第690話 演説
閉め出された自室の前で土下座していると朝を知らせる鳥の声が聞こえ始めた。そろそろ上体を起こして扉を叩き、許しを乞おうか。もう入れてくれてもいい頃だろう。
起き上がろうと床に揃えた手に力を込め、肘を伸ばす──背中を誰かに蹴られた。痛いと文句を言う暇もなく大きな音を立ててその誰かが転んだ。
『…………何してんの酒呑』
泥酔して帰宅した酒呑が僕に足を引っ掛けたらしい。
『ぉー……とーりょ…………ぉん? 頭領? 何しとん廊下座って』
『話すと長くなるんだけどね』
『えーと……あったあった。この瓶空けるまでやったら聞くで』
持っていたものの転んだ拍子に離してしまっていた酒瓶を廊下の端に見つけて僕の向かいにどっかりと座る。僕は昨晩の出来事をつらつらと話した。
『──って訳だからマンモンが悪いんだよぉ!』
『おぅおぅ嫁が強いと大変やなぁ、ほら飲め』
『いただきます! 僕は写真見てただけなんだよ、会わせろとかも言ってないし、ただちょっと可愛いなーって思っただけなのにぃ!』
『頭領人型の女に興味あってんな、ほら飲め』
いつの間にかダイニングから持ってきた酒の空瓶が周囲に幾つも転がっているが、そんなことを気にする脳はアルコール漬けになってしまった。
『確かに浮気疑惑とかあって浮気しないって約束した後だったからさぁ……アレだけど。でーもぉーさぁ! 浮気じゃないよねこれ!』
『怒られんかったらする気やったん?』
『僕もうアル以外じゃたちまっせぇーん! ぁー……お酒美味しい』
『急に落ち着くなや怖いわ』
自由意志の力を使えば酔わないようになんて簡単に出来る。けれどそれでは酒を飲む意味がない。それにもう集中出来ないからアルコールを自力で抜くことは出来ない。
『でさぁ酒呑、どう? 浮気だと思う?』
『知らんわそんなん。人によって基準ちゃうやろ』
『酒呑的にはどうなのさー、茨木がインキュバスの写真見てたらどうなのさぁー』
『なんで茨木出てくんねん』
『恋人でしょー?』
『何回ちゃう言うた分かんねん』
何回聞いても誰が聞いても「またまた~」としか思わないだろう。
『で、基準はー? ほら、どこから浮気? ってよく言うじゃん』
『俺は……んー、せやな、二人だけで会う……やろな、その後何するか分かっとるし。頭領はどやねん』
『…………僕以外の奴見た時点でもうダメだよねー。気持ちが浮ついたら浮気だよ、その時点でもう……もう、なんだろ、全員殺す』
『……ようその基準で自分棚に上げて浮気ちゃう言えたな』
自分を棚に上げて……? あぁ、そうか、相手以外を見たら──と言うのは当然自分にも適応されるだろう、と。
『いや僕の心は常にアルに粘着してるから、気持ち浮かないから』
『可愛い、綺麗や、思たんやろ?』
『アウトじゃん……!?』
これはいけない。閉め出されて当然だ、むしろ噛まれなかったことを感謝しなければ。
『アル! アルー!? ごめんなさい、本っ当ごめん! 愛してる! アルー!』
酒瓶を置き、扉を叩き、叫ぶ。扉を開けるだとかすり抜けるだとかの発想はなかった。お酒って怖い。
『…………煩いぞ、クラールが怯えてしまう』
扉の向こうから寝起きらしい不機嫌で低い声が返ってきた。
『アル! アル!? アルぅー!』
『……煩いと言っているだろう、黙れ。扉の前から退け、開けられない』
『好きだよアル! 君だけが好き! もう他どうでもいい、もう二度と他の女の子見ない……あっ、目潰せば信用してくれる?』
『……っ!? やめろ!』
何故か背後から酒呑に羽交い締めにされ、扉を叩くことが出来なくなった。
『他もあるかな、声聞いちゃダメ? 触るのはもっとダメだね、アルの傍から動くかもしれない足って要らなくない? って言うか食べてくれない? ね、食べて、今すぐここ開けて食べて! 爪先からちょっとずつ!』
『……狼! すまん! 頭領酒飲ませたらアカン知らんかってん!』
『酒呑か? いや、私も知らなかった、気にするな……少し前に飲んだ時は、こんな事には……』
『…………ぅ、やばい吐く吐く吐く気持ち悪い無理無理死ぬ吐く』
『ちょっと吐かせてくるわ』
『その後でいいから殴って眠らせておいてくれ』
僕は酒呑に引き摺られて吐いてもいい場所に連れて行かれ、結局吐かないまま眠ってしまい、部屋のベッドで眠る今に至るのだと。しかし──
『全く記憶にございません……』
『……最後に覚えているのは?』
『酒呑に会ったって本当? って感じだから……えっと、アルに閉め出されて……二回くらい扉叩いて怒られて、三回目やろうと……したっけ?』
酒を飲む少し前の記憶から飛んでしまっている。思い出そうとるの頭痛が酷くなる気がした。
