第727話 魂に刻む父の名前

白い床の上を白い壁に手をついて白い天井の下を歩いていく。足音が聞こえて透過を意識し、陶器製の天使達をすり抜ける。

『黒』の記憶かザフィの知識か何となくこの場所の地理が分かって、僕は人界に送る魂の保管所にやって来た。管理人らしい天使は白くぼやけてよく見えない、天界での姿はこんなものなのだろうか。


『……ね、ちょっといい?』


翼と光輪だけを現すよう意識して透過を解除し、その天使に話しかける。一つ一つ籠に入れられた魂は淡く輝く丸い塊にしか見えず、どれがクラールでどれがドッペルとハルプなのか分からない。


『魔物使いの子供にする予定の魂ってどれ?』


『ザフィエル?』


『ぁ、あぁ、うん、そう……じゃなくて、そうだ。ザフィエルだ、教えてもらえないか』


ザフィの話し方はどんなだったか。僕が聞いたものと同僚へのものでは違うかもしれないし、そもそも声が違う。


『随分とご執心ね、本当にショタコンだったのかしら』


『え』


『……冗談よ。えぇと、魔物使いの子……確か、アルギュロスって魔獣が母親よね?』


アルの腹に入るのだから僕の子と言うよりアルの子と言った方が分かりやすかったか。


『まず、この子ね。ちょっと待って、霊体作るわ。魂に直接触ったら汚れがついちゃう。せっかく綺麗にしたのに……』


天使は部屋の隅から白っぽい光を引っ張ってくる。アレが神力、霊体の元だろうか。


『……ねぇ、霊体、ちゃんと作ってよ。丈夫に、その……寿命長くしてよ』


『それは私にはどうにも出来ないの。霊体の状態は人界で決まるんだから』


『…………そう』


『ほら、抱っこして。そのために来たんでしょ?』


ふわふわと柔らかく温かい光の塊。クラールとは全く違う形と感触なのに、何故か温度にクラールらしさを感じた。顔も何も無いのに笑ってるように見えた。

恐る恐る抱き締めて、撫でて──そうしていると突然誰かに、いや、天使に抱き締められた。人の形かどうかすら不確定な光の塊、恐らくは霊体に包まれている。光の感触はどこかアルの翼に似ていた。


『……辛かったでしょ? 酷い家に落ちちゃったものね、あなたは。でもこれからはきっと好転するわ。可愛い子供が産まれるのよ、この子の次も決まってて……言わない方がいいかしら。楽しみにしておく?』


『は? ぁ、あの、何を……僕っ、いや、俺……』


『魔物使い君でしょ?』


『…………分かってたの?』


『その魔力見たらすぐに分かるわ。ザフィエルに協力してもらってるんでしょうけど……下手なのよ』


魔物使いだと分かっているのに殺そうとしないとはどういうことだ。それどころか抱き締めて慰めるなんて、天使らしくない。


『子供、迎えに来るほど楽しみ? ふふ、あなたの両親やお兄さんみたいにならなさそうで安心よ』


『…………詳しいね』


『当然よ、私は子宮を司る天使、あなた達生物を一番最初に抱き締める天使だもの。必死に守って温めて、そんな子が虐められるのはとても辛いの。だから、あなたはまた抱き締めてあげたかったのよ』


『……うん、何か……懐かしいかも』


彼女に包まれていると何故か血の匂いがする、獣特有の匂いもある。不思議な天使だ。


『あなたはあなたを大切にして、お嫁さんも子供もぎゅっと抱き締めて守るのよ。それさえ出来ていれば他に何も出来なくていいの、温め合うことさえ忘れなければ、それだけでいいのよ、生物はそれでいいはずなの……だから戦争なんてしないでね、捕まらないで、このままずっと隠れてて……』


本当に天使らしくない天使だ。僕を捕まえる好機を無視している。ただただどこまでも温かく包まれる夢見心地を味合わせてくれる。

僕は初めて天使のために祈った、どうか僕を見逃していることを咎められませんように……と。



天使は僕から離れて別の魂に霊体を被せていく。光の塊が光の塊を光の塊で覆って──としか見えないのは僕が人の肉体を持ってここまで来たからだろうか、少し力んでザフィの力を使うよう意識すると子供に服を着せているように見えた。そのまま視線を下ろすと腕の中に真っ白い仔犬が居た。


