第693話 幼子のため
重要書類に適当に判を押すだけの仕事を終え、ヴェーン邸に戻る。マスティマがどこに居るのかは知らないが、結界を張っているヴェーン邸には入れないはずだ。だからマスティマに襲われる可能性があるのは仕事などで外に出る者だけ。見境なくなんてことはないだろうから僕に対する人質になるような者だけ。アルとクラールは特に結界が厚い僕の部屋に閉じ込めてしまおう。
『出来たよ、ほら』
二人を部屋に籠らせる口実を考える僕の前に兄がスカーフを広げる。
『ありがとにいさま! 早かったね……本当にありがとう。後さ、言っておきたいことが──』
同じスカーフを二枚受け取り、兄にマスティマについて話した。
仲間達に真実を語っても僕がおかしくなったと思われるだけ。魔物である彼らには魔力が視えていて、自分の目で見て確かめられるのだから僕の言葉を信じずに騙される。マスティマが天使だなんて、僕のように過去を見ない限り気付けな──待て、それならアスタロトは僕の前世が殺されるのも分かっていたのではないだろうか、それとも平和に油断して予知していなかったのか。
『……分かった。短い金髪の女の悪魔だね、絶対入れないよ』
『うん……多分悪魔にしか見えないから、本当に気を付けて』
兄も魔力視が出来るからマスティマは悪魔に見えるだろう。自分の眼が間違っているなんて思わなくて、僕の妄言だと思うのだろう。けれど兄は天使に見えなかったとしても僕が「入れるな」と言った者を入れはしない。きっとセネカやメルであっても、フェルだとしても──
『最近は随分虐待魔と仲が良いんだねぇ、ヘル?』
背後から抱き着くようにしてライアーが覗き込んできた。
『彼は君の名前も言えないんだよ?』
『僕の名前呼べる人の方が少ないよ』
『兄ならたった一人だとしても入っているべきだと思うなぁ』
嘲笑を混ぜた口調と共に兄を見下し、べったりと僕に引っ付く。兄は不愉快そうにため息をついて自室に帰った。
『……兄さん、僕も部屋に帰るから』
『お兄ちゃんも一緒に行くー』
『ダメだよ……』
『な、なんで!? お兄ちゃん何かした?』
強いて言うなら兄を煽った。
『あのさ、兄さん。お嫁さんと娘が居る部屋に兄を連れてく馬鹿は居ないよ』
『居てよぉ! ヘルこのところあの虐待魔ばっかりでお兄ちゃん構ってくれないから寂しいんだよ?』
また性格が変わっているような──僕はライアーにこうあって欲しいなんて願っているのかな、とても鬱陶しいけれど、鬱陶しいくらいにじゃれ合いたいとでも思っているのかな、面倒な奴だ。
『構うって言っても兄さんと遊ぶことなんてないしさ……今忙しいんだ、また後でね』
ライアーを振り切って自室に戻り、ベッドの上で丸まって眠るアルとカーテンを登ろうとしているクラールに笑みを零す。
『こら、クラール。君は猫でもハムスターでもないんだから』
ベッドからはアルが下ろしたのだろうか。クラールにとっては結構な高さだが、自力で飛び降りたのなら足を挫いては──いないようだ。ベッドの周りにクッションでも敷き詰めるべきかな。
『クラール、叔父さんがスカーフ作ってくれたんだよ。お父さんのローブとお揃いのデザインだよ、巻いておこうね』
兄に作ってもらったスカーフをクラールの首に巻く。スカーフなのか涎掛けなのかは微妙なところだが、まぁまぁ似合ってはいる。もう一枚の方はアルの尾に巻いておこう、尾の先端の黒蛇の頭にはスカーフらしく見える。
『お母さんともお揃いだよ』
『おしょりょー?』
『そう、おそろー……ふふ、こういうのいいよねぇ』
同じ服を着ている家族は傍から見ると少し恥ずかしくなるが、実際やってみると中々良いものだ。他人の目が気にならなくなる気持ちも分かる。まぁ僕達はローブとスカーフとスカーフの模様だけ……シャツまで同じなんていつか見た本の中の家族よりはマシだろう。
さて、クラールの食事をフェルに頼んで、僕はもう一度兄を頼ろう。
『……これでいい?』
『うん……うん、完璧。ありがとにいさま!』
『過保護過ぎやしないかい?』
