『沈痛な一言』

 まだ日の光がそれほど強くはない朝の時間に、ルトラは再び森の中にいた。

 森で光に出会ってからわずか数日だ。これほど短い間隔で森の中に探索ではいるのは珍しい。それに、奇跡はもう体験できたから、その間隔は本来ならもっと長くなるはずだった。しかし、その奇跡自体に疑念が生まれたのだ。

 ルトラが馬鹿な事を言い出すのはいつものことだ程度に村人たちは思っていたらしい。ルトラへのからかいの言葉など、一日と持たずに消えてしまった。それでも、ルトラの中にはもやもやが残った。


 自分は本当に奇跡に出会ったんだろうか? 転んで気絶したのだろうといわれれば反論はできない。

 寝てる間に雨が降り、落ち葉がこすれる音を聞いて夢を見た。それで納得してしまいそうになる。今日はそれを確かめに来たのだ。


「よいしょっと!」


 リン……。


 倒れた木を飛び越える時に、獣除けの鈴の音が響いた。

 山の森の中には当然ながら獣たちがうろついている。クマになど出会ってしまわないように、ルトラは胸元に大きな鈴を一つつけていた。

「こんなにかわいい音がするのに、本当にクマが怖がるのかな?」

 ルトラは鈴を揺らしながらそんなことを疑問に思う。そんなことをユーリアに聞いたことがあるが、鈴の音ではなくて鈴をつけている人間を怖がるのだといわれた。……なおのこと意味が分からない。クマの方が強いのに、人間を怖がる?


「とと、今日はそんなことをしに来たんじゃなかった」

 ルトラは本来の目的を思い出し、すぐに駆け出した。

「ん……」

 ルトラは、立ち入り禁止区域を目の前にして少し立ち止まった。あの時は気づかずに入り込んでしまったが、今日は分かった上で入るのだ。その違いに少しだけ罪悪感を覚えてしまう。


『楽しい時間だった。またこんな時間を過ごしてみたいものだ』


 あの光の最後の言葉が、ルトラの背中を押す。

「確かめるだけだから……」

 そう呟いて、あの日の場所に近づいて行った。


 *    *    *


「……ついた」

 村から出発して数十分。ルトラは目的の地にやってきた。

「あの日と同じことが起きれば。いや、同じじゃなくても、不思議なことさえ起きてくれればいいんだ」

 この場所は特別なところで、奇跡が起こりやすい。もしそんな気配でも感じ取れたなら、だれが何と言おうと関係ない。あの日の出来事は真実だとして自分の中に落とし込む。もし、それがなかったなら、また奇跡を探す楽しみができるだけだ。

 どちらにしても、この場所を訪れるのは今日で最後にするつもりだった。


「……はあ、ダメだ」

 一時間ほど経っただろうか? ルトラは奇跡を起こそうとあれこれ頑張ってみたが、結局何も起こらなかった。第一今日はあの白い光が現れない。よく考えれば、あの白い光がいろいろ起こして見せたからこそ、より奇跡が起きたのだという実感がわいたのだ。その肝心の光が現れないのでは、すでに再現は失敗しているといえる。

 あの時はどうやったら光は現れたのだったか? 確か、せっかく来たのだからと、崖に近づいたときに声をかけられたのではなかったか?


「……」

 ルトラが視線をずらすと崖が目に入った。危ないから近づかないようにと言われていた場所。そして、あの日の奇跡が起こったきっかけの場所が視界に映った。


 *    *    *


「ん……なんだろう?」

 その頃ユーリアは村にいた。今日は村の仕事はないから、家の中で本を読んでいるところだった。

 活発なルトラとは違い。ユーリアは家でのんびり過ごすことも多かった。村から出ること自体は嫌いではないので、村の商品を卸しに行くときに町へついて行ったりはする。だが、ルトラに比べれば、森に出かけていく回数は微々たるものだ。


 ユーリアは本を閉じて窓際に近づく。窓の外には子供たちがかけっこをしているのが見えるが、ルトラの姿はない。あの子供たちと年齢は離れているが、ルトラはそういうのを気にせず飛び込んでいく性格だ。あそこにいないと言うことは森に行ったのだろうか?

「でも、この間森へ行ったばかりなのに?」

 慣れてしまっているから忘れてしまうが、ルトラの母親はルトラが森に出かけていくのを快く思ってはいない。

『間隔をあけないとお母さんから角が出るんだよ』

 ルトラがそう言っていたのを思い出す。ならどうしてこんなに短期間に二度も森に入ったりしたのだろうか?

 なんだか気になってしまったユーリアは、外に出ることにした。もしかしたら子供たちには混ざらず、村のどこか別の場所にいるのかもしれない。それならそれで安心できるからと、ユーリアは外に出る準備をした。


 ……この時、ユーリアは無意識に安心という言葉を胸の中で使っていた。安心できるということは、今は不安に思っているということだ。ルトラが森に出かけること自体はいつものことなのに、何が不安だというのだろうか?


