第5章 異世界に一番近い男(2)
「よいしょ、っと」
上月さんは、俺の手からするりと抜け出して、しっかりと自分の足で立つ。
意識を失っていたことなんて、全てが演技だったというように。
いや、実際演技だったのかも知れない。
何故なら、その瞳に浮かんでいるのは、強烈な意志の色だったから。
それは、不幸にも巻き込まれただけの被害者が、浮かべる色ではない。
彼女はしかし、こちらの方をちらりと見ると、不意に瞳を伏せる。
「ええと、騙していてごめんなさい、ですよね」
「いえ、その、無事なら良いいん、ですけど……?」
俺の頭も、すっかり真っ白になっていた。
他の面々も、同じようだ。
特に史雄は混乱の度合いが激しいようで、目を白黒させている。
それは、敵方もまた、同じこと。
明らかに動揺した流華の声が倉庫に響く。
「ただの、ちょっと歌が上手い一般人だって、聞いていたけど……」
「ええ、そうですね」
「何度も、確認した」
「それは、ええ、そうでしょう。ですけど、情報とは歪むもの。筒抜けになっているのがこちらだけと、思うべきでは、ありません」
「……ッ!!」
流華の顔が、烈火に染まる。
察するに、流華の……異世界の側も、決して一枚岩ではないということだろうか。
こちらの世界が、異世界側に良いようにされるばかりではなく、その逆もまた、水面下で行われているのか。
とにかく、そういった政治方面の話は、現場においては意味が無い。
大事なのは、そもそもの俺達の目的が、ここに達成されたということ。
任務であった、上月ライラの異世界行きの阻止は、無事に完了したのだ。
そもそも保護されるような存在ではなかったという、そんな決着ではあるものの。
とにかく、俺達は任務を完了した。
だから、これで、全ては終わり。
「いや、まだだ!!」
停滞した空気を裂くように、流華の叫びが放たれた。
その顔には、怒り。
そして、決意を秘めた、燃えるような感情の色で。
「ここまで厄介な相手だったのは、確かに予想外だ。だけど、そもそも身勝手な召喚なんだよ、これは」
「……流華」
「だから、極論、誰でも良い。こだわりがないんだから、いくらでもアレンジは効くんだ。代わりの誰かを探して、また始めれば良いってことだ」
「いいえ、ここで終わり、です」
「何だと?」
流華の疑問に答えず、上月さんがスッと手を上げる。
その瞬間、倉庫の窓から、あるいは天井から、無数の人影が飛び込んできた。
「ッ!?」
「何だ!?」
戸惑う暇もない。
映画か何かで見る特殊部隊のような無数の人間が、駆け込んで来る。
そして、完璧に統制された動きで倉庫内に展開し、流華達異世界の連中を拘束し、無力化していく。
ついでにうちのポチも、無力化した連中を拘束するのには一役かっている。
粘度のあるピンク色の身体を細長く延ばして、触手で敵を縛り付けているのだ。
正直、正気を疑うような光景だが、今は頼もしい。
「くっ……!!」
流華もポチに身体を縛り上げられ、悔しそうに呻いている。
その様子は、多少エロティックに感じなくもないが、まあ今はそんなことを言っている場合ではない。
最早、抵抗の余地はない。
突然入って来た特殊部隊と、そしてポチの活躍によって。
あれほど苦労していた強敵は、瞬く間に動きを封じられたのだった。
俺達の苦労は一体何だったのか。
「これで、終わり、ですね」
特殊部隊の連中に目配せし、敵を制圧したことを確認する上月さん。
その様子からして、単なる歌手だなんてことは、まずあり得ない。
それどころか、むしろ歴戦の勇士の風格すら感じられる。
と、彼女は、俺の方を、ばつの悪そうな顔で見つめて。
「ええとタカヒロさん、黙っていて、ごめんなさい」
「いえ、その」
言いたいこと、聞きたいことは沢山ある。
今回の騒動においては、狙われる側、護られる側の存在であった筈なのに、一体この人は何者なのか。
「あの、歌手じゃなかったんですか?」
