第728話 腐臭
深夜、僕は寄り添って丸まって眠るクラールとドッペル達を見ていた。寝息は安らかで、時折ぴくぴくと動くのが可愛らしく、生きていると実感させてくれる。僕に幸せをくれる。そんな娘達がもうすぐ死んでしまうと考えて、涙を堪えられる訳もない。
僕はそっとベッドを抜け出して洗面所に向かった。
『……っ、はぁ、はぁ…………何でっ、何で……!』
顔に乱暴に水をかけて前髪までびしょ濡れにして、吐きそうになって洗面台を掴む。嗚咽する声が漏れるだけで胃の中身は逆流してこない。
『…………ヘル?』
背後から声がかかる。もう一度顔を濡らし、笑顔を作って振り返った。
『どうしたの、アル。起こしちゃった?』
『……貴方こそどうしたんだ?』
『子供達眺めてたら寝れなくってさ、もう今日は起きておこうと思って。クラールが寝る前に顔舐めてきてべたべたしてるし、顔洗ってただけだよ?』
タオルに顔を押し付けて瞼の上から眼球を圧迫し、涙を絞る。きっと意味はないけれど、泣いていたとは絶対に分からない。
『そうか、今日は寝ないのか』
『アルは寝ておいでよ、疲れてるでしょ?』
アルは何も言わずに僕に擦り寄ってくる。翼を畳んで後ろ足で立ち上がり、前足を僕の肩に置く。太腿に尾を絡ませて、額を頬に押し付ける。
『……ヘル、子供が居て幸せか?』
『ん? うん、幸せだよ』
もうすぐ消えてしまう幸せだけれど。
『…………子供は、可愛い……よな』
『うん……可愛いね』
バツが悪そうに、言いにくそうに、アルは続きを話そうとしてはやめる。吐息で分かる戸惑いをただ不思議に思い、閉じた翼の上から背を撫でた。
『ヘルっ……その、ぁ、いや……』
『……何? いいよ、言って』
『…………でも』
『大丈夫、何でも言って』
何か不満や不安があるのだろうか。外に出たい……なんて願いではなさそうだ。きっともっと何か重大なこと、まさか子供達の死期を察したのか──
『……も、もう一人、欲しくは……ないか?』
──と考えていたからアルの質問に咄嗟に答えを返せず、じっと顔を見つめ返してしまった。アルの顔色は分からないけれど肌が見えていればきっと真っ赤になっていくのが分かっただろう。そのうちに僕を突き飛ばして洗面所の隅に逃げてしまった。
『ア、アル?』
『忘れてくれ! 私はっ……私は今何も言わなかった!』
不器用な前足を何度も失敗しながら顔の上に乗せ、目を塞ぐ。なんて可愛い仕草だろう。
『私は、なんて……なんてはしたない真似を…………違う、違うんだヘル……』
蹲って顔を隠したかと思えばまた寄ってきて、今度は腹の辺りに前足を上げる。
『近頃、貴方が子供達ばかりで私にあまり構ってくれないから…………ぁ、違っ……こ、これも違う! 違う……私は、私は、その……』
首にそっと腕を回して身体を引き寄せ、抱き締める。するとアルは静かになって瞳を震わせ僕の言葉を待つ。
『……ごめん、お誘いだって気付かなかったよ』
『ちっ、違う! 誘い……なんて、そんな下品な真似……』
『…………ここでいいの? アル……床硬いよ? ちゃんと最後まで立ってられる?』
『……っ! ヘルのばかぁっ!』
確かに、少しふざけた。照れるアルが可愛らしくて、これからと今までを想像させる意地悪な言い方をした。
確かに、僕が悪かった。けれど鳩尾を尻尾で突くなんて酷いじゃないか。せめて頭突きなら可愛らしいで済ませられたのに。
『げほっ、ぉえっ……ぅ…………ふぅっ、アル……アル?』
先程とは別の意味での嗚咽を終えて呼吸が整う頃にはアルは洗面所には居なかった。
『ちょっとからかっただけなのに……』
何百年も生きていて僕を子供扱いしているくせに、娘が三人も居るくせに、ああまで乙女だとは……可愛いなぁもう。
四人目からは大人まで育つと聞いたけれど、きっとその子が産まれる頃には娘達は死んでしまっているだろうし、その直後で僕とアルがまともに子育てが出来るとは思えない。次の子を妊娠中に全員死んだなんて一生残る傷だろう。そう考えて四人目はもっと後にと考えていたけれど、あんな可愛い姿を見せられては悶々としてしまう。
『…………シャワー浴びよ』
ついでに芯の熱を解消しておこう。
風呂場の灯りを点け、扉を開く。その瞬間、異臭が鼻腔を突いた。風呂はしっかりと掃除してあるはずなのに、数年ものの死体でも沈めているような、何十年も掃除していない公衆トイレのような、突き刺さるような酷い刺激臭だ。
その臭いの原因はすぐに分かった。風呂場の隅から吹き出す煙だ。何なのかは全く分からないがその煙の奥に頭らしき何かが見える。
『ぅ……干渉、遮断…………よし』
とても鼻をつままずにはいられない悪臭の干渉を遮断、鋭敏な嗅覚を持つアルと子供達のために後ろ手に風呂場の扉を閉める。
『……誰だ』
実体化する黒っぽい塊……四足歩行の……いや、四足歩行でもない? 寄ってくる。形が変わっている。肉体は……ある? 無い? 少なくとも実体はあると思われる。会話は不可能だ。
『仁輪加、雨の鞭……』
手のひらに浮かべた雨雲から落ちる雨水が手に溜まる、液体のまま固体のように掴める形ある水は鞭のようになって不気味なモノに向かう。
『効いてる? あぁ、僕には何も効かないよ!』
怯んだようにも見えたソレは首を振るような仕草を見せた後、僕の方へ突っ込んできた。僕が現した雨の鞭と似た細長く鋭いものが僕の心臓の位置をすり抜け、次に身体らしき部分がすり抜ける。今伸びていたのは──舌、辺りだろうか?