「いない……」

 ざっと村の中を巡ってみたが、ルトラの姿はなかった。他の誰が見つからないというなら、家の中でおとなしくしているだけだろうと思える。だが、ルトラに限ってそれはないだろう。家の中にいたって、ルトラのにぎやかさを隠すことはできない。誰かに聞くまでもなく、ルトラは森の中に入っているのだと判断できた。


 ユーリアは森の前まで来た。森の中に踏み込もうとして戸惑う。

 一人で森の中に入るのは結構久しぶりだった。ユーリアと一緒なら奇跡が起こるかもと、ルトラと一緒に入ったことはあるが、単独で入るのはいつぶりだろうか?

 コンパスは持ってきている。村の方角を間違えない自信もあるし、森の中でルトラに出会えれば迷うということはないだろう。しかし……。


 リン……。


「鈴の……音?」

 森に入るのを戸惑っていると、ユーリアは鈴の音を聞いた。その鈴の音は聞き覚えのあるもので、持ち主の名前が自然と口をついて出る。

「……ルトラ?」

 ユーリアはルトラの名前を呼びながら森の中へと入っていった。


 リン……。


 聞こえる。かすかだが確かに聞こえる。これはルトラがつけている鈴の音だ。

 森の入り口で聞いたのに、森の中に入ってしばらくたっても鈴の音の大きさは変わらない。消え入りそうで、呼んでいるようなその音が、ユーリアに足を動かせた。

「ねえルトラ? ふざけているの? もういいから出てきてよ」

 ユーリアは、森の中に入ってしまったからというより、ルトラの姿を見つけられなくて不安が増してくる。

 いつもなら、名前を呼べば矢のようにルトラは飛んできてくれる。それなのに今日はそれがない。生命の塊のようなルトラの声とは全く違う鈴の音が、ユーリアを森の中で呼んでいる。


 リン……。


 ユーリアは鈴の音を聞き逃さないことだけを気を付けて、森の中を進んだ。


 *    *    *


「ここは……」

 森の中に入ってから、ユーリアは初めて足を止める。この場所には見覚えがあった。ルトラに、この先は立ち入り禁止区域だから近づかないようにと教えられたところだ。

 立ち入り禁止だと教えてくれたのはルトラだ。立ち入り禁止だといった張本人がこの先にいるとは……。


 リン……。


 今までよりかすかに大きな鈴の音がなる。それを聞いてユーリアは覚悟を決めた。

「ルトラ……いるの?」

 周りに気を配りながら、ユーリアは慎重に足を進めた。


「はあ……高いな」

 ユーリアは上を見上げてそう呟いた。ユーリアの見上げた先には目がくらむような急な崖がそびえたっていた。その崖を見た瞬間に、ユーリアは立ち入り禁止の理由を知った。

 今は下に回り込む形になったが、上に行くことになれば、この急な崖から落ちてしまう危険に晒されることになる。見れば崖のあちこちも崩れかかっていて落石が起きそうになっている。近づいたら危ないというのは明らかだ。

「……ルトラ?」

 高い崖からゆっくりと視線を下すと、見慣れた服装の人影が見えた。目的の人物を見つけられて、ユーリアはようやく少し安堵する。


「よかったよルトラ。ようやく……見つけ……た」

 ユーリアは最初、ルトラの周りに花が咲いているのだと思った。地面に赤い花が咲き、それを寝転がって鑑賞しているうちにうとうと……なんて、ルトラらしくてかわいいじゃないか。

 一歩近づいて花はルトラの頭付近にだけ咲いていることがわかり、二歩近づいて花は水が広がるような範囲に咲いていることに気が付き、三歩近づいて花ではないことを理解した。そして四歩近づくころには、ルトラが身じろぎすらしないことをおかしく思い始め……。


「ルトラ! ルトラぁあああ!」

 五歩目以降は走り出していた。必死にルトラの名前を叫び、その体に近づく。抱き上げようとして伸ばした腕は途中で止まった。だって……だってひどい出血だった。こういう時は、あまり体を動かさない方がいいと聞いたことがあるから体を揺さぶりたくなるのを必死に抑えた。

 名前を何度も呼び、反応がないことに絶望しながらユーリアは絶句する。ルトラの出血場所はどこだろうと腕や足を探していた視線を顔に合わせたからだ。

 ユーリアは見当はずれの場所を探していたのだ。最初に見たとき思ったじゃないか。花はルトラの頭の付近にしか咲いてないな、と。


「こんなの……こんなのあんまりだぁ……。ル、トラ……」

 ルトラの出血は頭からだった。傷口が下になっていて大きさはよくわからないが、これだけの出血をする傷となると……。

「あぁ……うう。ど、どど、どうすれば。どうすればいいの? 誰か……だれかぁ……」

 涙声でそう言っても村まで届くはずがない。第一届いたところでもうどうにもならないだろう。ルトラは誰が見たって……。


『死んでしまったのか。悲しいことだ』

 ユーリアがルトラの前で泣いていると、後ろから沈痛な声が聞こえてきた。

「だ、だれ?」

 ここは立ち入り禁止区域だから森の中でも一際人は少ないはず。そんなところで誰かの声がするなんておかしい。


「……あ」

 ユーリアは涙で腫らした目を見開いた。そこにはルトラが言っていた白い光が存在していた。

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