機質な回答に対して、小太郎が納得がいかぬ表情をしていると、「あなた方には、なるべくなら、目的地にたどり着くまでは、険しい山路に挑むこと以外の余計なことを考えて頂きたくないのです。ただでさえ、厳しい旅程なのですから」と、付け加えた。小太郎はその言葉を聴くと、急に不安が沸き起こった。これまでなんとか保ってきた、頑なな決意が一瞬崩されそうになった。内臓を凍り付かせる動揺は、何とか隠したつもりだが、周りを見渡せば多くの者が、彼と同様の不審極まる表情を浮かべていたのだ。この不可解な旅路が、必ずしも、我々に幸福な未来を与えるためだけに立案されたものではない、ということが明快に理解できたからだ。


 それはもう半月も前のことであった。この記憶から一秒たりとも抜け落ちることのない、現実的な出来事だった。もう計算もできない希望などいらない。いっそのこと、村で鍬を振るうだけの日々に戻れたなら、という思いも沸いてきた。想像から解かれると、なぜか何かの視線を感じて息苦しくなり、額の汗をぬぐった。いつのまにか、精神が追いつめられていることに気がついた。ここまでは、なるべく普段と同じ平静な心を保つことができていた。この茶屋に飛び込んだときには、あれほどの自信と安心とを手に入れたと思っていた。しかし、それらはもう自分も知らぬうちに、どこかへと消え去っていたのだ。峠道において、悪鬼や人喰い熊に出遭ったわけでもないのに……、こんなことではいけない、と小太郎は心を入れなおした。


「今から、死地に出発だと……? まるで、何かの魔除けだ……。高地に入るころには辺り一帯が闇になる。やはり、鬼でも出るのかのお……、恐ろしいのお……」


 隣では陽介が血の気の引いた顔に虚ろな目つきで、本人すら意識せずにそんなことを呟いていた。自分と同じように動揺している者を見つけて、多少の安心感を得ることはできた。まだ、他人に同情する余地はあった。小太郎は彼の肩を強く叩いてこう言った。


「大丈夫じゃ、たいしたことはない。ここまでの荒れた道のりも、出る前はあれほど恐ろしかったというのに、振り返れば、何も起こらなかったではないか。結局は一人も落伍することなく、この地点まで来れたじゃないか。ここから先も同じことをするだけだ。何も変わらない。気をしっかり持て」


 それは自分にとって大切な言葉だった。陽介の方も、幾分安心したような顔を見せた。しかし、彼は痛む右足を懸命にさすっていた。脳に次々と湧いてくる悪しき思いを、振り払おうとでもするかのように。実際には、嫌な予感を感じとっていたからだ。もし、この治らぬ右足が障害となって、栗殻峠で鬼にでも出くわしてしまい、倒れ込んでしまったら、どうなるのだろうか? おそらく、同じ道を走っていく仲間たちは、誰も手を差し伸べてはくれないのだろう。今、隣で励ましてくれているこの男でさえ、そんな緊急の際に手助けしてくれるようなお人好しではない。一番先に死ぬのは、否応なく自分なのかもしれない……。しかしもう、後ろへと下がる道も見つからない。この場から白旗を上げて、降りていくことすらできないのだ。これまでと同様に、ただ何も起きないことを祈る他はない。この世に対処しきれぬ鬼や悪鬼などいないことを信じる他はない。その説を確定させることは誰にもできないのだった。彼はここにおいて、悲壮な覚悟を決めなければならなかった。

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