第440話 純な君が好き

「分かった」と「話す」と言ってからが長い。声を出そうとしてはやめ、声を出しては言葉にする前にやめ、アルは中々話を始めなかった。


「……まず、何を我慢してたのか教えて」


『…………貴方、を』


「僕を?」


『貴方を、我慢していた』


僕の何だと言うのか。そう促す前にアルは続けた。


『魔物使いの魔力はたまらなく美味そうで……』


やはりと言うべきか我慢していたのは食欲か。治す手立てがあるなら、アルなら幾らでも喰らって構わないのに。


『私に甘える貴方はどこまでも可愛らしくて……』


まだ続きがあった。可愛らしいと言われるのは複雑な気分だ。


『時々見せる覚悟を決めた男らしい顔も好きで……』


そんな顔をした覚えはない。でも、その言葉は嬉しい。


『貴方が私を撫でる手つきが好きで、貴方が私を呼ぶ声が好きで、貴方が私を見る目が好きで……』


僕は随分と愛されていたんだな。なら、心身を捧げてまで他人を求める必要は無かったのだ。アルだけに注力すれば良かった。アルも僕を乱暴に扱うだなんて、そんなのやはり有り得なかった。


『貴方の歩幅が好きで、貴方の足音が好きで、貴方の呼吸が好きで、貴方のくせっ毛が好きで……』


『……切り上げさせてくれません? 日が暮れますよ』


ベルゼブブが僕に耳打ちする。浸っている時に水を差すような真似はやめて欲しい。


『貴方が寝ている間、胸に頭を置くのが好きだった。鼓動が聞こえて……貴方が生きていると分かって、貴方を守りたくなって、その心臓を抉りたくなって、貴方が愛おしくて、貴方を喰らいたくて……』


起きた時にアルが頭を胸や腹に乗せていることは多かった。暖を取っているとばかり思っていたが、それよりももっと可愛らしい理由だ。

しかし、言動がおかしくなってきたな。これが「混ざっている」というモノなのだろうか。


「…………アル、何が欲しいの?」


『貴方だ、貴方が欲しいっ! 貴方の心が、貴方の身体が、貴方の全てが欲しいっ! 貴方を……貴方、を、一片も残さず腹に納めたい……』


「……分かった。いいよ、食べて」


僕はベルゼブブを押しのけ、声のする方に向かって歩いた。両手を広げ、笑顔を作った。

大きな重たい物が──アルが体当たりして僕を倒した。肩に前足を置いて、荒い息遣いで僕を見つめている。


「食べていいよ、アル」


『私……は、私は』


「大丈夫だよ。どんなことされたって、僕はアルが大好き」


『…………愛してる、ヘル。貴方を愛しているんだ』


「うん、僕も」


『嫌だっ……駄目だ、貴方を……そんな、駄目だ、ヘル……抵抗してくれ』


ぽたぽたと顔に生温い液体が落ちてくる。熱い息もかかる。僕の喉に喰らいつきたくてたまらないのがよく分かる。


『銅獅子、治癒の準備を。ダンピール、私を回収しなさい。鬼、具合を見て先輩を止めなさい……地獄の帝王ベルゼブブ、『暴食の呪』発動します』


アルの身体がアルの意思ではなく摺り下げられ、喉に噛み付くはずだったであろう牙が肩に噛み付く。


「お、おい!? ちょ……蝿が蝿になったんだけど!」


『ほっとけ! それよりこっち手伝えや!』


『もう少し抑えろ兄弟! 治癒が間に合わん!』


躊躇うアルの為に呪いを使い、小型化してしまったベルゼブブ。それを拾わされたヴェーン。ベルゼブブに代わってアルの食事速度を調整する役目を背負わされた酒呑、必死に僕を治してくれているカルコス。

彼らの慌てる声がどこが遠く聞こえる。海の中から地上の音を聞いているような、そんな感覚だ。


「ぁ……る、アル、アルっ、もっと……もっと食べて」


皮膚が裂かれるのに、肉が毟られるのに、血管が千切られるのに、強い多幸感を覚える。一切の痛みがなく、代わりにこのまま喰い尽くされたいと思う程の快感があった。


『頭領! 目的覚えとるやろなぁ!』


遠くで叫ぶ声が聞こえた。


『アルギュロスの救出だ! 分かっているだろうな、お前を喰えば俺の妹が腑抜けになる! そうなったら俺がお前を殺してやるからな!』


誰かが叫んでいる。

あぁ、そうだ。アルを助けなきゃ。


「ん? 何だ? ダイブ? ふんふん……へぇ……」


『自分も手伝えや!』


「ダイブしたって蝿が言ってる。狼が取り込んだ血肉を媒介にしたんだってよ。多分外からじゃ異物が取り除けなかったんだとよ、内部からじゃ危険が伴うって言ってる、でも外から干渉するのは不可能だってよ」


