第2章 異世界はつらいよ(2)
「はあ、しんどい」
大きく溜め息をつく。
何事もなかったように静まり返る、トレーニングルームがそこにある。
対照的に俺は、もう最高に疲れ果てている。
もう身体を一ミリたりとも動かしたくないくらいに、ボロボロになっている。
「はぁ……」
堪え切れず、床に倒れ込む。
そして、こちらのことを心配そうに、でも少し楽しそうに見下ろして来る史雄の事を睨みつけた。
「お前……いつもいつも、俺にばかりやらせるなよ」
「だって僕の身体は、すっかりナマってるし。こういう時、ポチがいたら何とかしてくれるんだけどね」
「じゃあポチに頼めよ。何でわざわざ、俺の所に来てから襲われるんだ」
「その辺は僕にだって予想出来ないよ。それに鷹広だって、良いトレーニングになるって、前に言っていたじゃない」
「言ったけどな……さすがに、面倒なんだよ。何回目だこれ」
こうして、史雄を狙って時折発生する怪しげな魔法陣。
そこから、史雄を守る為に俺が奮闘したことは、一度や二度ではない。
確かにこいつの言う通り、最初の頃はトレーニングに使えるかも、と考えていた。
しかし、こうも頻繁に来られると、さすがにうんざりして来るのだ。
この魔法陣が、もしも異世界に繋がっているというのなら、
俺も無理やりにでも通り抜けてやりたいところだが。
「つーか、小さ過ぎて人が通れないだろ、これじゃあ」
「まあ、そうだよね」
あっさりと頷く史雄。
危機が去ったことで、すっかり落ち着きを取り戻している。
「最初の頃は、ちゃんとした大きさの魔法陣で、ちゃんと人が出て来て、ちゃんと僕を連れ去ろうとしていたんだけどね。段々面倒になったのか、今ではこんなんだよ」
「目的を見失っていやがるじゃねぇか」
単なる嫌がらせになっているだろ。
つーか、俺が通れないんだったら何の意味もないんだよ。
異世界に行けないのなら、俺には何の得もない。
ただチームのメンバーがケガでもしたら厄介なので、仕方なく助けているだけだ。
頭数が減ったら、俺の負担が増えるからな。
どうして、史雄はこんな面倒なことになっているのか。
どうして、そこまで熱心に、異世界から狙われているのか。
それは、本多史雄という個人の経歴に関係している。
今でこそ頼りない、なよなよした、
どうしようもない、気弱な男にしか見えないけれど。
その本質は、そんな弱弱しい見た目の印象とは全く異なるものである。
こいつこそは、紛れも無い英雄。
こと異世界に関する問題に関しては、トップクラスの実績を持つだろう男。
端的に言って、規格外の存在。
簡単に説明すれば、もっとも多くの異世界を救って来た個人。
異世界を救うという、一つだけであってもとんでもない偉業とされるようなことを、数十回、あるいは数百回と繰り返して来た、本物の英雄。
数多の異世界において、勇者や英雄として崇められている、そんな存在。
それが、本多史雄という男なのである。
しかし、俺の知っているこいつは、
単なるだらけ切った、ひ弱な男である。
「全く、何だって異世界になんて行かなきゃいけないんだか」
「お前、それを俺の前で言うのかよ」
自慢か。
自慢だろ。
「僕としては本当にうんざりなんだから。もう、うんざりすることすら飽きるぐらいうんざりなんだよ」
「やっぱり自慢じゃないか。良いよなー、飽きるくらいに異世界に行ける奴はよー」
「僕だって羨ましいよ。どうしても異世界に行けない、鷹広の事がね」
「……」
「……」
「不毛だな」
「不毛だよね」
揃って溜め息を吐く。
異世界にどうしても行きたいという俺の願いを、史雄は知っている。
以前、ついつい口にしてしまったのだ。
どうしても異世界に行きたいと願っていながら、どうしても行くことの出来ない俺の悩みを。
そんな俺の願いを、史雄はきっと理解出来ないだろう。
どうして、俺が異世界に憧れているのか、本気で分からないのだろう。
何故なら、こいつは、多くの異世界を救っているから。
それはつまり、多くの異世界に召喚され、そこで冒険を繰り広げ、敵と戦い、平和を勝ち取って来たということだ。
数え切れない程の異世界に呼ばれ渡って来た史雄にとって「異世界に行きたい」という俺の願いは、今更以外の何物でもないのだ。
