第652話 歌と鍵
刀を鞘に納め、寝転がっていた猫に渡す。猫は愛おしそうに刀を抱き、ごろごろと喉を鳴らした。
『……最後にさ、ひとつ聞いていい? なんで僕を助けてくれたの?』
『友切と呼ばれたからアレにとっての友……味方を切った。私はこの家の刀ではない、盗品だ。片割れと分かたれた。この屋敷が赤く染まるまで、崩れ落ちるまで、祟ってやるしかあるまいよ』
僕を助けた訳ではなく、個人的な恨みを晴らしただけだと。真実なのだろうが、適当に僕を助けた理由を作れば僕に更なる恩を売れたのに。いい人……いや、いい妖怪だ。
『そうそう、付喪を呼び出したければ軽く撫でて名前を呼んでやるといい。化けようと神に上がろうと物は物、人間が大好き……もしくは大嫌いだからな』
『古い物でなければ付喪は居りませんゆえ、その点はご注意を、主君』
肩に登った小烏が囁く。僕はもう一度猫に礼を言って、カヤに咥えて引き摺られ、クトゥルフを探した。始めは乗ろうとしたのだが、体が麻痺してしまっているからかバランスが取れずに落ちてしまうのだ。
『獅子ノ子様はお優しい方ですから、もしかしたら私の主君という事で力添えくださったのやも知れませんね』
『えー……多分恨みだけだよ。裏表が無いタイプだと思う……ぅ、待って、止まって……吐く』
廊下の隅に這いずり、胃の中身をひっくり返す。カヤの頭の上に乗せて小烏に支えさせているクラールが僕を呼ぶ声が聞こえる。
『ぅー……喉痛い。でも……ぁ、立て、る』
酒を身体の外に出したからか、はたまた毒が抜けてきたのか、立てるようになった。だがまだ足は上手く動かない。カヤに跨ってもバランスを崩すことはなくなったので、カヤに乗せてもらうことにした。廊下をしばらく進み、物音が聞こえる襖を開けばそこにクトゥルフが居た。
『ぉ、来た〜。意外、早かったね〜。まだ食べてるからちょっと待って〜』
『……人食べるんですね』
神父服の裾から大きくはみ出た魚の尾、そして蛸の触腕。腰や脇腹あたり……いや、服に隠れた魚の尾の途中から触腕が生えているのだろうか。兎にも角にも気持ちが悪い。
『ん……別に。この身体で摂取出来る一番の栄養ってだけだよ』
人魚の方だろうか、深きものどもの方だろうか、どちらの血にしてもツヅラは人を喰うモノだったのか。
触腕が伸び、倒れた人の頭部に巻き付き、ぱきゃっと砕いて潰れた脳を口に運ぶ。触腕が伸び、左右の足に絡み付き、股を裂いて零れた臓腑を口に運ぶ。
『……もういいかな』
確認出来る触腕は五本。その五本の触腕がびたびたと音を立てて畳と人間の残骸の上を行き、クトゥルフが僕の前に立つ。
『動けるようになったし、行こ』
『…………はい、クトゥルフ様』
家の裏手から外に出て、井戸水を汲んで魚の部分を濡らしておく。もう体は大分動くようになってきた。嘔吐後の気持ち悪さを解消するためにうがいをし、水を飲み、塀を乗り越えて通りに出た。
『うん……うん……テレパシーも遠くまで届くね。この島すら覆えないのは身体の問題だね、仕方ないか〜……あぁ面倒臭い』
蛸の触腕を生やした人魚、半透明の犬に乗った白い長髪の少年、そんな僕達が並んで歩いているのだから当然悲鳴もそれなりに起こる。クトゥルフはその悲鳴に口を緩ませ、言葉の無い音だけの歌を歌った。
『…………綺麗な声』
『流石は人魚、だよね〜。これなら弱いテレパシーの効き目も上がるかな〜?』
話しかけては歌が中断されてしまう。僕は口を閉ざして寒気がする程に美しい歌声に酔った。
自分で歩けるようになるまで回復したのでカヤを下がらせ、小烏を影に戻す。影に手を触れさせると小烏の代わりとでも言うようにコツンと冷たい物が触れた。
『……何、これ…………鍵?』
異形に怯えていた者達が歌声に魅了され、虚ろな目をして僕達の後をゾロゾロと着いてくるようになる。僕は後ろの列に目もくれず、片手にクラールを、もう片方の手に影から出てきた鍵を持つ。鍵を陽光に透かすとキラキラと銀色に輝いた。
『ねぇ、僕の信者達が居る街って…………なっ、そ、れ……は…………銀の鍵……?』
