第830話 目には目を歯には歯を神には神を

首を絞められても死にはしない。触手をすり抜けて逃れることだって用意だ。しかし、僕の考えの甘さから招いた失敗で師と親友を失ったショックが大きく、行動を起こせなかった。


『あーぁ泣いちゃって、可哀想に。泣き止ませてあげるね』


涙を拭った触手がそのまま涙の跡を辿って眼窩に押し入り、ぶぢゅ……と眼球を押し潰す。左だけになった瞳に映るのはハスターだ、ついさっきまでハスターだった。ナイに相対すれば存在が危ういと知っていたのに、兄達よりもマシだと、兄達を失うよりは僕の心は痛まないと、協力させた善良な邪神。


『ごめん……ハスター、ごめんね』


名前を呼んでももう帰ってきてくれない。

まだ潰されていない左目を回し、石柱に叩きつけられ床に落ちた零を見る。加護を与えたことで多少頑丈になっていたかもしれないが、あの勢いで石柱に叩きつけられたら背骨が折れる。

ピクリとも動かない零に対し、せめて即死であって欲しいと祈り、左目からも涙を零す。


『あれ、まだ泣いてる? よしよし』


触手が左頬を這う。左目も潰されるのだ。

まだ立ち止まる訳にはいかないのに、僕の体は動かない。自分の精神の弱さを罵倒していると零が起き上がった。


『…………思ったより丈夫なんだね』


神の像の前に立ち、勝ち誇っていたナイが意外そうに呟く。

ふらふらと無言で歩く零が頭に巻いた布には眼球が生えていた。ナイは途中でそれに気付き、余裕の笑みを消して手のひらに魔法陣を浮かべた。無数の火球が零に向かう──零の前に構築された分厚い氷の壁がそれを防ぐ。氷の壁にナイによる魔法陣が浮かび、振動が氷を崩す。崩れた先に零は居なかった。


『……っ!?』


零はナイに乗っ取られたハスターの背後に居た。彼を凍らせ、触手を砕いて僕を助けた。


「魔物使い君! 大丈夫? 大丈夫?」


右頬に零が頭に巻いた布から伸びた触手が触れ、温もりを感じ、右目分の視界が戻る。僕の傷を治した触手は僕から離れて空中に空間転移の魔法陣を描き、光の洪水の後に兄が現れた。


『ヘクセンナハト……ボクがショゴスに改造してあげたんだっけ? 随分上手く扱ってるねぇ……ちゃんとボクに感謝してる?』


『……せっかくの充電が減るけど、仕方ない。神には神をぶつけないとね』


『…………はぁ?』


ずっと握られていた右手が開き、光り輝く蓄電石が晒される。


『……は!? その気配っ……まさか、あの戦神……!』


『死ね──戦神の雷霆Blitz!』


僕が破壊した天井の穴を通って極太の稲妻が真っ直ぐに落ち、ナイを包む。一秒にも満たない落雷が終わるとナイの姿はなく、雷が落ちた周囲は黒く焦げていた。


『…………やった、かな』


兄は輝く蓄電石を胸に収納し、振り返って僕の方へ歩いてくる。僕は両腕を広げて兄の元へ走った。


『にいさまぁっ!』


『わ……! っと、おとーと? どうしたの?』


『にいさまっ、にいさまぁ……』


兄に抱きつき、痩せた胸に顔を埋める。危機度は大したものではなかったのかもしれない、僕はきっと一人で逃げられた、けれど、大きなショックを受けていた僕の心は唯一の肉親による助けに容易に絆された。


『ありがと、にいさま……やっぱりにいさますごいよ、にいさまがいちばん……』


『え……!? 僕が一番!? 本当に!? やった……! ついにこの時がっ……!』


毛色は違うものの同じように感激する僕達の横を通り抜け、零は焼け焦げた瓦礫を漁る。何をしているのかと数秒考え、直後、ここに来た目的をどうして忘れていたんだと自分を責める。


