第686話 兄の報復

耳の上から斜めに頬へ、三本……いや、四本か? 感覚では正確な数までは分からないが幾本かの裂傷があり、それもかなり深い。傷も痛いが脳震盪もある、転んで起き上がれないのも、声が出ないのもそれだろう。


『よく平気な顔で帰って来れたな、下等生物が』


唸り声と熱い吐息、髭が耳を擽る。この声はクリューソスだ。彼に殴られて昏倒し、爪によって裂傷が出来たといったところか。


『……クリューソス、やめろ』


『黙れ駄犬、大人しくそこで見ていろ』


『…………やめろ、と言っている』


ベッドが軋む音、絨毯に何かが落ちる音。アルがベッドから降りたようだ。


『ヘルから離れろ』


『邪魔をする気か? 俺はお前の為にやっている、そんなことも理解出来なくなったか、落ちたな』


肩に何かが乗る。中心の柔らかさと刺さった物から考えてクリューソスの前足だ。そう認識すると同時に前足は僕の肩から消えて、大きな音が響いた。扉が割れたような、壁に何かが叩き付けられたような、そんな音だ。

脳震盪が治まり傷を再生させた僕は慌てて部屋の灯りを点し、絶句した。予想は出来ていたがアルに吹っ飛ばされたらしいクリューソスが扉を割って廊下の壁を凹ませていたのだ。


『……な、なにこれ』


アルに説明を求めようとしたが、クリューソスが打ち出した光弾に目が眩む。


『……っ、クラール! どこ……あぁ居た、無事だね、よかった……』


ベッドに飛び乗り、枕元に籠を見つける。籠の中には柔らかいタオルが敷いてあり、そのタオルの中に潜り込んで眠るクラールが居た。

胸を撫で下ろしたのも束の間、本棚が崩れ、埃と光の向こうから骨が砕けるような音と判別不可能な怒鳴り声が聞こえてくる。


『アル! クリューソス! 止 ま れ !』


魔物使いの力を使うことを意識して、叫ぶ。音が止み、光も途切れる。


『……とりあえずそこから出てきて』


本棚や壁の瓦礫の影に居た二人が不機嫌を顕にしたまま僕の前に並ぶ。


『…………俺に噛み付いてどうする、雌犬め、馬鹿だ馬鹿だと思っていたがここまでとは思わなかった。お前が妹だということほど抹消したい事実はないな』


『……過干渉な兄弟程嫌なものは無いな。馬鹿だ何だとは此方の台詞だ、鬱陶しい癇癪猫』


『…………やる気か?』


『……そうだな。銀だ金だと位はただの飾りだと証明してやろう』


僕の力で行動には移せていないが口喧嘩は止まらない。


『二人ともやめてよ、クラールが怯えるだろ。兄弟喧嘩ならよそでやって』


『……何だと? この下等生物が……お前が悪いんだろう』


『違う。やめろ、ヘルは悪くない』


部屋に入ってきて早々に殴られて──それで原因が僕だと?


『ふざけるな雌犬が! お前らを放って淫魔と三日三晩しけ込んだこの下等生物が悪くなくて誰が悪い!』


『…………黙れ、煩い』


『ちょっ、ちょっと待って、三日三晩……って、僕?』


魔界に行って、サタンに話に付き合わされて──三日も経っていたのか? いや、一日くらいは経ったと思っていたが、眠らなかったし食事も間食のようなものばかりで……あぁ、原因は僕だな、間違いない。


『とぼけるな浮気者! 今すぐここで胴と頭を離してやるっ……!』


抵抗が大きくなってきた、アルは動く気はなさそうだしクリューソスの静止に全力を注ぐべきか。


『いや、違うんだって……浮気とかじゃなくてさ、マンモンに呼ばれて用事だったんだよ。三日も経ったなんて気付かなくて……僕が悪いし謝るけど、勘違いで急に殴るのはやり過ぎだろ』


『白々しい、まだとぼける気か!』


黄金と黒の縞模様の毛皮の下に筋肉が浮き上がる、僕の力に抵抗しようとしているのだろう。こんな状況だと言うのに僕はその猛虎の美しさにため息をついた。


『……クリューソス、やめろ』


『黙っていろ駄犬!』


アルは僕の話を聞いてくれるとは思うが、クリューソスは厳しいな。メルも信用されなさそうだしマンモンに証言してもらうしかない、まだ元アシュ邸に居るだろうし早く呼ぼう。