『はぁ……? ふざけんなや頭領! 帰ってけぇへんかったらドタマカチ割んぞ!』


もう慣れてしまった暗闇で、僕の腹に頭を突っ込んたアルを見つめて、じっと意識を集中した。

すると暗闇だった世界に光が灯った。科学の国で見た、リンの家の地下で見た、赤い培養液で満たされた瓶が並んだ部屋に立っていた。


「……ここは? 僕、なんで目が……」


『…………ここまで来たのか、ヘル』


背後から声をかけられ、飛びのきながら振り向いた。そこに立っていたのはスーツ姿の切れ長の目をした美女──そうだ、マルコシアスだ。


「マルコシアス様? なんで……あの、ここは?」


『……私の心、とでも言おうか。魂すら持たない合成魔獣如きが烏滸がましいか? 私はアルだ、アルギュロスだよ、ヘル』


「アル? え、でも……」


その見た目はマルコシアスだろう。そう言おうとした直後、その姿が歪む。


「…………メル?」


『……なぁ、ヘル。貴方はどんな女が好みなんだ?』


「雪華……ぁいや、ミーア。あれ、セネ……違うベルゼブブ、でもなくて……」


姿は目まぐるしく変わっていく。僕が今までに会った女の子に、見覚えのない女に、コロコロと姿が変わっていく。


『……ヘル。私はな、貴方が好きだ。主人としてでも、人間としてでもない。恋人に成りたい…………あぁ、済まない、私がこんな願い……烏滸がましい』


恋人に? アルが僕をそんなふうに……狼なのに?


『ヘル、貴方とこうやって手を繋ぎたかった』


真っ赤な髪の少女が僕の手を取り、青い髪になった女が指を絡め、髪が黒くなる途中の女が僕を見つめた。


『……なぁヘル、ここに居れば私は貴方好みの女になれる。貴方に尽くす。どうだ、ヘル。ずっとここに居てくれないか?』


次々に色と形が変わっていく瞳はどこまでも寂しそうにしている。


『ヘル……キスしよう、その先も……私と。なぁ、貴方はどんな女が好きなんだ?』


「…………アルが好き」


『……う、嬉しいぞヘル、私も貴方が大好きだ! けれど、今まで言ってくれたその言葉、私の「好き」とは意味が違うのだろう?』


確かに、違う。僕はアルを恋愛対象として見たことはなかった。当然だろう、形が違い過ぎる。


「好きだよ、アル」


アルは家族だ。大好きな、大切な家族だ。


『ヘル……? その、「好き」は……』


「僕は狼のアルが好き」


女の子が消え、翼と蛇の尾を生やした狼が現る。その狼は不安そうに僕を見つめ、くぅんと鳴いた。


『ヘル……あぁ、私は貴方に恋してしまった。使い魔の、こんな醜い魔獣の分際で! なんて、なんて……無礼な……』


「……キスしよ、アル」


アルには何度も口づけてきた。耳に、頬に、額に、口の端に、尾に……数えればキリがない。


『…………え?』


「ほら、こっち向いてよ」


顔を背けようとするアルの両頬に手を添える、アルはあっさりと抵抗をやめ、震える瞳で僕を見上げる。


『ヘル……? 何を、私は狼で……こんな、姿で』


「……前にも言ったでしょ、アル。僕はアル以上に可愛い子見たことないって。可愛くて、綺麗で、格好良くて……最高の美女なんだよ」


アルは目を見開き、真っ直ぐに僕を見つめる。射抜くようなその眼差しはいつも見られるだけで気後れしてしまう。

けれど、今は──今だけは、僕も真っ直ぐに見つめ返そう。

大きな口の一番前に唇を寄せて、僕の光はまた消え去った。


『ガキ! おぉ……戻ったか!』


『どうだ? 成功したのか? アルギュロスはどうだ!』


カルコスとクリューソスの声だ、僕の左右に居るらしく、同時に話されてはもう何を言っているのか煩過ぎて分からない。


「アル……は? ぁ……ここか」


アルは僕の胸の上に頭を乗せて眠っていた。

僕は何となく成功を確信して、その頭を抱き締めた。

その時──



『くっっだらない結果だね! この二股男!』



──そんな不機嫌な声が聞こえた。誰の声かは分かっている。


「…………アルは僕のだ。よくも穢しやがったな……今度会ったら殺してやる」


だから、そう返しておいた。

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