第653話 物言わぬ赤子

扉の取手に通された鉄の棒、その棒と取手同士にめちゃくちゃに巻かれた鎖。鬼の力なら鎖を引きちぎることも出来るけれど、こんなにもデタラメに巻かれていては解く作業が必要だ。面倒臭く思いながらも鎖に手をかけると、小烏が肩から腕を跳ねて手の甲に移動した。


『小烏? どうしたの?』


不揃いに切られた羽根の端が鎖に触れると、取手に通された鉄の棒ごと鎖が断ち切られ、扉が微かに開いた。


『…………切ったの?』


『この程度造作も有りません』


凄まじい切れ味の刀を振ったかのように真っ二つ……いや、並の刀剣を太い鎖や鉄の棒に振り下ろせば刃が欠けてしまうだろう。刀に取り憑いた妖怪だけあって、魔力属性が『切断』だったりするのだろうか。そんなことを考えながら蔵に入った。


『……暗いな』


『蔵だけに!』


『面白くないよ。えっと……望遠鏡、望遠鏡か……』


小烏は夜目はきかないと言いながら僕の肩に戻る。埃っぽいなと思いながらも漁っているとクラールがくしゃみをした。二回三回では治まらず、何度も何度も。


『クラール? 大丈夫?』


犬にしては器用、猫だとしたら不器用、そんな前足で目を擦ろうとしている。


『埃ダメなのかな……小烏、一旦出るよ』


目当ての物は見つけられていないが仕方ない。蔵を出て井戸に向かい、顔を洗わせるために水を汲む。桶を引き上げる途中、クラールの様子を見させていた小烏が騒ぎ出す。


『主君、主君! 若君が……も、戻されました!』


『えっ……は、吐いた!? なんで……大丈夫? クラール、クラール?』


吐瀉物の量はクラールの身体から考えるとかなり多い。先程食べた焼き魚は全て出てしまっているだろう。崩して柔らかくした物しか食べさせていないから吐瀉物の内容は見ても分からない。


『……赤子ならば大人よりも戻し易いですし、犬猫は人間よりも戻し易いかと』


『猫みたいに毛繕いしてるなら分かるけどさぁ……クラールは変なもの食べてないし、自分の毛も僕が見てた限りじゃ飲んだりしてないし……やっぱり蔵の埃が原因だよ』


『咳き込み過ぎて吐いた……と?』


『……どうしよう。これじゃ蔵漁るなんて出来ないよ』


吐いた後なら喉が痛いだろうし、出来るかどうか分からないがうがいも必要だ。ひとまずクラールを庭石に乗せて桶の水を飲ませ、背を撫でる。


『外に置いておけば如何でしょう、私が見ていますよ』


『水汲むくらいならまだしも……小烏にそこまで任せられないよ』


『そっ、そんな……』


『いや、性格面での信頼はしてるよ? でも……君がクラール動き回るの止められると思えないし、誰か来た時に対処出来るとは思えないんだ。小さいからさ』


カヤもイマイチ信用し切れない。クラールを狙う敵が来たら連れて逃げろだとか、守れだとかならいいが、クラールの相手をして機嫌を取りつつ庭を走り回らないように見守って……なんて複雑な命令を果たせるとは思えない。


『……アルが居ないのに僕が離れたらクラール不安になっちゃうよ』


『その奥方を探す為では有りませんか。主君、少々心配が過ぎるのでは?』


『足りないよりマシでしょ』


小烏が飛べて夜目がきくなら蔵を漁る方を頼みたいのだけれど……仕方ない。蔵は諦めて屋敷を漁ろう、見つからなかったら骨董品店にでも行こう、骨董品店に眼鏡や望遠鏡があるとは思えないけれど。

水を飲み終え、ぐったりと眠ってしまったクラールを抱え、小烏を肩に乗せて屋敷に侵入する。棚を下から順に開けて、小烏に使えるか使えないかを判断してもらう。収穫無しの三部屋目、襖を開ける寸前、微かな物音に気が付いて手を止める。