眠たそうに落ちていた瞼を見開き、鍵を見つめるクトゥルフ。僕の神様に返事をしなければならないのに、僕の目は鍵に奪われたままだ。
『……っ、それを離せ!』
珍しくもクトゥルフが荒い口調で大声を上げた。それに驚いて身を跳ねさせ、鍵が指から滑り落ちる──が、首から下げた形見の石から吹き出した霧が人の手の形に似て固まり、鍵を掴んだ。
『……ご機嫌よう、魔物使い』
鍵を霧の手が掴んだのを見たその瞬間、僕はどこまでも広がるような狭い奇妙な空間に立っていた。
『使者たってのご要望です。こちらへ』
ヴェールを被った僕の半分程の背丈の人型のモノが窓のようなものを開く。窓の外の景色は数時間前の光景、植物の国での記憶だ。ツヅラをツリーハウスに連れ帰って、様子がおかしいから縛って封印して、それが解けて、ツヅラの中に居るのがクトゥルフというモノだと分かって──彼と争った僕は彼に夢を見せられた。
『……なんでっ、なんで僕、これ、忘れて……!』
クトゥルフは僕を救う神様などではない。アイツこそ夢の中でクラールを殺し続けて僕の精神を壊そうとした張本人だ。
『あなたは……そうだ、ウムルさん! なんで……僕、色々忘れてた! ぁ、違う、こんなことしてる場合じゃない! クラールが危ない、早く戻らないと!』
『時間など、どうか、お気になさらず。しかしもう使者の頼みは果たしました、どうぞご自由にお帰りください』
自由にと言われても帰り方が分からない。そう叫ぼうとしたその瞬間、僕の目に映る景色が変わった。狭くて広くて上下左右の感覚のない不気味な空間ではなく、平屋の町並みとツヅラ……の体を使っているクトゥルフが目の前に居る。
『ねぇ、僕の信者達が居る街ってどっちの方?』
形見の石から霧なんて出ていないし鍵は手の中にない。小烏は肩に乗っていて、クラールは腕の中だ。
『……クトゥルフ』
『…………何〜? 様を付けなよ』
びたっ、びた、と音を立てて触腕を地面に這わせて身体を捻り、横長な長方形の瞳孔で僕を睨む。眠たそうな表情は驚愕に変わって地面に転がった。いつの間にか僕の手には刀が握られていて、目の前のツヅラの身体からは首から上が消えていた。
『………………どうやった』
落ちた頭を触腕で持ち上げる。生首が僕を睨んでいる。不気味さに押されながらも負けじと睨み返すと、半分閉じたような瞳が見開かれた。
『父様……!?』
その瞳を切り付け、開いた口の奥まで刀を突き刺し、振るって抜いて、首のない身体を踏み台に翼を広げて飛び立った。
『小烏! 僕、今、多分危機を脱した……仲間と合流しないと。どこに居るか分からない?』
『な、何が何だか分かりませんが……皆様ならあの虫と植物の島ではないでしょうか』
妖鬼の国から植物の国まで飛べと?
皆の意識を奪ってしまっていたが、もう起きただろうか、まだ眠っているだろうか。起きたのなら向こうも僕を探して動き回っているかもしれない。
『そうだ主君、何か付喪を探してみては如何でしょう。千里眼に似た力を持つ物も居るやも知れません』
『……何がその力を持ってると思う?』
『ぇ、えぇと……見る物。眼鏡……望遠鏡、などは……』
その辺りで手に入りそうな物だ。植物の国まで飛ぶ前に確認しておいた方がいいかもしれない。
『店……には新しいのしかないよね? 古いのじゃないと妖怪が居ないなら、古そうな家から借りようか』
ちょうど古くて大きな屋敷を見つけ、そこに降りる。翼を畳み、人が居ないことを確認する。姿を消してもいいが、小烏やクラールにも加護を与えなければならないし、彼らにだけ能力を解くというのも難しい。出来れば透明化しないまま探したい。
『どこに置いてそうとかある?』
『眼鏡なら本の傍にあるかと……望遠鏡なら蔵でしょうか。古い物を片付けてあるやも知れません』
『……うん。じゃあ……とりあえずその……蔵? に行こうか』
裏庭を抜けて二階建てに見える建物。小烏曰く蔵の前に到着。人は居らず見つからずに済みそうなのはいいが、当然のように扉は錠と鎖で閉ざされていた。
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