「歌手なのは、本当です。歌うのはとても好きです。ただ、もう一つだけ、別の顔があるということですね」
「別の顔、って」
「一応、異世界対策チームの、リーダーを任ぜられています。アナタ達とは別のチームですが。えっと、つまり、タカヒロさん、貴方の同僚に当たりますね」
「……はぁ?」
上月さんの説明は続く。
「チームといっても、正式なメンバーは、私だけなのです。そちらにいる彼らはあくまでも、私の指示に従って動いてもらうだけ。チームといったら、それは私の事を指します。1人でチームを名乗るなんて、おかしなこと、ですけどね」
「1人だけなんて、そんな無茶な」
「そうでもありません。何故なら、私は、絶対に異世界に連れ去られることがないと確信を持って言える、唯一の存在なのです。誰かと魔法陣を越えることはないと。ですから他人とチームを組むことは、出来ませんよ」
「は、はぁ……?」
正直、何を言っているのか完全には理解出来ない。
しかし、先程までの事態を振り返れば、言わんとしていることは分かる。
天上の歌姫・上月ライラは、誰かと魔法陣を通ることはないというのだ。
自分の意思で、1人きりで魔法陣に入らない限り、異世界に行くことはない。
異世界の相手と向かい合う、そんな立場において。
絶対に異世界に連れていかれることがあり得ないということは、確かに唯一無二の長所となり得る。
だが、その特異性と引き換えに、
上月さんは1人きりのチームであることを強いられる。
いかんせん、1人で動くには限界がある。
そこで次善の策として選ばれたのが、俺達か。
異世界に対抗する為に、いかれたメンバーを集めてみたのか。
つまり、俺達は、上月ライラのサポートの為に集められっていうのか?
「落ち込まないで下さいね? よーしよーし」
「落ち込んでねーですよ!! 頭を撫でないで下さい!?」
いや本当に。
別に、落ち込んでないです。
「異世界対策における本命は、あくまでもタカヒロさん達です。それは間違い有りません。今回の場合は、何だか大きく事態が動きそうだったので、私も動くことになりました。本来は、シークレット扱いなのですよ」
「そりゃ、俺も知らなかったくらいですからね」
「落ち込まないで下さいね?」
「ですから落ち込んでねーですって」
「そもそも、異世界人とのハーフなんていう存在を、公には出来ません」
「まあ、確かに……」
異世界人と現世界人の血を継ぐ存在。
禁忌の存在とまでは言わないが、謂れのない差別や、誹謗中傷の類も、きっと珍しいものではない。
だからこそ、上月さんは自分の素性を隠すのだろう。
非常にデリケートな立場にいるということは、良く分かる。
それにしたって、俺にすら知らせていないというのは、秘密主義にも程がある。
俺、一応チームのリーダーで、現場の責任者なんですけど?
そんな俺の不満が、顔に出てしまっていたのか。
上月さんは、決まり悪そうに微笑んで告げる。
「公表するには時期尚早。そう、父は判断したようでして」
「……父?」
「異世界行けない委員会の委員長……タカヒロさんの上司に当たる人です」
「はぁ!?」
マジかよ!!
あのオッサン、涼しい顔をして、とんだ爆弾を仕込んでいやがったな!?
いや、文字通り仕込んだんだよな!
「何か変なことをお考えになっていませんか」
「いいえまったく」
でも、上月さんが、異世界人とのハーフということは。
「あのタヌキ親父、一体何者なんですか」
「勇者です」
「勇者ぁ!?」
そりゃ勇者って、あの親父には一番似合わない職業じゃないか!?
体格からして、商人辺りがお似合いじゃないのか!?
「勇者として異世界に召喚され、そこで私の母と出会った、そうです。めくるめく冒険の後で、母と結ばれ、色々あってこちらの世界に戻った、そうです」
「すげー、確かに勇者だ。紛う事なき勇者だ」
似合わないんだよ。
そして羨ましいんだよ。
もうとにかく羨ましくて仕方がないんだよ!
