第691話 悪魔の王の側近の天使

台を下りてから倒れたので国民には僕が倒れたところは見えなかったようで、その点は褒められた。倒れるまで力を使うなとの説教はその三倍はあった。


近場であり、ついでに雑務も──と元アシュ邸に運ばれた僕はソファの上で目を覚ました。たっぷり眠ってスッキリした頭を深呼吸と共に堪能し、元に戻った視界にゆっくりと慣れる。


『いやぁ見事な演説でしたね魔物使い様!』


元気な女の声だ、誰だろう、聞き覚えはあるけれど馴染みはない。


『さっすがだーり……ま、魔物使い様!』


魔物使いと言い直したのはメルか。ソファから足を下ろすと柔らかく温かく毛の生えたものを──アルを踏んだ。


『ぁ……ごめん』


ソファの横に伏せていたアルに謝りつつ毛の一本も踏みそうにない場所を見つけて、そこに慎重に足を下ろして立ち上がる。


『おはよう、ヘル』


『ん、おはよ……えーっと、演説して、これから何か仕事ある、の…………は?』


伸びをしつつ振り返り、リリスのお下がりの赤いドレスを着たメルを視界に入れる。その隣の女も。僕が起きて一番に聞いた声の主だ、腕にクラールを抱いて、僕の視線に首を傾げて短い金髪を揺らした。


『返せっ!』


『わっ……ど、どうしたんです魔物使い様』


伸ばした手は簡単にクラールに届き、マスティマは何の抵抗もせずクラールを返した。突然首根っこを掴まれて乱暴に連れ去られたように感じただろうクラールは泣き出した。


『ヘル……? どうかしたのか?』


『だー……魔物使い様も知ってるでしょ? マスティマ様よ、お父様の側近なの』


『あぁ、信用の置ける方だ。クラールを抱いてみたいと言ってくださってな……そんな態度は失礼だぞヘル』


僕はクラールをあやすこともせず、マスティマを睨み付けた。


『なんでここに居るんだよっ……! ここは魔界じゃない、サタンも居ない!』


『そのサタン様に言われて様子を見に来たのですよぅ、必要ならば手を貸してやれって』


本当だろうか? 今まで分身を送ってきていたサタンが突然側近を送り付けるなんて……彼の性格を理解していないから可能性がどれくらいなのかは分からない。

もし嘘ならばメルなどを通してサタンにバレる可能性がある。一万年前に前世の僕を殺してもバレずに側近を続けているこの女ならそんな危険な橋は渡らないだろう。目的も分からない、僕の命──寝込みを襲おうとしたのか? アルとメルが居たから諦めた……いや理由としては弱い。ならクラールを人質に僕を天使の群れの中にでもおびき出そうと? なら今すぐに取り返せたのはおかしい。


『きゃうぅぅ……おとーしゃ、おとーたぁ、おとーたん? ぢょこぉ……ゃ……おとーた、おとーしゃぁん!』


『ヘル! クラールが泣いている、貴方を探している! 今抱いているのが貴方だと分かっていないんだ、私が言ってももう聞こえていない、撫でて教えてやってくれ!』


分からない。何故マスティマはここに来た。いや、理由なんてどうでもよいのではないか? 今ここで殺してしまえば僕もアルもクラールも誰も今後マスティマの手によって危険な目に逢うことはない。

単純な結論に至った僕はアルにクラールを投げ渡し、小烏と刀を呼び出してマスティマに斬りかかった。


『……必須悪辣十項其の三、斬殺! っふー……危ない危ない、急にこんな物出してどうしたんです魔物使い様』


刀を止めたのは魔力で作られた剣だった。サタンの側近だけあって魔力の実体化が上手い。魔物使いである僕に魔力の塊で対抗する危険を冒して天使の武器を使わないのはこの状況でも冷静だとして警戒すべき部分だ。


『魔物使いの名の元に…… 砕 け ろ !』


マスティマが作り出した剣が粉々に砕け、僕の刀が彼女の首に向かう。


『ひっ、必須悪辣十項其の六、圧殺!』


剣の破片がさらに細かく砕け、魔力に戻る。爆風のような魔力の圧に刀が止まる。


『クソっ…… 通 れ !』


『其の二撲殺ぅっ!』


省略された技名と共に真下から棒に突き上げられる。前傾姿勢だった僕は腹と伸ばしていた腕に幾つもの打撃を受けた。透過してはアルやクラールに流れ弾が当たる、痛覚は消しているし……何をすれば勝てるだろう。棒に突かれて浮いた体が着地するまでに策を思い付くはずだったが、アルの尾が胴に巻きついて引っ張られ、思考が乱れた。


