第441話 強欲でこそ支配者
当然の事ながら地下室はアルに喰われ続けていた僕の血で汚れてしまって、今はヴェーンがその清掃に当たっている。
眠ったままのアルをカルコスに風呂に運んでもらい、毛にこびりついた僕の血を念入りに落として、いつも通りの美しいアルに戻した。と言っても見えはしないから感触だけなのだけれど。カルコスは赤が銀に戻ったと言っていたから、手探りでもしっかり洗えていたのだろう。
「…………アル」
ベッドの上、隣に眠るアルの頭に手を置いて名前を呼ぶ。するとピクピクと耳が揺れる。それが可愛らしくて、先程から何度も名前を呼んでいる。
『……浮気者』
恨めしそうな声が聞こえてその遊戯は中止させられた。
「えっと……く、『黒』?」
『……ちょっと仮眠とってる間に…………浮気者』
「待ってよ……別に浮気とかじゃないって」
『へぇ? じゃあ何?』
そういえば先程も「二股男」とか言われていたな。
さてどう言い訳したものか。僕のアルへの愛は恋愛感情ではないと思うのだけれど、アルの一途さを知ってその恋に応えようとしている。
確かにこれはれっきとした浮気になるのかもしれない。
「…………そ、そもそもさ。アルと出会った時は君と出会ってなかったし、君と婚約してたとかの話知ったの最近だし、前世の話だし……」
『……何? 婚約破棄する気? 慰謝料たんまり貰うよ?』
「ちっ、違う違う。いやほら……前世で婚約して、でも結婚出来なかった……んだよね。でも、その……ほら、前世の僕は君に恋したけど、今世は……ね、ほら」
『へぇー僕はもう昔の女ってわけ』
「そうじゃなくて……」
ダメだ、僕の悪い頭では言い訳なんて思い付かない。
アルに抱いている愛情は毛色を変え始めているけれど、それはアルの気持ちを知ってそれに同調したようなもので、アルとキスしていた時も『黒』の存在は頭の隅にあって──あぁダメだ、こんなことを言ったら更に怒らせてしまう。
「…………だって、アルはずっと……僕のこと」
『僕だってずっと想ってたよ。忘れてた時期もあったけどさ』
「アル居なかったら死んでるし……」
『……そういえば僕と君が長く旅したのもその子の為だっけ…………あぁ、もう仕方ないね』
仕方ない? それはつまり二股を許してくれるということか。なんて心の広い……流石は天使だ。
「許してくれるの?」
『……まぁ、初犯だし。可愛い女の子とかじゃないから敗北感とかないし。そもそも僕割と浮気には寛容な方なんだよね、君は前世もその前も前も前も魔物使いだからさ、淫魔とかいっぱい寄ってきたんだよ。君はハッキリしない子だからさぁ……ねぇ?』
「初犯じゃないんじゃん……」
『まぁ、ほら、僕天使だし。そっちの方は……
ぼふぼふと謎の音が聞こえる。『黒』がベッドを叩いてでもいるのだろう、膝を叩いて笑う──と似たようなものだ。
『ほんっと、君、モテなくて……あははっ! いやぁ見る目ないねぇその狼!』
「僕も思うよ。でも、好きになってくれたんだから……ちゃんと幸せにしないと」
『…………君も幸せになるんだよ』
「え? あぁ、うん。善処する」
『ふふっ……そーいうとこ、あんまり他の子に見せちゃダメだよ。じゃ、僕寝るね。仮眠じゃなくて……本眠り? とは言わないかな、ふふっ。君に冗談言う為に起きて……あぁ、もう無理、バイバイ』
目が見えていなくとも、『黒』が消えたと分かる。判断基準は声だけではない。人が居ることによって空気の温度が変わったり、流れが変わったりもする。ベッドに座っていたから沈み具合でも分かる。
「寝るって言っても僕の事は見てるんだよね……」
あまり変な真似は出来ないな。待てよ……トイレや風呂まで見られているのか? いや流石にその時は扉の前で待ってくれているはず、そうでなければもう僕は生きていられない。
『…………ヘル?』
「アル? 起きたの?」
『あぁ、此処は……貴方の部屋か』
腹に前足が置かれ、肩にもう片方の前足も置かれ、その重みに声を漏らす。
『……女の匂いがする。誰か居たのか?』
「誰も居ないよ。ずっと、ここには僕と君しか居なかった」
