第685話 帰宅と誤解

冷たい黒鱗の下には筋肉が詰まっていて、その奥には太くそして自在に曲がる骨がある。絡みついて力を込めれば僕の腕や足なんて簡単に砕けてしまう、美しく恐ろしい蛇──それがアルの尾。


『トゲトゲ……』


そんなアルの尾を思い出すサタンの尾。彼の尾の先端は蛇の頭ではなく返し付きの鋭い針のようになっている。背鰭のようなトゲも付いていて、その一つ一つにも返しがあって、アルよりもずっと攻撃的に思える。しかしトゲや鱗の全てに漆を塗ったような美しい光沢があるのはイイ、興奮する。人の肌にとってのハンドクリームのように、鱗に艶を与える物はないのだろうか、アルの尾も漆器のように美しいけれど、手入れの問題なのかサタンの尾の方が繊細な美がある気がする。


『……熱心に撫で回しているが、鱗が好きなのか?』


『アルに似てるなーって……』


くたっと僕に任されていた尾が動き、胴に巻き付く。サタン本体の元へと引き寄せられ、強い締め付けにアルを思い出し、腹を押されて漏れる苦悶の吐息が甘く変わる。


『思い付いた悪魔を端から紹介したが……魔物使い、聞いていたか? 鱗を数えてはいなかったか?』


『やだな……聞いてたよ』


『そうか、ならばベルフェゴールを働かせる方法は?』


『実体化させた上で覚醒剤を投与する』


『正解。本人にやる気があれば珈琲で済む、も追加だ』


悪魔はまだまだ居るそうだが、サタンが思い付かなくなったということで僕達の会話はこれでお開きだ。あとはメルがリリスから解放されていれば地上に帰れるのだが。


誰も居ない玉座の間でサタンに短い別れの言葉を告げ、メルとマンモンを客間で待つことにした。グロテスクな見た目のベリーパイを食べていると背後に気配を感じ、一息ついてから振り返った。


『……やぁマスティマ。メルは?』


『今サタン様がリリス様より引き剥がしております、少々お待ちを』


『…………そう』


態度や表情は確かに側近として完璧だろう、一目散に逃げる癖を除けば。


『……ねぇマスティマ、君はどんな力を持ってるの? サタンは君のことは優秀な側近としか言ってなかったんだよ、それなりに強くて信頼もしてるってさ』


『私は特殊能力のようなものは特にありませんから』


『ふぅん……?』


そう簡単に手の内は明かさないか、まぁ当然だ。サタンにも見せていないのならそれはそれで疑う根拠になりそうなものだが。

しかし、本当に特筆する能力がないという可能性もある。前世の僕を殺した時だって部下を呼んで滅多刺しにしただけだった。


『ベルゼブブの側近のアスタロトは凄い能力持ってるのに、悪魔の王様のサタンの側近が無能なの?』


軽く煽ってみる。これで乗ってくる悪魔も一定数居るだろう、マスティマはどうだ?


『小手先の技術や特殊能力が必要なのは基礎がしっかりしていないからでしょうね。私は補佐で雑用係、サタン様の敵を払う部下なら他にいくらでも居りますから』


『魔力に関係ない、他の悪魔じゃ出来ないことが出来るって?』


『悪魔というのは大抵本能に従うだけの獣ですからね、理性と知性を持って管理能力が高いと魔力以上の役職に就けるんですよ』


アスタロトも欲望や本能を抑え込めるタイプの悪魔だなんて言っていたか。彼には実力もあるけれど。


『……悪魔を毛嫌いしてるみたいだね?』


『いえいえそんなことは。私も悪魔ですからね、仲間を嫌ったりなんてしませんよ』


『ふぅーん……』


『…………私のこと嫌いですか?』


『……別に? 綺麗な人だと思うよ、話してると照れちゃうね』


あまり踏み込むと怪しまれるか。悪魔の王の側近は実は天使で裏切り者、そう分かっているとバレないよう実力を探って、確実に勝てると思えたら前世の僕自身の敵討ちと行こう。『黒』のためにも。