『残念でしたー、なんって……ね!』
雨の鞭を投げればひとりでにソレに巻き付き、床に広がった水と繋がって強固な拘束となる。
『狂言、通り雨!』
床に溜まった水、壁や天井に飛んだ水滴、今も雨雲から降り続ける水、あらゆる水が無数の針のように尖って伸び、ソレを貫いた。
キャンッ! と甲高い鳴き声が聞こえ、ソレは煙に戻り、隅に吸い込まれて消えていった。倒したのだろうか?
『…………そんな声出すなよ』
イヌ科の悲鳴は罪悪感を異常なまでに煽り立てる。狼を妻と子に持つ僕には特にキツい、精神攻撃と言っていいだろう。
落ち込んでいると風呂場の扉の磨りガラスが引っ掻かれる。
『ヘル、ヘル! 開けろ、何があった!』
ドアノブを捻るとアルが飛び込んでくる。服を着たままびしょ濡れになっていた僕を心配し、早く脱げと言いながら服を咥えて引っ張ってくる。
『……シャワー浴びようと思ったらさ、何か変なのが来て』
『変なの? いいから脱げ』
脱げと言われてもアルが下向きにシャツを引っ張るから脱げないんだ。
『ちょっと待ってよ、自分で脱ぐって……それとも何? アルは僕の服破りたいの? 今日は随分積極的だね』
『なっ……! ち、違う! 風邪を引いたらいけないと!』
『分かってるよ、ごめんごめん、ありがと』
濡れた服を脱いだらバスローブを羽織り、洗面所の床に座り込んでアルの翼に包まれて説明を始めた。
『何か……ほら、煙みたいなのがシューって出てきてさ、すっごい臭かったんだよ』
『……あぁ、ベッドまで届いたぞ』
『アルとクラール苦しいだろうなって閉じたんだけど、ダメだったかぁ』
『いや、閉じていたからあの程度で済んだのかも知れん。ありがとう、ヘル。意味が無くとも緊急時に私達を気遣ったというそれだけで素晴らしいよ』
アルは本当に優しい。滅多に僕を否定しない、褒めるところを探してくれる。こんないい子が妻だなんて僕は本当に幸せ者だ……っと思考が逸れた。
『……で、何か……こう、塊? 実体化……? ほら、兄さんが煙みたいに出てきて人型になるのと似た感じで、何かこう……んー、犬っぽかったような全然そんなんじゃなかったような』
『形は分からんのだな。まぁよくある事だ、貴方はまだ人間が抜け切らんのだろう』
霊体と呼ばれるものがハッキリ見えないのと同じだろうか。ならアレは霊体? そんな雰囲気でもなかった気がする。
『まぁ、何とか倒した……? んだけどさ』
『強くなったな、ヘル……嬉しいけれど少し寂しいよ』
『今度は僕がアルを守る番だからね。で、えっと……倒して? さ、消える時……キャンって言ったんだよ、多分……アレが鳴いたんだと思うけど、キャンって……』
アルは何が言いたいのか分からないと首を傾げる。
『……アルもたまに言うでしょ? あれ苦手なんだ……すごく焦るんだよ、痛そうで、辛そうで……』
『…………あぁ、これか?』
あまり痛そうではないけれど、アルは甲高い声を聞かせた。
『それぇ……そんな感じ…………やだなぁもう、精神攻撃だよ……』
『変わった感覚だな。悲鳴や断末魔などこんなものだろうに』
変わっているのは僕の感覚なのだろうか。イヌ科の悲鳴が特に苦手だなんて、アルが居るからそうなってしまっているだけなのだろうか。まぁそれはどちらでもいいけれど。
ともかく、敵は恐らく倒した。夜が明けたらライアー辺りに共有しておこう。
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