『……誰か居る?』


誰か居たとしたら棚を漁る音や話し声は聞こえていただろうから、人を呼ぶなり逃げるなり迎え撃つなりするはずだ。


『……居ないよね』


少し大きめに声を出すが、微かな物音は変わらず鳴り続けている。しゃっ、しゃ……と、軽い音。これは髪が床や壁に擦れる音に似ている。

面倒だ、居ても居なくてもいい、居たら殴って気絶させよう、そう決めて襖を勢いよく開いた。


『ひっ……』


部屋の中心、畳の上に女が正座していた。俯いて髪を全て前に垂らし、頭を揺らしている。微かな物音は髪と畳が擦れる音だったのだ。


『……こ、小烏? 人間……だよね、これ』


『そのようですね、少々お待ちを』


小烏は僕の肩から近くの棚に跳び移り、棚の上に置いてあったこけしをつつく。


『……この辺りはそういう土地なのだそうです』


『えっと……?』


『この小芥子、まだ新しい物ですが私なら声を聞くことは出来ます』


『いや、そうじゃなくて……そういう土地、って何?』


クラールを抱き締め、女から目を離さないようにしつつ、小烏の声に集中する。


『……この辺りは海が近く、半魚人の里にも程近い。狂いやすい……という訳です。それも、人魚の歌が響いた直後ですから……悪化しているのでしょう』


人魚の歌……先程クトゥルフが歌っていたアレか。ツヅラがそんな厄介な種族だとは思っていなかった、クトゥルフが身体を使うことであんな厄介な存在になるなんて予想すら出来なかった。


「…………だーれ?」


棚に手を置いて小烏を肩に渡らせて、深いため息をついていると単調な女の声が聞こえた。目を開けば頭を垂らしていた女が顔を上げ、長い黒髪の隙間から僕を見つめていた。


「……見て、私の坊や。可愛いでしょ」


先程までは髪で隠れて見えていなかったが女は何かを抱いていた。女は腕を伸ばし、抱いていた物を僕に見せる。大きさと巻かれている布、それに女の言葉から赤子なのだと思ったが、布の中身は布……綿織物を丸めた物だった。


「あら……寝ちゃった。ふふ、見て、可愛い寝顔……私の坊や」


女は指先で愛おしそうに布を撫でている。顔を描いているという訳でもない無地の白い布をだ。はっきり言って不気味だ、だが──


『……可愛いですね、おいくつですか?』


「まだ半年……うふふ」


『へぇ、お母さん似ですかね』


「私に似てる? そうかしら……ふふ」


女が揺れていたのは子供──まぁ布を巻いただけの物だけれど──子供をあやしていたからだ。それならば何も怯えることはない。


『髪引っ張られたりしません? 結んだ方がいいですよ』


「そうねぇ……坊やはそういうことあんまりしないけれど、くすぐったいかもねぇ」


女は膝立ちになって畳の上を進み、部屋の隅に敷かれていた小さな布団に子供だと言う円柱状に巻いた布を置くと、反対側の隅の鏡台に向かった。


『……主君、私には布の塊に見えるのですが』


『僕にもそうだよ。でも、子供って言ってるから話し合わせないと。会話は出来るし良い人そうだし、望遠鏡の場所教えてくれるかもでしょ?』


『主君……お優しいのか何なのか、小烏は少し怖いです』


『影戻る?』


『いえ、付喪未満の物ならば私が通訳せねば……』


小さな布団の横に腰を下ろし、小烏と話すのをやめて髪を結んで戻ってきた女に笑いかける。やつれた顔ながらどこか艶っぽく、優しげな笑みを返された。


「その子はあなたの坊や?」


『あぁ、えっと……娘です』


「そう……寝てるのかしら? ふふ、いくつ?」


女はクラールを見つめて話している。どうやら犬には見えていないらしい。赤ん坊に見えているのか、人が抱いているものは全て赤子と認識しているのか、それについて考える気はない。


『少し前に産まれたばかりなんです』


「あら……そうなの」


会話出来るのはありがたいことこの上ないが、女は僕を他人として認識しているだろうにどうして普通に話しているのだろう。家に誰かも分からない者が居たら、その時に子供を抱いていたら、逃げるか何かするだろうに。


「……あら? 坊やが泣いてる……お腹空いたのかしら」


女は物言わぬ布の塊を抱き上げ、揺らす。小烏は必死に顔を背けていた。

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