家具を全て出したりだとかは面倒なので魔法を使って床に分厚く柔らかいマットを敷いて、僕の腰ほどの高さまで壁にもかけた。部屋は少々狭くなったし廊下との段差も出来てしまったけれど、概ね満足だ。
『あと本棚、クラールがぶつかって本落ちたりしたら危ないからさ』
『なら貰っておくよ、ちょうど欲しかったんだ』
兄の部屋にも本棚はあったはずだが、壁一面でも足りず壁二面にする気だろうか。
『ランプも落ちたら危ないし……』
『空間固定でもしておこうか?』
『よく分かんないけどやっておいて』
それを本棚の時に提案しなかったのは本棚が欲しかったからだろうか。スッキリした壁を眺めながら兄らしさを覚える。
『ランプ置いてる棚にもなんか柔らかいの巻かないと、あとベッドの足とか……下に潜るから下にも欲しいな』
『んー……これは? キルト。中に綿が入ってるから安心だよ』
兄が持っているキルトとやらをぼふぼふと叩く──人の手の上で、それも畳んだ状態では参考にならない。
『じゃあ適当に二重くらいに……んー、もう少しクッション性が欲しいかなぁ』
布の一片を切って綿を追加して縫い直したりなどしながら硬い物を覆っていく。最終確認は僕の手と頭だ。
『よっ……と、うん、大丈夫』
硬さだけでなく振動や反発も見ておきたかったので、壁や棚やベッドの足やらに頭突きを繰り返し、試験は終わりだ。
『懐かしいなぁ、僕も昔ヘルが寝てるベビーベッドの周りにクッションとか毛布とか置いてたんだよ。その後すぐに怪我したら魔法で治せばいいって気付いたんだけどね』
『クラールに痛い思いはして欲しくないし、僕自身は治癒使えないからさ』
『それもそうだね。ふふふ……』
上機嫌に兄が笑いながら出て行って、すぐに僕も部屋を出てクラールを迎えに行った。マスティマのこともあるし、これからは僕だけで食事を調達しに行こう。この部屋の扉に鍵はあったかな。
『…………随分と柔らかくなったな』
改装で眠りが浅くなって出入りの音に目覚めでもしたのか、ベッドの上に寝転がったままのアルが右前足だけをベッドから垂らして眠そうに呟く。
『クラール走り回るからねー、すぐぶつかっちゃうし』
『……良い事だが過ぎると毒だぞ。いいか、ヘル。狼というのは本来森や山、岩場だろうと走って──』
『でも、クラール野生じゃないし、目見えないんだよ?』
『…………それは』
『目が悪いとかじゃないよ、全然、何も見えないんだ。明るさも分かんないんだよ?』
アルはバツが悪そうに顔を逸らし、落ち着きなく尻尾をくねらせた。
『さ、クラールぅー、いっくらでも走り回っていいからねー』
『きゃう、わぅわう』
『んー?』
クラールは走り回ることなく僕に何かを伝えようとしている。
『わうぅ、ぷに、ぽよぉ……ぼーぅ、きゃう、きょろー……』
『ア、アル……通訳……』
我が子と会話が出来ないなんて、なんて駄目な父親だろう。
『……ぷにぷにぽよぽよしたボールをコロコロしたい、だそうだ』
『ぷにぷにぽよぽよ……?』
そんなボールはこの家にあっただろうか。フェルに預けた時に遊んだのだろうとは思うが、ボールなんて心当たりがない。それと「ぷにぷにぽよぽよコロコロ」と擬態擬音を真面目な顔で言うアルが面白くて可愛い。
『フェルに聞いてくるね』
キルトを貼り付けて開けにくくなった扉を開けてフェルの元へ。事情を説明するとフェルは手を溶かして球体にし、切り離した。新しい手でその球体を持ち、僕に渡す。
『ぷにぷにぽよぽよって、スライムだったんだ』
『辺りのスライムよりは弾力あるよ。名付けて、ぷにぽよショゴスボール、有事の際には牙を初めに色々生えます。今ならお安く有能な弟へのなでなで五往復でお買い求め頂けますが?』
『いらない……ちょっときもい』
『お子様が欲しがっているとか?』
フェルは下手くそな揉み手をしてわざとらしく声を高くし詰め寄ってくる。
『いらないよ、返す』
何となく気持ちよくて握って遊んでいたボールをフェルに押し付けると、肌に溶けて吸い込まれていった。
『……手間賃としてなでなで二往復を要求する』
拗ねた様子のフェルに手間賃を払い、収穫無しで部屋に戻った。
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