第692話 毛皮不足は厳禁
マンモンに言い付けられ、溜まっていたという重要書類に目を通していく。彼曰く国王は飾りのつもりだったのに演説であれだけ言われては働かせない訳にはいかないとか何とか……あの演説は兄の指示なので、とりあえず兄を恨んでおこう。
『……ヘル、私を置いていて良いのか?』
元アシュ邸の一部屋、アシュメダイの元仕事部屋、数分前まで書類が散乱していた床に寝転がったアルが僕を見上げる。その傍らではクラールが丸めた紙で遊んでいた。
『あまり褒められた事では無いと思うぞ、重要な仕事場に妻子を連れ込むなど』
『ねぇアル? 炎天下で休憩無し、水分補給禁止で人を働かせることってある?』
『割とあるぞ』
あるのか。
『適切な睡眠、適切な食事、休息、お昼寝、水分補給に適切な睡眠。仕事をしてなくても大切なんだ、仕事してるならもっと大切だよ』
『……寝過ぎだな。で? 何が言いたい』
『人間には絶対に必要なものがある。食べなきゃ飢え死に、寝なきゃ……死ぬ』
不眠での死亡は知っているがそれらしい言葉が出てこなかった、格好付かないな。
『僕はアルを定期的にもふらないと死ぬ』
『……もふらないと、とは』
『それはね……こうだよ!』
椅子から飛び降り、アルの腹に顔を埋める。驚いて僅かに身を跳ねさせたアルの反応も、その体温と毛皮の感触もその下の柔らかさも、説教を聞かない僕に苛立った後ろ足での緩い蹴りも、何もかも愛おしい。
『はぁっ……ふぅ…………最高、ありがとう。それに、クラールまだまだ小さいからね。アルに任せっきりなのはダメだし、何よりクラールが居てくれるとやる気が出るしさ』
『…………何なんだその切り替えの良さは……まぁ、それで効率が上がるなら私は何も言うまい。誰に何を言われても知らんぞ』
『やだなぁアル、アルのお腹に顔突っ込んだ後の僕に誰かの悪口が届くと思う?』
『……私は麻薬か何かか?』
『中毒性はアルの方が上だよ多分』
それでいて健康被害が皆無、むしろ健康になるのだから良いこと尽くめだ。
僕への説教を諦めて眠る体勢に入ったアルの頭を撫でて、席に戻る。今アルに言ったアルをこの部屋に置いておく理由は全て建前だ、真実も混ぜてあるけれど。
本当の理由は妻子をマスティマに接触させないため。何の目的があるのか彼女は人界にしばらく留まろうとしている。マンモンが帰った今、この邸宅にいる彼女を殺すのに邪魔なのはメルだけだ。メルがマスティマから離れてアルとクラールの安全が確保出来たら殺そう。
『……クラール、クラール、おいで』
名前を呼んで音を立て続ければクラールは僕の方へ走ってくる。名前を呼んだだけでは方向が絞れずに混乱し、音を立てただけでは何が居るのか分からずに怯えてしまう。
『わぅっ! わふぅっ……おとーたん!』
『…………よしよし』
何も見えていないくせに慎重にはならないから障害物があれば最も大きな害を招く。だから真っ直ぐ向かってくるクラールの道にある物は呼ぶ前にどかさなければならない。
小さく弱く、全盲の我が子の為にはどんな些細なミスさえ許されない。少しでも危険性があるなら全力で排除しなければならない。たとえマスティマの目的がクラールに害が及ぶものでなかったとしても、天使というただそれだけで排除に足りる。
『クラール、お父さん今からお掃除に行ってくるからお母さんと待っててくれる?』
そう言うとアルはむくっと起きて僕に額を擦り付けてきた。
『……お願いね、アル』
書類の束を小脇に抱え、書き損じを押し込んだゴミ箱を持つ。そうすればアルは僕の真の目的を察せない。
部屋を出て角を曲がったところで書類とゴミ箱を床に置き、刀を呼び出せる状態にして手ぶらでマスティマを探す。
『お待ちください』
書類とゴミ箱を置いて三歩ほど歩いたところでローブを引っ張られ、慌てて振り返る。この階には誰も入るなと言って、部屋を出た時だって何の気配もなかった。
『…………アスタロト?』
『今すぐお戻りください』
風に吹かれる蝋燭の炎のように姿が揺らぐ執事風の男。実体化が安定していないようだ、つまりそれだけ緊急で重要な案件だということ。
『戻るって……何、魔界?』
サタンに僕を呼んでくるようにとでも言われたのか?