悩まずとも、自然に成し遂げられることなのだから。
こいつにとっては異世界なんて、
それこそ近所のコンビニ感覚で行けるような場所なのだ。
ただ、そうやって、多くの世界を救って来て。
多くの人々から、勇者や英雄と崇め奉られて。
呼ばれ、救って、帰って。また呼ばれ、救い、帰る。その繰り返し。
世界を救うというルーチンワーク。
流れ作業にまで貶められてしまった偉業。
それでも、世界を救うという大義がそこにあるうちは、まだ良かったのだろう。
少なくとも、史雄の行為によって救われる多くの命が、確かにあったのだから。
どれだけ磨耗しようとも、そのことを思えば、きっと耐えられた。
しかし、異世界召喚は変わってしまった。
世界の危機なんてものは、めったに起こらなくなった。
代わりに、危機とは一切関係のないところで、
世界を救うこともなく、ただ勝手な理由を付けて召喚されるばかりの日々になった時、史雄の精神はついに限界を迎えたのだった。
二度と異世界なんかに行きたくないと、そう決意して。
そうしてヤツは、引きこもりになった。
自分の世界から決して出ようとしない、世界最強の引きこもりになったのだ。
「世界の危機とかいうならまだしも、どうでも良いことばかりで呼ばれるのはもう、こりごりなんだよ。だからもう、僕はどこの世界にも行くつもりはないね」
「部屋からは出るのに、世界からは出ないってか」
「やっぱり自世界が一番だよね」
「自室みたいに言うな」
組織に参加したのも、ここが一番安全だと思ったからだという。
どこにいたところで、史雄の経歴からすれば引く手は数多、異世界からの勧誘はどうやったって訪れる。
だったら、そんな異世界からの問題に対応する為の組織に所属してしまうのが、自分を守る為に最も適していると、そう考えたのだと。
丁度、俺とは正反対の理由ということになる。
しかし、それでは終わらない。
何もかも、終わってはいなかった。
どれだけこいつが、異世界の連中の間で評判なのか。
数多くの異世界を救って来たというネームバリューが、どれほどの意味を持っているのか。
図らずも、次なるトラブルがそれを証明していた。
静寂を取り戻した筈のトレーニングルームに、
再び出現した多数の魔法陣という、これ以上ない結果によって。
「って、また来たのかよ!」
無理無理無理!
もう無理だって!
俺の筋肉は今、乳酸がドバドバ出過ぎているのだから!!
「たたた鷹広! もう一回だけお願いだよ!!」
「いや無理だし」
「そこを何とか!!」
「一歩も動けんし」
史雄を取り囲む魔法陣は、先程よりも更に数を増している。
そこから生えている腕も、心なしかやる気に見える。
さっきやられたことを根に持っているのか、がっちりと握り拳を作っている。
もう、史雄を拘束しようなんて風には見えない。
むしろボコボコにぶん殴ってやろうと、そんな感じだ。
「諦めて身を任せたらどうだ」
「嫌だよ!? 僕はもう、この世界から出ないと決めているんだ! 殴られたって気持ちは変わらない! 一歩たりとも、異世界に行ったりはしないよ!!」
「スケールのデカい引きこもりだな」
異世界に行ける、という選択肢がある時点で羨ましくて仕方がないのだが、
それを言う気力すら、乳酸に支配された今の俺にはない。
「まあ、どうせ、俺には止められないし。精々頑張れよ」
「役に立たないね鷹広は!!」
「お前後で覚えてろよ。ああ、異世界に行くんだったら、もう後とかないよな。いやー、良い奴だったんだけどなー、残念だなー」
「うわぁ助けてぇぇぇ!!!!」
「だからどうにも出来ないんだって………」
史雄の悲鳴だけが響く中、俺はただ床に転がるしかない。
そうしている間に、無数の手は史雄の全身に巻き付いて、そのまま連れ去ろうとしている。
まるでエロマンガのように触手に嬲られているかのような状態になっているが、やられているのは残念ながら男だ。
「ひぃやぁぁ! 助けてぇぇ!!!」
「気色悪い声出すなよ」
そして、必死の抵抗も虚しく、
史雄の身柄が胴上げのようにして連れ去られそうになった、その時。
――ッ!!!!