あのオッサン、俺が一番やりたいことを既にやっていやがったのか。
異世界で大活躍する勇者とか、最高じゃないか。
どうして、それは俺の役割じゃないんだ。
どうして、あんなオッサンにやらせているんだよ!
「このことも、極秘情報なので。ご内密にお願いしますね」
「確かに、大変なことですよ、こいつは」
「昔は大変なハンサムだったそうです」
「うそだぁ!」
「多くの女性から言い寄られて、それでも最初に惚れた母だけを愛したそうです」
「うっそだぁ!」
もう何もかも嘘臭くて、だけど本当なんだよな。
その件については、また改めて問い詰めないといけない。
俺みたいな若者が異世界に行けないで苦しんでいるってのに、異世界生活をエンジョイしやがって。
あのタヌキ親父め、本当にどうしてやろうか。
ともあれ。
「しかし、そんな秘密の上月さんがわざわざ出て来たっていうことは、この一件、思っている以上に大事だったって、そういうことですか」
「ええ、異世界関連での動きが、活発化していると、そう聞きました」
「それは……こいつの、流華みたいなケースですか。これまでは単体で動いていたような異世界の連中が、こうしてチームを組んで来るっていう」
「はい。こちらの世界に協力者がいることも含めて、大きな問題になりそうだと。タカヒロさんのお知り合いだというのは、さすがに想定していなかったようですが」
「それはまあ、俺だって知りませんでしたからね……」
どういう因果なんだろうか。
俺の目の前で、異世界に連れて行かれてしまった流華。
そんな彼女が、どういう訳なのか、異世界の手先として俺の前に現れた。
会いたかった。
でも、会えなかった。
そんなこいつと、何を話せばいいのだろうか。
「おい、流華……」
それでも、流華にとっては、数少ない顔見知りが俺だろう。
とにかく、何か言葉を掛けるべきだろうと、そう思って。
しかし、そこに居た筈の流華は。
俺の目の前で、窓ガラスをぶち破って逃げて出して行った。
「何が起こりましたか!?」
「逃走です!!」
上月さんの部下が、慌てた声で報告してくる。
拘束を振り切って、流華が逃げ出したのだ。
「いや、どうやってだ!? ポチの拘束は!?」
見れば、ポチが床でのたうちまわっている。
流華が何かをしたのか。随分と苦しそうにしているが。
「何をされたんだよ!!」
「レモン汁を掛けられたんだってさ!!」
「レモン汁に弱いのかよこいつ!!」
から揚げか何かか!?
「今すぐに目を洗って欲しいって!!」
「だからどこだよ目は!!」
史雄に通訳して貰ってもちっとも要領を得ないんだよ!!
つーか流華は何でレモン汁なんか携帯していたんだよ!?
「とある異世界では通貨の代わりにレモンを携帯するそうです」
「どんな異世界だよ!!」
持ち運びに困るだろ!!
どうあれ、頼みにしていたポチの拘束は無効化されてしまっていた。
他の連中の拘束こそ、上月さんの部下達によって続行されているが、
向こうのリーダーである流華を取り逃がしてしまっては、まずいことになる。
「待てッ!!」
逃がす訳には行けない。
流華には、聞きたいことが山ほどあるのだから。
しかし、流華を追って踏み出そうとした一歩が止まる。
俺はまだ、ここでやるべきことがあるのだ。
目の前には、変わらず光っている魔法陣。
あそこに飛び込めば、そのまま異世界に行けるかもしれないのだ……!
「追って下さい、タカヒロさん!!」
「で、でも」
迷い、一歩を踏み出せないでいる俺に、上月さんの切羽詰まった声が掛けられる。
余裕を失い、緊迫している声。
「この場は私達が何とかします! ですから、早く!!」
「わ、分かりました!!」
ああもう、この場から離れたくなんてないのに!
だって、異世界行きの魔法陣が、すぐそこに待っているというのに!!
