第714話 驟雨を司る天使
輝く光輪を浮かばせた頭を僕の眼下に垂らし、炎の消えた白い翼で自分の身体を包むウリエル。
『……ありがと、みんな』
眼前の蝿に伝言を渡し、ウリエルの髪を掴んで持ち上げる。
『…………君は結界も封印も破れる』
『あんなっ……程度の、破れるに決まってんだろ……供給さえしっかりしてたら四大天使誰でも出来る……』
苦しそうに息をしつつも僕を睨む。
『君を結界の外に追い出しても結界を破って入ってくるし、封印しても破ってまた襲ってくる』
ルシフェルがされていたように常に力を吸い続ける装置か術でも作ればあるいは……と言ったところだが、吸い取った膨大な神力をどうするのかを考えると難しい。他の天使が助けに来ないとも限らないし、ウリエル曰く結界を破る天使はまだ居るらしいし、やはり殺すのが確実だ。
『二度と相手したくないから死んで欲しいんだけど』
『はっ……人間辞めようがどうしようが魔物使い、魔物使いが天使殺せるかよ』
『…………アザゼル! 来て』
カルコスの背に乗ったアザゼルが傍に来るとウリエルは表情を変えた。天使の殺し方は天使しか知らない……なら、堕天使は? 当然知っている、ルシフェルだって僕の目の前で天使を一人殺してみせた。
『まっ……待て、待ってくれ!』
慌てたウリエルは僕の腰にしがみついて命乞いをする。これは滑稽だ、しばらく遊ぼうか──なんて考えていたが、ウリエルの背後でゆっくりと起き上がったザフィを見て背筋が凍る。
蛞蝓よりも遅く、肩で息をしているザフィ。彼の頭の上に光輪はなく、翼もなかった。次の瞬間脳裏に蘇るのは牢獄の国での記憶。この神力を封印する魔法を知った時のこと。封印された直後、オファニエルの光輪は消えて翼は崩れていった。
『……カルコス、アザゼルっ! 逃げろ!』
そう叫びながら刀と小烏を投げる。
羽根を縁取る炎を失っていたから油断した、ウリエルの光輪も翼も白く輝いている。二人に逃げろと指示を飛ばして、腰を掴む手に熱を感じて、透過しようと思考する途中で爆発が起きて視界が黒く染まった。
「く……そ、相殺は出来なかったか……兄ぃー! 兄ぃ! 俺とライオンさっさと助けろ!」
アザゼルの声が聞こえる。彼女は軽傷なのだろうか、カルコスが庇ったのかもしれない。兄もライアーも近くに居るし、きっとすぐに治してくれる。僕も早く再生してウリエルの気を引かなければ。仲間達に向かわれる訳にはいかない。
『ふぅー……オファニエルに聞いてて助かったな。時間経過で解けるんだっけ? 節約しつつぶっ飛ばさねぇとなー……あァ? ザフィ、てめェ何してやがる』
視界が黒く染まっているのは目が潰れたからでも焦げ付いたからでもなかった、目の前に物があって光が遮られているだけだ。邪魔なそれを引き剥がそうとすれば、僕の肩を掴んでいた腕がボロボロと崩れて──腕? 僕の目の前に居たのは、人?
