第360話 科学の国の裏事情
僕がこの奇妙な工場に辿り着いてどれだけ経っただろう。黙り込んでから何分経っただろう。
黙ったままでは僕には価値がないと見なされて殺されるかもしれない、だが不用意に喋って彼らの求めるものを渡してしまえば用済みだ。
「あの……さ、さっき警察の人来てただろ? あれ、僕を追って来てたんだけど……その、理由知りたい?」
僕は沈黙に耐えかねて話題を振る。彼らが求めるものが何かは分からないが、停滞は死に直結する、少しだけでも動かなければ。
『貴方を襲った男の腕が飛んだ』
「あ、知ってるんだ……」
『この国のネットワークは我らの下に』
「ねっとわ……? よく分かんないけど、知ってるんだね。でも僕には分からないんだよ、なんであの人の腕が……急に、あんな……」
なんの前触れもなく、突然腕がちぎれた。
僕は何もしていない。僕は何も悪くない。未知の生き物であろうともそれは理解して欲しかった。
『不可視の怪物によるもの』
「不可視の怪物……? 見えないの? そんなのいるの?」
『貴方の傍らに。我らも幾人か喰われた』
「え……?」
幾人か喰われた、というのは工場に入ってすぐの事だろうか。咀嚼音が聞こえてきたから何かが喰われていたのは間違いない、それが彼らの仲間だというのか。
僕の隣にいる不可視の怪物……まさか、それは──カヤ? カヤが男の腕を喰いちぎり彼らを喰ったのか?
「……カヤなの?」
『観測成功、リンク成功、返答を再生するか』
「え? えっと? 返答って……カヤが何か言ったの? なら、教えて欲しいな」
『──同期中──同期中──同期完了』
カヤが動くのは僕が願った時だけなんて聞いたけれど、それでは僕が悪いということになってしまう。僕は何も悪くない。
『主人は手に恐怖を覚えた、主人の恐怖を取り除くのが役目』
「そ、それがカヤの答え?」
『主人は訳が分からないもの達からの解放を望んだ、そのもの達を腹に収めれば主人は解放される』
「カヤ……」
僕の為にやったというのか。僕は腕を喰いちぎれなんて言っていない、喰い殺せなんて言っていない。
僕は悪くない。
「…………カヤ、今度からは絶対、僕がやれって言うまで何もしないで。分かった?」
背後に居るのか、隣に居るのか、それは分からないが近くに居るのは間違いない。
僕は首をゆっくりと回し、カヤに言いつけた。
『────返答、無し』
「…………は? 無し? 無しって何? 返事しなかったってこと?」
『──補足』
彼を通してカヤを問い詰めようとして、補足という言葉に口を噤む。
『不可視の怪物は呪物であり、主人の願望を叶え続けるシステムである』
「どういう意味……?」
『記録は答えられるが、要望の追加は不可である』
「何を言ってるのか……分かんないよ」
鬼達もカヤに自我が無いだとか言っていたが、そんなはずはない。僕に撫でられた時は嬉しそうにするし、肉を美味しそうに食べていたし、水に触れるのを嫌っていた。
カヤに自我が無いはずがない。
『呪物に自己認識は存在しない、システムに人格は存在しない』
「…………君も、カヤに自我が無いって言いたいの!? そんなわけないだろ、ねぇカヤ! 出てきてよカヤ!」
ゆら、と視界の端が歪む。
半透明の大きな犬……カヤは僕の隣に座っていた。
「カヤ……ねぇカヤ、カヤはカヤだよね? 自分で名前言ったんだから……自我が無いなんてありえないよ。ねぇカヤ、僕の為に君が勝手に殺したんだよね? 僕は殺せなんて願ってない。僕は悪くないよね?」
『嫭、扌……jiン?』
「カヤ……カヤ、ねぇカヤ答えてよ!」
『ゴ、主人……様』
男の声に女の声、一人のようで複数のような、継ぎ接ぎの声が言葉を紡ぐ。
『……す、き』
「…………カヤ!」
僕はカヤを抱き締める。自我が無いなんて嘘だ、カヤはカヤだ。
カヤに触れたところから冷えていく。指先の感覚が消えていく。背筋に悪寒が走り、鳥肌が立つ。
『願望を叶え続けるシステム、発言は主人の願望である』
「……っ! うるさいっ!」
水を差すな。
あぁ、こんな奴、いっその事──
「…………カヤ?」
カヤが僕の腕の中から消える。目の前に立っていた彼が破片となって床に散らばっていく。
カヤは咀嚼していたものを吐き出し、僕に向き直ると「撫でろ」とでも言わんばかりに擦り寄った。
「何……してるの? なんで食べたの?」
『……奚? 主……ga、戮セ、ト?』