『……貴方の気持ちは分かった、酔ってまで嘘を吐けるとは思えないし、そも貴方が浮気など有り得ないと分かってはいる。一晩の反省は素面でしっかり済ませたようだし、酔い潰れた事以外は許すよ、旦那様…………その酔いが覚めるまで、覚めても、ずっとずっと貴方の傍に──』
ダメな夫の見本のような行動を取ってしまった。もう二度と酒を飲まないと心に誓い、その日はベッドで寝て過ごした。頭痛はあるが意識はハッキリとして、普通に動けるようになったかと思えば、マンモンが迎えに来た。
『…………演説』
『おぅよ、何か考えたよな? 二日もあったんだから』
『演、説……』
何も考えていないどころか二日酔いで頭が痛い。
『服もっと綺麗なのに着替えてこい、正装だ正装。ほら早く』
歩く振動が脳に伝わる、そんな頭痛を押してマンモンに急かされるままに着替えを探す。
『……可愛い可愛い僕のおとーと、ちょっと……』
サイズの合わない正装の裾を折っていると、完成したローブを持った兄に声をかけられる。ローブを着せられ、演説のアドバイスも貰った。付け焼き刃程度にはなるだろう。
『演説っつーかまぁ挨拶だな、朝から国王を立てるってニュースばっか流してるからほとんどの国民があらましを知ってる。つまり、国王を立てるに至った経緯は要らねぇ、お前の言葉で王の権力を確立させろ』
難しいことを言ってくれる。
噴水のある広場に作られた台、僕はその真ん中で拡声器を持つ。マンモンは台の上には居るが少し離れている。
一礼して、拡声器を口元に持っていった。
『……何アレ、ローブ? 顔見えない……』
『男? 女? ホントに人間?』
『髪なっが……引き摺ってんじゃん』
『…………オロ君の知り合い……に似てる……』
集まった者──目に見える範囲には淫魔ばかりだ。昼間だし、吸血鬼達は中継を見ているのだろう。撮影機材が真正面にある。
『…………おい、魔物使い……? トんだか?』
黙っていると国民達は沈黙に疑問を抱き、黙る。もう少しすれば沈黙に反感を抱き騒ぎ出すだろう、この見極めが大切だそうだ。
『……僕は君達の支配者、君達の王だ』
魔物使いの力を使うよう意識して、声に乗せ、一人一人に自分の主人が誰なのかを教えていく。
『この国は酷い国だ、まず道が汚い。ゴミと酔っ払いだらけじゃないか。ネオンも眩しい、目が痛い。昼間の静けさなんて廃墟みたいだ』
誰も野次を飛ばしてこない。やはりこの場に魔物以外のモノは居ないのだ、魔物使いの力が聞いている。
『でも、だからこそ僕は……君達の支配者は君達に期待している。こんなものじゃないだろ? 昼も夜も関係ない観光街が作れるはずだ。明るくなっても美しい街が出来るはずだ。覚めない夢を見られる国になるはずだ。君達なら出来る、間違いない』
視界の端でマンモンが手を振ってサインを送ってきている。話なんていいからとっとと挨拶をして終わらせろ、とでも言いたいのだろう。けれど、上級ではあるが彼も悪魔だ。
『この国は素晴らしい! 今まで国王無しで成立していたのは国民が知恵や力に溢れていたからだ! けれど僕が居れば、明確で完璧な支配者が居れば、もっともっと素晴らしくなれる! かの強国、憎き天使共の守護する正義の国の侵略だって押し返せる、僕という支配者が居れば君達は何にも負けない!』
魔物使いの力の出力を上げる。頭痛がより激しく、視界が明滅する。
『淫魔は悪魔にしては弱く人間には恐れられ行き場がなかった、この国で自らの特性を生かすしかなかった! 違う生き方をしたみたくはないか? 何の気兼ねもなく旅行に行ってみたくはないか? 今は無理だ、だが僕という君達の支配者はそれらを実現出来る! 素晴らしい君達の協力さえあれば!』
ブツ、と音が聞こえたような気がして、視界が暗闇に閉ざされる。だがまだ力は使える。
『僕はかつては無能な子供だった、何年も無意味な時を過ごした。君達の目の前に居る僕はどうだ? まだ無能か? それは君達次第だ、僕を国王を名乗る狂人にするか歴史に名を残す名君にするか、それは君達の幸福なる繁栄にも直接影響する。懸命なる君達ならきっと正しい判断を下してくれると信じている。では、聞こうか』
目は見えないし頭も痛い。けれど、その痛みに煽られてか酒が残っているのか自分の言葉に酔ってきた。
『この僕を! 君達の支配者と認めるか! この国をより素晴らしく出来る僕は、君達の幸福なる繁栄を誓える僕は、何者だ!』
苦手な大声を喉が張り裂けそうなくらいに出して、拡声器を下ろした。
国王様、支配者様、そんな大勢の声を聞きながら、意識を朦朧とさせながら、台を下りて膝から崩れ落ちた。
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