『お、お兄ちゃん……? 帰ったの? 無事?』


『わー……すごい』


瓦礫を越えてフェルとセネカが入ってきた。


『スライム! お前の兄は本当に最低な男だな! この期に及んでまだシラを切る気だぞ!』


『えー……お兄ちゃん、それはダメだよ。せめてちゃんと謝りなよ』


『えっ』


フェルは味方だと思っていたが、それは僕の勘違いだったようだ。フェルは僕のことを一切信用していなかった。


『い、いや……フェル? お兄ちゃん信じてくれないの?』


『信じたかったよ……でも、証拠あるし』


『証拠……って?』


『茨木君が写真撮ってきたんだー、魔物使い君がお風呂入ってる間にみんな見たよ』


まさか元アシュ邸の前で光った何かは……


『……いやいやいやいや、待ってよ、違うって』


僕の予想が正しければ写真は僕がメルに抱き着かれているところ。浮気の証拠には……ならないよな? 何もしていないし、メルが急に抱き着いたんだし、僕は剥がそうとしていたし……


『お兄ちゃん、早く認めた方が楽だよ』


『フェルはなんでそんなにお兄ちゃん信用してないの!?』


『やりそうだもん……』


『酷い!』


僕と同じ思考回路を──なんて謳い文句はもう過去のものだと思おう。僕達はもう違う経験を積み過ぎた。


『セネカさん! セネカさんは……』


『う、うん、悪いけどメルちゃんおめでとうとか思っちゃった。ボクもやりそうだと思ってたし』


僕の印象って……いや、まだだ、この二人がひねくれていただけだ。


『アルっ……アルは信じてくれるよね?』


『……私はこの姿だからな、貴方が人型が良いと思うのは当然の事だ。こんな事で貴方を責めたりは……』


アルがクリューソスと喧嘩していたのは僕を信じていたからではなかったのか。僕は伴侶にすら信用されていなかったのか。そんなに浮気性に見えるのか。


『まだ認めてへんの、往生際の悪い人やなぁ』


『茨木! 君見てたなら分かるよね、僕は……!』


瓦礫を踏み越えて茨木が入ってきた。僕は最後の望みをかけて彼女に証言を頼んだ。


『うちは頭領はんの浮気現場を面白半分で突き止めたろ思て、仕事無断欠勤してずーっとあの家見張っててん』


『何してんの!? っていうか面白半分って言った!?』


『そしたら頭領はんとあの子が仲良さそーに出てきて門の前で熱烈な接吻』


『してない! 見てたんだよね、本当に見てたんだよね!?』


『……は撮られへんかってんけどその後の抱擁はなんとか納めて……みんな見はったなぁ?』


茨木に望みをかけた僕が馬鹿だった。わざわざ写真を撮って見せるような奴だ、面白半分で見張るような奴だ、捏造するに決まってる。


『……お兄ちゃん、もう無理だって、ね?』


『フェルぅ……信じてよぉっ、僕、本当に何も……』


『…………お兄ちゃん、これ以上失望させないで』


誰も信じてくれない上に親族に悲しげな表情を浮かべられる──思わず認めてしまいそうだ、これが冤罪の恐怖か。捏造された証言にそれっぽく見える証拠、印象、この全てを覆す方法はないのだろうか。


『……夜遅くに元気だね、君達』


『ぁ、に、にいさま! 助けて……』


『…………ぇ』


壁や扉を修復しにやってきた兄に助けを求めると兄は目を丸くした。


『……今、僕に……助けてって言った? 僕を必要とした……弟が、僕を頼った……!』


何故だろう、嫌な予感がする。


『…………ふ、ふふ……えへへっ…………テけ……り……』


『にいさま! 溶けないで助けて、後でいくらでも溶けていいから……』


『え、ぁあ……溶けてた? 危ない危ない……』


溶けるのはショックを受けた時だけではないのか。自滅願望だとかが現れていると思っていたが、ただ感情が昂っているだけなのか。人の肉の感触ではあるが中に骨を感じない気味の悪い手を取って部屋の中心に引っ張り、事情を説明した。僕に有利に説明することはクリューソスに許されず、それなりに公平になったと思う。


『……過去を投影すれば解決するかな? それだけでいいなら簡単だけど』


『投影……兄さんそんなんできるん?』


『あれ、自分が嘘ついたってバレるの怖い?』


兄は人の記憶を読むことが出来る。僕の頭に触れていたからもう読まれてしまったのだろう。


『でもま、抱き合ってるのは写真があるみたいだし』


『合ってはないよ! メルが急に……』


『記録を見るだけじゃ浮気の疑いがあるって言うなら君の思考をそのまま投影しようか? 世間一般的に言ってかなり気持ち悪いしお兄ちゃんの僕でもかなり引くような頭の中してるけどね』


『僕そんなに気持ち悪いの……?』


ショックを受けつつもとにかく疑いを晴らさねばと、僕の思考は保留で過去の投影を頼んだ。人の記憶は無意識で改竄されている可能性があるからと、空間に刻まれた記憶を引き出すため、僕達は全員で元アシュ邸の門前へと向かった。

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