『おまたせー! だーりん、ごめんなさい、お母様がなかなか離してくれなくて……でも可愛い服たくさん貰ったのよ、見て見て!』


扉が開いたかと思えばメルが飛び込んでくる。服を見ろと言われても抱き着かれては何も見えない。


『あぁクソ無駄に疲れた……魔物使いくーん、もう帰るわよねぇ?』


『ぁ、はい、お願いします』


スーツを乱したマンモンはいつも以上に低い声を出していたが、僕に視線を向けると途端に声を高くし笑顔を作った。

来た時と同じように鞄に詰め込まれ、運ばれ、元アシュ邸で鞄から出される。何日経ったのかはよく分からないが、とりあえず今は夜だ。


『リリン、とりあえず呪いのやり方を教える。こっち来い』


『はーい。だーりん、行こ!』


目の前を揺れる真っ赤なドレスは彼女の持ち物ではない、これがリリスのお下がりとやらか。背中と胸元はぱっくり開いているけれど、この国の淫魔よりは露出は少ない。まぁ上品だと言えるだろう。


『これが大元の呪術陣な。ここから国中に根を張るように広がってる。淫魔共とも繋がってるし、街中の呪術陣や魔力が長いこと流れずに鈍ってる呪術陣はそいつらが補修するから気にすんな。リリン、てめぇは一日二時間以上この上に座って魔力を放出するんだ、そうすりゃ呪術陣が勝手に呪いとして振り撒いてくれる……らしい』


特定の属性の魔力を流し込むだけで呪いとして広域にばら撒く呪術陣……兄らしいと言うべきか、何とも感想に困る偉業だ。

メルは試しにと言って呪術陣の中に入り、目を閉じた。そしてすぐに出てきた。


『すごい吸われてる感じがするけど、同時にどんどん自分の強さが分かる感じで……と、とにかくすごく楽しいわ』


『楽しいの?』


『そりゃ強い力を手に入れてそれを放出すりゃ楽しいだろうよ、見た目がどんだけ地味でも魔力が出てくとそれだけで気持ちいいよな』


『そっか……まぁ、痛かったり苦しかったりしないなら良かった。まだ続けるなら僕は先に帰りたいんだけど』


『ええ! まだやりたいわ、他にもマンモン様に聞いておきたいことあるし……だーりん、玄関まで送るわね』


魔物使い様と呼ぶのはやめたのか。だーりんと呼ばれるのも嫌と言えば嫌だけれど、こういうものだと思えば諦めはつく。


『それじゃ、だーりん、ばいばい! また後でね!』


玄関を出て手を振り、適当なところで切り上げて門の外に向かう。開けた門を閉じようと振り返ると、着いて来ていたメルに抱き着かれた。


『ちょっ……メル? やっぱり帰るの?』


『ううん、ちょっとこうしたくなっただけ』


『…………もういい?』


『もう少し……』


放出しようと思っていなくても僅かに漏れ出す魔力ですら魔物使いのものは魔物にとって心地好いものらしいし、元気になれる栄養剤のようなものらしいから、仕方ない……仕方ないのだけれど、子持ちの男にホイホイ抱き着かないで欲しい。


『……ぅん、もういいわ。ありがとうだーりん、じゃあ今度こそ、ばいばい』


『ん、ご飯食べるならフェルに言っておくけど』


『うーん……何回も作らせるのは悪いし、今日は食べて帰るわ』


『そう? じゃ、ばいばい』


メルに背を向けて歩き出す──今物陰で何か光ったような、装身具を大量に着けた人でも居たのかな。郊外の暗闇をしばらく歩き、装身具を大量に着けた人の姿を想像して怖くなり、ヴェーン邸までの道が分からないのに気が付いて、カヤを呼び出した。


『最初から君に頼ればよかったよ……ありがと、カヤ』


ヴェーン邸の門の前でカヤの頭を撫で、寒気を感じつつ邸内へ。

ダイニングには誰も居ない。鬼達と獣達は仕事だろうし、夕飯はもう終わった時間だ。グロルはもう寝ただろうしヴェーンは部屋か地下だろう。フェルは深夜でも大抵ダイニングに居るのだが……まぁこういう日もあるか。


『誰か居るー? 入るよー』


一応声をかけてから灯りをつけて浴場に入る。脱衣所に羽根や毛が落ちているのでアルはもう入った後だ。



風呂を終え、まだ少し湿った髪を引き摺って部屋に。暗い部屋の奥、ベッドの上、首飾りの光とその光を反射する二つの瞳が僕の方を向いていた。


『アル? ごめんね、起こした?』


返事はなく、瞬きがあった。何も言ってくれないのは寝ぼけているからなのか何も言わず数日帰らなかったからなのか……怒っていなければいいななんて呑気に考えながら一歩踏み出すと、側頭部に衝撃と裂傷を受けた。

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