『……あの人どうしたの?』


『ぁ、あの、ここに来たのはツヅラさんの魂取り返すためで……ナイが持ってて』


自慢げで嬉しそうだった兄の表情が固まる。


『…………にいさま? ま、まさか……さっきの雷で』


神力による神性への攻撃だ、魂が跡形もなく消えるには十分な出力だっただろう。僕の表情筋も硬直したその時、凍りついていたハスターが動き始めた。


『もう一発……!』


『あ、待ってにいさま! ハスターなんだ、友達なんだよ……何とかナイを払えないかな』


右の手のひらの中心からぬるんと出てきた蓄電石がにゅるんと引っ込む。


『……彼、というか彼の操る武器には穢れを払う力や不調を癒す力がある』


そしてその右手をゆっくりと振り上げる。


『──戦神のHammer……ist擬似槌falsch!』


予想通り、思いっきり殴った。


『…………ハ、ハスター? ハスター……?』


まだ凍ってはいたというのに頭部らしき部分を殴られ、床に叩きつけられ、氷が割れるような音と肉が潰れる音を響かせたハスターに声をかけるも、ピクリとも動かない。


『魔法を合わせれば節約はできるか…………ぁ、そうそう弟、あくまでも「穢れを払う」だからそのハスターってのが穢れだったら一緒に払っちゃうよ』


『邪神なんだよハスターは! ハスター、起きて! 起きて! クトゥルフまだ生きてるし羊が危ないかもしれないよ!』


黄色い布を掴んで持ち上げると中にあったはずの触手はなく、どこにも縫われていないのに何故か布から離れない白い仮面があるだけだった。

ハスターの黄衣の下の構造は分からない、触手が生えていることもあるけれど顔は絶対に見えないし、胴体らしき部分も知らない。けれど穏やかな気分の時には触手が一本も見えないのは知っている、友人だから分かっている。


『…………おはよ~』


『……ぁ』


『…………ぁ?』


『は……』


『……は?』


『はすたぁああっ!』


『わ』


兄にしたように抱き着いてもカーテンに突っ込んだような感覚しかない。


『ハスター、よかった、よかったぁ……ごめん、ごめんね……』


『……なんか、頭クラクラする~』


『そ、それは、まぁ……ね?』


仮面の中心あたりを撫でて誤魔化し、ツヅラの魂を探す零の元へ向かう。


『探知……うーん……なさそうだね』


探知魔法を使った兄がそう言うと零は兄の胸倉を掴んだ。


「君があんな技使うからだよぉっ! 助けてくれたのはありがとうだけど、零は零よりりょーちゃんを助けて欲しかったんだよぉ!」


『……ね~、その子人魚の呪いで不死身なんだよね~? なら魂壊れても大丈夫だと思うよ~?』


「…………え?」


『僕本読むの好きだからね~、色々知ってるんだぁ~。人魚の呪いは時空に魂の情報を焼き付ける呪いで~、死んだらそこからダウンロードするから~、ずーっと死なないの~!』


死なないと言うよりは死んでも生き返ると言った方が正しいのか? いや、魂が壊れて、その情報を使って新しい魂が作られたとして、それは本人なのか? 同時に刷られた同じ内容の二冊の本は同じではないだろう、やはりツヅラは兄が殺してしまったのでは?


「本当に!? ぁ……ご、ごめんねぇお兄さん……零、りょーちゃんのことになると、ちょっと……」


零は僕が感じている恐怖を思い付きもしていないようだ。杞憂だとしたら彼に共有すべきではない、僕はハスターの裾を引っ張り彼だけに聞こえるように僕が感じた恐怖を伝えた。


『おっ、テセウスの船かな〜? ちょっと違うかなぁ。え〜と、生き物はね~、食べて~、排泄して~、成長して~、新しい細胞がどんどんできて古い細胞は剥がれていくから~、半年くらいすると細胞は全部入れ替わるんだよ~? 精神面でも〜、考えとかはコロコロ変わるよね〜?』


『えっ……と?』


『その人が自分のことをその人だって言ってて~、周りの人もその人だって認識できるなら~、それはその人なんじゃないかな~』


そう、か? 分からない。これはきっと上位存在の感覚だ。僕のような人間の感覚ではない。しかし確かに零とツヅラがツヅラをツヅラだと認識しているなら、部外者が口を挟む隙はない。

けれど、それでも僕は、殺されたかもしれないツヅラの方を気にしてしまうのだ。

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