『初めまして。お父さんだよ、僕が君のお父さん。ヘルシャフト……君の永遠の味方。君がこの先何度生まれ変わっても僕は君の助けになるよ、覚えてて。幸せになるための踏み台にして。僕を、ヘルを、利用するんだよ』


仔犬は僕の腕を踏んで後ろ足だけで立ち上がり、よじ登るようにして僕の頬を舐めた。


『おとーさん?』


『…………うん、お父さんだよ。君の絶対の永遠の味方、君のお父さん……君をずっとずっと愛してる』


『……おとーさん、あったかい……すき』


『うん、忘れないで、僕をずっと覚えて、いつでも頼って』


目に力を込め続けるのに疲れて瞬きをすれば、腕の中に居た仔犬は光の塊に変わる。


『魔物使い君、その子そろそろ送らないと』


『……うん、ありがと』


天使に光の塊を渡し、再度目を見開いて霊体に包まれた魂達を見渡す。籠に分けて入れられながらも壁越しに寄り添った蛇の姿を見つけ、その子達を抱き上げた。


『ドッペル、ハルプ、えっと……こっちがドッペルかな』


ふと、彼らが僕を「パパ」と呼んだことを思い出す。


『……初めまして、パパだよ。君達のパパ、よろしくね。何があっても君の味方、この先永遠に、何度生まれ変わっても僕は君達の味方だからね』


蛇達は共に同じ方向に首を傾げ、それから大きな口を開いた。


『……パパー?』

『パパ、パパぁ』


『安心して産まれておいで。ずっと守ってあげるから……』


血を吐いて苦しそうにしていた姿が脳裏に浮かぶ。楽しそうな歌声が鼓膜から剥がれない。初めてパパと呼んでくれた時の喜びが蛇達を抱き締める腕を動かした。


『愛してる……永遠に、ずっと』


『……パパー、あったかーい』

『パパ、パパぁー、すきー』


『大丈夫、大丈夫だよ……大丈夫だからね、愛してるよ』


もう二度と産まれる前に死なせたりしないから、もう二度と血を吐かせたりしないから、安心して。

無邪気な声が不安を訴えているように聞こえた僕は蛇達を強く強く抱き締め、籠の中に戻した。


『……そろそろ行くよ。ありがとう、えっと……君の名前は?』


『アルミサエル。覚えなくていいわよ? 私の姿ははその人の理想の母親に変わるの、また会ってもきっと分からないわ』


『ううん、覚えるよ。ありがとう、僕を殺そうとしなかったことだけじゃなくて……僕、最初から独りぼっちだったわけじゃなかったんだって思えたから……産まれる前、抱き締めてくれてありがとう、アルミサエル』


泣いてしまう前に戻ろうとしたのにアルミサエルは僕を再び抱き締めた。視界を覆う翼は何故か白ではなく黒で──それを不思議に思う間もなく彼女は離れた。


『…………ザフィもあなたに還りたがるわけね。私もいつか……いいえ、何でもないわ。早く行きなさい、誰か来たら大変よ』


追い立てられ、もう一度礼を言って手を振って鍵を使う。暗転する世界の中、僕はもう消えてしまった忌まわしい過去が救われたような気がしていた。





温かく包まれる喜びは最初に与えられるもの、そして産まれてからずっと求めていくもの、やがて与え合うものと気付くもの。


『……ヘル、ヘル、私も……私も撫でて』


今腕の中にある温もりが失われると分かっていても、小さく純粋な子供達が純粋のまま終わってしまうと分かっていても、子供達に僕の悲しみを悟らせてはいけない。


『ふふ、アル、クラール、ドッペル、ハルプ……みんな大好き……愛してるよ』


門を超えても寿命は変わらなかった。ドッペル達が産まれて数週間、そろそろ危ない時期だ。

以前と違うのはアルもライアーもそれを知らないということと、治癒魔法を描いたスカーフを子供達にも巻いたこと。これによって霊体の劣化による肉体への損傷は即座に癒え、最期まで苦痛は無い。


まだ魂だった子供達を抱き締めて、鍵を使って戻って来たのはドッペル達が産まれて数日後。心境としてはそこから一週間の最初と最後を繋げて永遠に家族五人で過ごしたかったのだけれど、きっとそうはいかないだろう。