『…………魔物使い庇うとはなァ? 堕ちる気か? あァ?』
ウリエルが僕を庇ったザフィらしき黒い塊を持ち上げる。僕は慌てて炭化した自身の四肢を地面にぶつけて崩し、熱によって痛覚が麻痺しているうちに再生を意識する。
『……ウリエル、お前なら知ってるだろ……魔物使いは神の本当の最初の作品、完璧な道具だ』
『だったらなんだ、道具が持ち主に逆らうなんざありえねェだろ。天使の言いなりになって魔物の奴隷化に手を貸した魔物使い! 魔封じの呪の基礎を作り上げた魔物使い! そいつらが本当の魔物使いだ……奴隷解放だの魔性の王だのは持ち主裏切ったゴミなんだよ』
僕の肩を掴んでいた左腕、今はもう肘から下がないその腕の断面が震える。残ってはいるものの黒焦げた右腕が同じように震えながら曲がり、胸元で手を広げる。
『道具は……機能を追い求める程に美しくなる。美を意識なんてしちゃいないのに、機能だけを気にしてきたのに、何故か美しくなる…………神の道具、魔界の栓……その美しさは、俺達の神によく似ている……』
ボロボロに崩れていくはずの指先が胸を引っ掻くと胸の方がボロボロと崩れて、黒焦げの手にコロンと真球が転がった。
『どれだけ働いても……心身をすり減らしても、尽くしても、神は天使を労うことすらしない』
『……当たり前だろ。お前まさかルシフェルみたいなこと言う気か? 神の手をわずらわせないように代行として神から性質分け与えてもらって動いてんだ、そんなもん誰が労うかよ』
その真球には空が閉じ込められていた。比喩ではなく、本当にドス黒い雲が中にあった。それからは少し前のこの国のように滝のような雨が降っていた。もう一つの世界のような不思議な球を見つめていると、パラパラと煤が落ちる。目線を少し上げれば焦げた顔が少し緩んでいるのが──ザフィが微笑んでいるのが分かった。
『神に似た美しい道具が……頑張って、と微笑みかけてくれた。俺を何度も頼った…………ようやく救われたんだ。亜種人類や獣人の扱いで神について悩んでいた俺は、あの日救われた……』
『もういい、分かった。もったいねェが仕方ねェ、帰ったら堕とす。端によけてろ』
『……俺は君の元に還りたい。俺に微笑んでくれた君に……全てを』
ウリエルに蹴りどかされる直前、ザフィは持っていた真球を強く握って割り、破片を僕に投げた。中の雲は消え、雨も消え、ただ溜まっていただろう雨水だけが僕の身体に染み込んでいく──痛みが引いていく。これなら再生に集中出来る。
『…………は? お前……クソっ、やってくれたなァ!』
足の再生が寸前で終わり、地面を蹴って転がり剣を躱す。次に再生が終わった右腕を地面について起き上がり、最後に再生が終わった左腕で吹っ飛ばされていた刀を掴む。
『小烏、平気?』
『は、はい……飛ばされましたので、何とか燃えずに済みました』
投げたのが功を奏したのなら良かった。
『……はぁ、クソっ……呼ばなきゃよかったな、堕天予備軍だとは……あー、ァー、もういい面倒臭ェ』
それしても──何だろう、妙な気分だ。熱源を目の前にしているのに妙に涼しい。激しい雨に打たれているような気分だ。鬱屈とした湿り気ではなく、くるくると踊り出したくなるような雨──降ってはいない、降っていたらいいのに。
『…………魂ごと燃えろ魔物使いっ!』
じゅ、と炎を纏った剣に触れた水が蒸発する。その水は次から次へと空から落ちてくる。ドス黒い雲から滝のように激しく雨が降っている、ザフィは蹴りどかされてから動いていないのに。
『透過っ! 小烏、刀持ってしばらく逃げてて!』
『え!? しょ、承知しました……うぅ、歯痒い……』
刀を空に向けて投げると小烏はその鞘を咥え、不揃いな羽根を必死に広げて滑空する。路地裏に入ってフェルに受け止められたのを見て安堵する。
『すり抜けんなァっ! 鬱陶しいんだよっ!』
そう叫んだウリエルに向かって走り、彼女の体をすり抜け、白いだけの翼を見上げる。そして雨を受けるように手のひらを空に向ける。
僕には何故か確信があった。
『足高蜘蛛十刀流複写……』
確信が形になる。僕の手に溜まった水は剣のように伸びて液体のまま固形になる。この雨は自然現象ではなく魔力か神力によって引き起こされたものだという何よりの証拠だ。そしてその剣は十本に増えて、僕が持つ二本の後を追うように浮かんで揺れる。
『……っ、取り込まれやがってクズがっ!』
『剣舞、村雨!』
身体が勝手に動く。
右手の剣を炎を纏った鉄塊の刃に横に添え、左手の剣を燃え盛る鉄塊の腹に当てて押し、受け流す。重心を下げて踏み出し、体を捻る。手に持った二本で切り付けたらその体をすり抜け、背を向けたまま両手を下ろす。手に持った二本を追う八本の剣が勝手に切り刻んで、背後で鉄塊と肉体の崩れ落ちる音が聞こえた。
『………………お疲れ様』
剣達が硬さを失い、自然な液体のように地に落ちる。パシャパシャと音を立てて全ての剣が消える頃にはもう雨は止んでいた。数分、あるいは数十秒しか続かないのが驟雨というものだ。僕はそんな驟雨を労い、微笑みかけた。
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