『だが、匂いが……』
腕を伸ばし、アルの首に回し、抱き寄せる。前足は僕の胸の上に揃い、鼻先が顔に触れた。
「……気のせいだよ」
『………………かもな。段々と薄まって……もう分からない。帰って来て直ぐもそうだ、貴方から女の匂いがして……直ぐに消えたけれど、私は……耐えられなくて』
アルの言う匂いは『黒』のものだろう。アルが嗅ぎ取るものには人間には拾えない魔力の痕跡もあって、『黒』のものなら彼女が消えればそれも遅れて消えていく。
『……私の思い込みか。貴方が誰かに盗られるのではと……何処の馬の骨とも知れぬ阿婆擦れに引っかかるのではと……そう、思っていたから』
女性の悪口となると語彙が豊富だ。良くないことだとは思うが、その嫉妬は嬉しい。
「ねぇ、アル。君が牢獄の国で殺される直前、君がなんて言ったか覚えてる?」
『うん……? そう期間が広くては分からん。私は何か妙な事を言ったか?』
あの時のアルの言葉は今でも鮮明にに覚えている。
「……アルはね、「貴方を最も愛しているのは私だ」って言ったんだ」
自分の全てを忘れろと言って、それでも僕を一番愛しているのは──と、僕の心に刻み付けて。
その後記憶を失って生き返った時も同じことを言ってくれたから、その時は「記憶を失ってもアルはアルだ」と喜んだけれど──
「……もう、アルったら。僕がああ言えば忘れられないのを、ずっと君を引き摺るのを、分かってたんでしょ? 意地悪……アルが生き返らなかったら、きっと僕は、そのうち君の墓の前で……」
『それ以上言うな』
口に冷たい鱗が触れる。アルの尾だ。僕はそれに手を添え、静かに笑った。
「君の墓の前で、首切って死んでた」
『……言わないでくれ、そんな事』
「嫌だ、言うよ。僕はアルが居なくなったら死んじゃう、うぅん、死んでやる。だから、僕が好きなら、僕が大切なら、自分を大事にしてね」
こうでも言わなければアルはまた無茶な戦い方をする、僕を庇って大怪我をする。流石にアルが居なくなってすぐ自害することはない、魔物使いとしてやるべき事を終わらせるまで、僕の命は僕の自由にしてはいけないのだから。
『分かっている、勿論だヘル。私は貴方と生きたい、未来永劫貴方の隣に居たい』
「……大好き。大好きだよ、アル」
僕は君と一緒に死にたい。そう言ったらどんな顔をするだろう、目が治ったら言ってみようか。
『ヘルっ……あぁ、済まない。貴方に好きだと言われると、どうしても…………言葉が出て来なくなってしまう』
アルの頭が僕の首の横に落ちてくる。耳の傍でくぅんと鳴いて、枕の下に鼻先を突っ込んだ。
「……ねぇアル。もう我慢とかしなくていいからね。気に入らないなら言っていいし、食べたいなら食べていい、僕にして欲しいことあるなら言って、やめて欲しいことあるなら言って。全部教えてね」
『ヘル……な、なら、その…………一つ、我儘を』
「うん、言って」
『…………今後一切、女に近付かず話さず見ず触れないでくれ』
「うん、無理かな」
アルの言う「女」にこの家に居る者が入るのならグロルの世話が出来なくなるし、アザゼルやベルゼブブは僕がいくら逃げ回っても触れられてしまう。
『済まない……我儘を。忘れてくれ』
「最初っからそんな大きいのくるとは思わなかったよ。でも、本当にやりたいなら僕をここに閉じ込めたらいいよ。ご飯はアルが持ってきて、誰かが僕に話があるって言ったらアルが聞いてきて、お風呂とかはアルが連れてって……」
『待て、それはまさか貴方が楽をしたいだけでは無いだろうな』
「あれ、バレた?」
ベッドの上で生活を完結するのは人類の夢だと思う。それに誰とも話さないように……というのも楽だ。
兄の機嫌を気にすることも、酔っ払いに絡まれることも、魔獣達の大声を聞くこともない。何よりベルゼブブの小難しい話をアルが噛み砕いて説明してくれるなんて最高だ。
僕はアルの「不健康だ」だとか「怠惰だ」とかの小言を聞き流し、その毛並みを楽しんだ。
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