『家族が大切なら早く部屋にお戻りください』
『……っ!』
壁をすり抜け、直線で仕事部屋に戻る。アルはクラールに何か言葉を教えているようだった。特に危機が迫っている様子はない。
『ヘル? どうした』
僕が壁をすり抜けてまで急いで帰って来た理由を聞きたいらしいアルに返事をせず、出た時と何も変わらない部屋を見回す。
『…………なんでもない』
ベルゼブブはアスタロトを信用するなとか言っていたし、サタンもほぼ同意見だった。僕を部屋に戻して彼に何の得があるのかは知らないが、利用されただけかもしれない。
『……言えるか? クラール……教えた通り……』
一応窓と扉の鍵を閉めておこう。後で鈴でも持って来て侵入に素早く気付けるようにしなければ。
『おとーた、おとーたぁ』
『ん、よしよし。お母さんと遊んでて』
『……ヘル、聞いてやってくれ』
『何を?』
危険が迫っているかもしれないのにクラールと遊んでいる暇はない。しかしアルの真剣な目に押され、周囲を警戒しつつクラールにも意識を向ける。
『おちゅ、かりぇー……しゃまー?』
たどたどしく言葉を紡いで、不安そうに首を傾げる。
『…………ありがとう』
『む……練習ではもう少しハッキリ発音出来たのだが』
『……アルもありがと。でも僕まだ休めないよ』
『あぁ、貴方は此処ではただの無職だったからな、その分しっかり働け。労いは幾らでもしてやる』
休めない理由は仕事だけではないけれど……いや、むしろ警戒の方が上位の理由だけれど。
『…………回避成功、おめでとうございます』
『ぅわっ!?』
目の前に執事風の男が現れ、アルがクラールを咥えて素早く飛び退いた。僕は固まってしまって何も出来なかった、こんなことでは二人を守れない。
『……回避って何』
『館の爆発です』
『爆発……!? 何でそんなのが』
『高濃度魔力多量放出によるものですよ、行動を起こすなら御家族様よりはお離れになった方がよろしいかと』
あの時マンモンに止められずマスティマに暗殺を仕掛ければマスティマが何らかの方法でこの邸宅を爆破し、アルとクラールに何らかの被害が出たと?
『……まぁ、奥方様は九割九分無事、御子様も七割程度の確率で無傷でしたが』
『…………いや、七割じゃ駄目だ。ありがとう、アスタロト』
館の爆発からアルがクラールを庇える確率が七割、と言ったところか? 約三割の確率で庇えずにクラールが──いや、詳細な想像はよそう。
『お礼に食べていいよ』
『いえ、遠慮させていただきます』
『……見た? まぁ、分かってたよ』
僕の血肉を吸収すれば魔物使いの力が聞きやすくなって、操りやすくなる。彼の力は便利だからこれから先もアルとクラールの危機を予知させようと思っていたのだが、彼は僕を喰うより魔界に帰りたいようだ。
『それでは失礼致します』
僕を喰わなくても試してみようか──なんて考えていたら早々に帰ってしまった。初めは打算なく報酬を与えて信用させるべきだったな。
『……ヘル、アスタロト様と何かあったのか? 爆発だとか、私とクラールが何だとか……何の話だ?』
『予言だよ。僕がゴミ捨てに行って、その……危ないもの触っちゃって……っての。それで爆発しちゃう未来を回避出来たって』
『危ない物……? 爆発物なんてあったのか?』
『見てないから知らないけど、あったみたいだね』
何とか言い訳も通せた。アルは不審に思っても僕が隠し事をしたい気持ちを汲み取って不満そうにしながらも納得してくれるから、そこまで周到な言い訳は必要ない。
僕はこれから先も同じように二人を守りつつ、マスティマを殺す機会を伺い続けると静かに誓った。
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