史雄に向かって手を伸ばしていた、全ての魔法陣。
周囲を囲む、数百はあるかという勧誘の群れ。
それが、爆発音と共に、まとめて吹き飛ばされた。
「……全く、二人揃って、何をしているんですか」
茫然とする俺達に投げかけられる、固い声。
それは、部屋の入り口から俺達を蔑んだ目で見つめている後輩の少女からのもの。
隼瀬の手に握られているのは、対異世界用特殊兵装の一つ、『次元破界爆弾』。
異世界に繋がる魔法陣の構成を乱し、強制的に魔法陣を閉じさせる、という効果を持つアイテムなのだが、その爆発力は本物である。
普通の爆弾と同じように、ちゃんと爆発してちゃんと破壊する代物なのだ。
問題は、それが俺達に向けられたということ。
いくら危険な魔法陣を片づけるためとはいえ、爆弾を、人間相手に向けて遠慮なくぶっ放したのである。
そんな危険な真似をするのは、別に蛮族や凶戦士ではなく、俺達の後輩。
隼瀬歩理。
チームの中では最も若手。しかし、その意気はチームで一番激しい。
異世界を憎む、苛烈な少女である。
「起きて下さい」
隼瀬は、無言でトレーニングルームへと入って来ると、倒れている俺と史雄のことを見下して来る。
その目は、何と言うか、怖い。
少なくとも、人間相手に向けるような色をしていない。
「いや、俺はとても疲れているんだが……」
「ぼ、僕もちょっと立て込んでいるから……」
「起きて下さい」
「「はい」」
二人揃って跳ね起きた。
あれ以上ごねていたら、ろくでもないことになると、直感で理解したのだ。
いくら後輩といえども、この少女は、やると言ったらやる。
先輩だろうと関係なしに、自分の意志を押し通す、そんな凄味があるのだ。
とは言え、俺にも一応、先輩としてのプライドというものがある。
「いや、あのな。別に俺達だって、遊んでいる訳じゃないんだぞ」
「当たり前です」
俺の、精一杯の強がりも、たちまち切って捨てられる。
「良いから起きて下さい。チラシの最終確認、残っているんです」
「まだチラシに関わるのか!?」
もう終わったんじゃないの?
まだアレに関わらなければならないの?
「はい、これが最終稿です。この場で確認してください。すぐに委員長の所に持っていきますから」
「いや、だからお前は、俺の状況を分かっているのか?」
「寝ています」
「寝てる訳じゃねえよ!!」
こんな所でぐーすか寝ているように見えるのか!?
異世界からの刺客との激しい戦いを終え、一時の休息を取っていたところを、更なる大混乱に巻き込まれて倒れていたのだ。
よくやったと褒められこそすれ、どうしてそこまで辛辣なことを言われないといけないのか。
「はぁ……」
しかし、まあ、食って掛かるような気力は、もう俺には残されていない。
ただただ、後輩から向けられる理不尽を、嘆くばかりである。
そして渡されたチラシの確認をするばかりである。
俺って本当に出来た先輩だよな。
「確認、まだですか?」
「ちょっと待ってくれないかな!?」
そもそもまだ、起き上がってもいないよ。
催促するよりも、俺を起こして、労わってくれてもいいんじゃないかな。
しかし隼瀬は、何処までも冷静で、冷徹で。
「そう言えば、グッズの監修もあるそうです」
「グッズゥ?」
「チラシと一緒に、確認して欲しいそうです。これがサンプルです」
言って、隼瀬は何かを落として来た。
受け取って見たそれは、何だか説明し難い容貌をしたマスコット。
一見すると丸っこいクマなのだが、しかしどう見ても目が逝っている。
触れたらいけない真理に到達してしまったかのような目をしている。
ついでに、背中からは滑らかな質感をした、イカの腕のようなものが生えている。
総合すると、スッゲー気色悪い。
「……何だ、これ?」
「ですから、マスコットです。異世界に召喚された結果、邪なる想念に呑みこまれ、心を病んでしまったという設定の、ちょっと触手が生えているけれど可愛いクマさん、通称『イセカイカ』だそうです」
「クマじゃねぇのかよ」
イカじゃねぇか。
イカ部分がメインになっているじゃないか。
「ちなみに、鳴くそうです」
「鳴くんかい」
クマだろうとイカだろうと鳴きゃしないよな。
ためしにふくよかなお腹を押してみると、『ぐげー』と野太い声で鳴いた。
一切売れる気がしない。ビジネスチャンスの欠片もない。
「確認しましたね?」
「ああ、絶対に流行らないだろうことを確認した」
「では先輩の責任において、全国発売が決定しました」
「そんなに責任重大なことだったのか!?」
「在庫分は先輩の給料代わりに支給されるそうです」
「ちょっと待て! そんな重要なこと軽く決めるんじゃない!?」
本当、この後輩と来たら、どうしてこんなことになっているのか。
本人の口から聞いたことはないし、教えてくれるとも思えない。
ただ、以前、委員長からこっそり教えてもらったことがある。
俺の後輩、隼瀬歩理の、知られざる過去について。
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