しかし、逃げ出した流華を放ってはおけないというのも、また事実。
その役目が、俺にしか出来ないだろうということも分かっている。
だから。
「待てよ、流華ッ!!」
俺も慌てて廃墟を飛び出し、流華の後を追う。
いつか別れた、その背中を。
届かなかった、その手を。
今度こそ、俺の手で捕まえるために。
◆ ◆ ◆
流華の逃走経路は、実に面倒なものだった。
倉庫の壁に開いている穴を潜り抜け、草むらを通過して、狭い路地を奥へ奥へと進んでいく。
この経路を、どうやら流華は最初から想定していたのだろう。
何故ならそれは、俺が子供の頃に、流華と一緒に決めていた、逃げ道だったから。
廃墟に敵が攻めてくる……なんていう、子供のちょっとした妄想。
それでも、当時の俺達は本気で敵が来ると考えていて、こうして敵から逃げる為のルートを考えていた。
僅かな物音に怯えて、必死で逃げたりしていた。
それが今、実際に使われている。
こんな訳の分からない道、追いかけることが出来るのは、俺くらいのものだろう。
しかし、元々は子供の頃に考えた逃げ道なのだ。
大人になってしまった今の俺には、ちょっと狭すぎるけれど。
それでも、流華に追いつきたいという一心で、必死に足を動かして。
追いかける。走る。
開いてしまった2人の距離を埋めるかのように、全力で。
やがて、道が開けた。
そこは、また別の廃墟のような場所。
何を作っていたのか知らないが、潰れた工場へと抜ける一本道。
つまりこの先は、行き止まり。
高い壁に囲まれた、袋小路だ。
このまま行けば、流華を追いつめることが出来る。
逃走劇も、ここで終わりだ。
そう考えて、一歩を踏み出そうとして。
「……待って下さい」
「……は?」
背後からの声。
振り向いて見れば、そこには。
俺達の秘密のルートを必死で抜けて来たらしく、すっかりボロボロになった後輩、隼瀬歩理の姿があった。
「隼瀬、何してるんだ?」
「先輩を、追いかけて来たに、決まっている、でしょう」
息も絶え絶えと言った隼瀬の様子。
髪の毛に葉っぱを引っ掛けていたり、膝をすりむいていたりと、随分慌てて付いて来ただろうことが分かる。
しかし、すぐに息を整えると、普段通りのクールな雰囲気に戻った。
そのまま、いつものように冷たい視線を俺に向ける。
「はあ、何で、こんなおかしな所を、逃げるんですか」
「そりゃ、逃げたいからだろ」
「そんなことは聞いていませんバカなんですか」
「調子が戻ったな、うん」
いつもの通りの、可愛くない後輩の姿だ。
そんな可愛くない後輩は、何かを言いたげな様子で俺の事を見つめてくる。
しかし、すぐに鋭い目で、工場の方を睨みつける。
「敵は、向こうですね」
「敵……そうだな、あっちに逃げた筈だ」
「先輩の、幼馴染なんですよね」
「ああ、子供の頃に異世界に行っちまった。会えるとも思っていなかったんだけどな。それが、どうして、こんなことになっているんだか」
「……だけど、今は敵です」
「ああ、分かっているさ」
隼瀬に言われずとも、分かっていることだ。
流華が、どうしてこんなことをしたのか。
何を思って、俺の前に現れたのか。
本人に聞けば、それで全てが分かる。
この先で待っている、アイツに聞けば。
「しかし、どうするかな。一応上月さんの到着を待つべきか……痛ぇ!?」
踏み込むべきか待つべきかを考え始めた俺の足を、隼瀬が踏んづけて来る。
俺には史雄のような趣味はないのだ。ただただ痛い。
「何をしやがる!?」
「モタモタしている場合ではありません。ここで応援を待っていては、取り逃がしてしまうかも知れません。急いで行きましょう、先輩」
「分かったよ。だからって、踏まなくてもいいだろうが……」
隼瀬の言葉と、物理的手段に背中を押されるようにして、工場へと足を踏み出す。
恐らく、ここが終着点。
子供の頃、流華と別れた時から始まっていた因縁の果てであると、
そんな風に予感しながら。
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