『おとーたぁ、おとーた、おててー』


『うん、いいよ』


『ヘル……あまり噛ませるな』


『アルも噛んでいいよ?』


鍵を使ってから僕は仕事を一切せず、兄に頼んで部屋に厳重な結界を張ってもらい家族と共に引きこもった。アルにはただ最近暇だからと伝えてある。


『ぴりりりっ……ぱぱー、ぁっこぉ』


『どうしたの、ドッペル、ハルプ。抱っこ?』


一日中ベッドの上から降りず妻を隣に子供達を膝の上に……これほど幸せな日々はあるだろうか。

左手の指を噛むクラールと右手に絡みついて甘えるドッペル達を見ていると至上の幸福を感じられるけれど、常に同じだけの絶望が着いてくる。


『……ヘル? ヘル、どうしたんだ』


頬を伝う涙を舐め取り、アルが心配そうに首を傾げる。


『…………ぱぱー?』

『おとーた?』


僕が泣いていると理解していないながらもアルの声色に状況を感じ取り、子供達も首を傾げる。


『ごめん、ね……何でもないよ、何でもない……』


『何でもないのにそんなに泣くものか。何がどうしたのか言ってみろ、ヘル、一人で抱えないでくれ』


後頭部から背を撫でれば何も見えないクラールはその温もりに安心して、翼を優しく揉んでやればドッペル達はくすぐったい温もりに気を取られる。

両手を膝の上に置いて、黒翼に上半身を包まれる。視界がアルの翼と顔に埋められる。


『…………これで子供達には聞こえない。言ってみろ、ヘル』


『ん……大丈夫、ただ、幸せで、それで、分かんなくなっただけ』


『何が分からないんだ?』


『僕、今まであんまり長くて大きい幸せ感じたことなかったからさ、ちょっと、容量足りないって言うか、何て言うか……こんなに幸せでいいのかなって。僕なんかがこんなの……いいのかなぁって』


本当はこの幸せが消えてしまう日が怖くてたまらないのだけれど、アルに伝えたことも事実ではある。


『何を言っているんだ、ヘル。貴方はこれからもっと幸せになる、今でそんなに泣いていては先が思いやられるな。これ以上子供が増えたら貴方の心臓は止まってしまいそうだ』


『ふふ……止まるかも』


『駄目だぞ、止めるな』


『うん、大丈夫……ありがとう、アル、ありがとう……』


子供達から手を離し、両腕をアルの首に回す。逞しい身体を強く強く抱き締めて、これだけは失われないのだと安堵する。


『…………あの日、助けてくれてありがとう。あの日から、きっと、君が僕の……』


天界での記憶が蘇る。アルミサエルの抱擁は懐かしいものだった、産まれる前の経験からだろうと思っていたけれど、彼女の姿は彼女を見る者の理想の母親になると聞いて、懐かしさの訳を思い出した。

彼女の抱擁で味わったのは温もり、そして血と獣の匂い、黒翼に分厚い毛皮の感触だった。


『……私は、貴方の……何だ?』


今味わっているものもそう。血の匂いはないけれど獣の匂いには包まれているし、毛皮と黒翼もある。


『ううん、多分……これ、気持ち悪いからやめとく』


『気になるぞ。私は貴方を気持ち悪がったりしない、言ってくれ』


光を塞ぐ黒翼の中、僕はアルの頬に手を添えた。


『…………お母さん』


『なっ……! ぁ、あぁ、そうか、それは、確かに……気持ち悪いな』


『酷い……ふふ、あははっ……』


蔑む目も、払われた腕も、振り下ろされた刃物も、母から与えられるべきものではなかったから。

生まれて初めて存在を許して温めてくれた君が理想、君こそ僕を人間にしてくれた母親。


『そういうものはな、ヘル。包容力があるとか……甘えさせ上手だとか、そういう言い方をした方がいい』


『包容力の権化、ダメ人間製造機』


『それは悪口だ』


全てを受け容れてなんて言わないから、せめて生きていてもいいと言って欲しい。そんな幼い頃からの分不相応な願いを叶えてくれて、もっと我儘に育ててくれた。


『おとーたぁ、おとーた、ぁっこぉー』


『ぱぱー? ぱぱ、ぱーぱぁー』


僕を親にしてくれた。


『……ごめん、アル、ちょっと』


『あぁ、もう落ち着いたな。早く子供達に構ってやれ』


『うん、アルもね?』


『……私より貴方の方が好かれている』


『そんなことないよ。ねぇー?』


抱き上げた子供達の可愛さはもちろん、その小ささを恐れてゆっくりと顔を近付けるアルも愛おしい。

僕はもう、独りにはなれない。

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