「何言ってんのか分かんないんだよ……っ! なんで、なんでこうなるんだよ…………もうやだよ、やだ……アル……アル、アルぅ……」
泣き出した僕を見て首を傾げ、カヤは壁に向かって歩き出す。半透明の身体は壁に溶けて消える。すり抜けたのだろう。
僕から離れたらしい、いい加減愛想が尽きたのかもな。
不貞腐れる僕の前に黒い塊が落ちる。
『……っ! ぅ…………何だ急に……』
塊の中から呻き声が聞こえて、黒が取り払われると銀が見えた。
「アル!?」
アルが翼に包まって落ちてきたのだ。
『ヘル! ヘルなのか! 良かった、怪我は無いな?』
「アル……あぁ、アル」
『何だ? ヘル、どこか痛むのか?』
「アル…………僕には、君しか」
ソファから立ち上がり、アルを抱き締めようとふらふらと歩く。だがアルは横を向き、僕の胴に尾を巻いて背に乗せた。
『全く……此処は何処だ。珍妙な場所に……』
アルはぶつぶつと愚痴を言いながら扉を鼻先で押し開け、薄暗い廊下を歩く。僕はその不気味さに負け、アルに抱き着いた。
『気味が悪いな……私から離れるなよ、ヘル。苦しいかもしれないが、少し締めるぞ』
胴に巻かれた黒蛇の締め付けが強くなる。僕を落とさないように、僕が攫われないように、というアルの心が伝わった。
強い締め付けは僕の胸や腹にアルの背を沈ませる。固く凹凸のある背骨は痛みを与え、空気を追い出していく。
『この程度でも平気か?』
「ん……だいじょ、ぶ」
『そうか』
締め付けが強くなる。
柔らかな苦痛に喘ぐとアルは立ち止まって僕を見上げるような仕草をした。
『本当に平気か?』
「……ぅん、大丈夫」
いっその事、このまま締め落としてくれればいい。そうすればしばらく嫌なものを感じずに済むし、眠りの中で心の整理が出来る。
『一体何があったんだ? 何故一人で行ってしまったんだ』
「ごめん……急いで逃げなきゃならなかったから、余裕なくて」
『何故逃げなければならなくなったんだ』
説明は難しい。カヤが腕を喰いちぎってしまったと言えばそれだけだが、まず絡まれた理由が思い当たらない。
「酔っ払ってたのかな……変な人がね、僕の手掴んできて…………それで、ちょっと揉めて、僕は手を離して欲しいって思ったんだ。そしたら……」
『そうしたら?』
「カヤが、その人の手食べちゃって。すぐに人が来て……僕が犯人だって決めつけられて、怖くて仕方なくて、窓から逃げたんだ」
数歩先も見えない廊下はどこまで続いているのか分からない。不安ではあったが、その分アルと共に居られると思えば苦痛ではない。
『そうして逃げているうちに此処に来たんだな? なるほど……此方も此方で色々とあってな、警察がやって来て……酒呑が嘘を吐いて、見破られて、逃げて、撃たれて、彼は結界を貼って、私は貴方を追った。貴方は狭い路地を通ったろう、私には通れなくてな……回り道を探していたら首を咥えられたんだ』
「咥えられた?」
『犬神だろうな。貴方が私を連れて来るよう言ったんだろう?』
「アルの名前は呼んだけど……」
連れて来いと声に出してはいない、心の底から求めただけだ。
アルに会いたかった、慰められたかった、抱き締められたかった、ただそれを求めただけ。
それでカヤがアルを連れて来たというのなら、求めただけでカヤが動くのなら、カヤが行った蛮行は僕の罪だ。
『まずいな』
自己嫌悪に浸っていると、アルが足を止める。
「何が?」
『……あぁ、貴方は目が悪いんだったな』
「別に悪くないよ」
片目を髪で隠しているから平均以下ではあるだろうが、獣と比べられてはたまらない。
『囲まれている。それにこれは……何の匂いだ? 気味が悪いな……』
「…………アル、強いんだから大丈夫だよね?」
『科学の国では飛び道具が一般的な武具でな、私は接近戦専門なんだ。だからと言って負ける事は無いが、貴方を背負って戦えば、貴方に怪我をさせてしまう』
「……カヤ、援護お願い」
背骨に氷水が垂れたような感覚。その寒気の根源は隣に現れた。
『…………よし、犬神が貴方の護りに徹するのなら問題は無い。少し激しく動くぞ、酔うなよ』
「アルの上では吐かないようにする」
アルは姿勢を低くし、小さく低い声で唸り出す。隣からも似たような声が聞こえてくる。
目を閉じていても、目を開けていても、暗闇に変わりはない。ならせめて相手の体液が目に入らないように、目を閉じていよう。
僕はアルの首に顔を埋めて、戦いに備えた。
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