『申し訳ありませんマスティマ様! お怪我はありませんか?』


『まぁ……無事ですよ。どうしたんです魔物使い様? 私はマスティマ、サタン様の側近の悪魔ですよ』


アルは深々と頭を下げ、メルは僕を止めようというのか羽交い締めにした。そんな僕の足の上にアルの背に乗っていたクラールが落ちる。


『おとーたぁ、おとーた?』


匂いを嗅ぎ、耳をピンと立てる。


『おとーたんらぁ! おとーた、おとーたぁ、わぅわう! おとーたっ、おとーた、わぅ!』


大はしゃぎで跳ね回り、アルの腹に頭をぶつけた。


『……ヘル、マスティマ様が温厚だから良かったものの、いきなり切り掛るなんて何を考えているんだ。失礼だろう』


アルは尾でクラールを捕まえて背中に乗せると、僕を睨む。


『サタンの側近の悪魔だって? ふざけるなよ、忠実な天使様だろ? 必要悪のさぁ』


言ってやった。だが、マスティマは一瞬目を見開いただけですぐにきょとんとした顔を作り、首を傾げた。


『…………何を言っているんだ? ヘル。貴方には分からんかもしれんが、マスティマ様は間違いなく悪魔だ』


『そうよだーり……魔物使い様! 魔力視が出来れば分かるんだけど、天使と悪魔は全然違うのよ』


『魔力でコーティングしようと魔力を扱おうと、魔力の流れで分かるんだ』


サタンが気付かないんだ、アルやメルに見抜けなくて当然だ。どうして信じないんだなんて被害者ぶった思考はやめろ。


『いいや、天使だ。そうだろマスティマ、本性見せろよ!』


今この場で責められるべき悪はマスティマだけだ。


『……本性と言われましても困ります。堕天使上がりではありますが今はちゃんと悪魔で……ぁ、もしかして天使の残り香的なのが残ってました?』


『だーりん、ぁ、えっと、魔物使い様。魔物使い様は知らないと思うけど、マスティマ様はすごい悪魔なのよ? 人を騙して陥れて魂を回収して悪魔の器に叩き込んで自分の部下にしてるの、マスティマ様ほど真面目に活動してる悪魔は珍しいのよ?』


『人を騙して陥れるような天使いませんよねぇ』


『それは必要悪の天使だからで──』


『必要悪なんて考え方正義の国にはありませんよ。あくまでも聞いた話ですが、悪魔なので入れませんし』


自分の存在を否定して、全く笑えない駄洒落まで入れてくる。

侮られている。だが、それは好機でもある。


『悪は悪、それだけです。神の教えに背く者は悪魔に取り憑かれた者または唆された者、何があろうと絶対に許されないモノ──必要、なんてありえませんよ。彼らにはね』


彼らには……人間には? 人間が自分達の信仰心を試す目的の必要悪が存在していると知っていたら試験にならない。だから人間は知らない──そういう意味か?


『どうしてそんな思い込みをしてしまったのか知りませんが、ご安心ください。私は悪魔ですよ。それは私の部下とサタン様を初めとした上級悪魔様方が証明してくださいます』


熱心な悪魔的活動はその上級悪魔達の信頼を得るためか、それすらも神の命令なのか、それは今どうでもいい。

どうやれば邪魔されずにマスティマを殺せるか、それだけを気にしなければ。透過は駄目だ、庇えなくなって誰かを人質にでも取られたら動けなくなる。一度信用したフリをして一人になったところを狙うしかない……その時はいつ来るんだ?


『魔物使いくぅ~ん、起きたぁ? 演説お疲れ様、早速だけどお仕事よん』


歯を食いしばってマスティマを睨み上げていると呑気に甲高い声を作ったマンモンがやって来た。八つ当たりになるが殴りたい、そんな衝動を抑え、ひとまず刀を影に落とした。

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