第344話 悍ましい呪い
軽くシャワーを浴びて、浴槽に。やはり足が伸ばせるくらいの長さは欲しいな、なんてぼうっと考える。
前髪を上げて、蒸らしたタオルを目に乗せる。
「なんか疲れた…………ん?」
一瞬、異常な冷気を感じ、タオルを持ち上げる。
扉を開けられたのかと思ったが、浴室は何も変わっていない。外からの音も聞こえず、その静けさが怖くなって、僕はまた目を塞いだ。
静かで温かな暗闇に眠気を煽られ、僕がそっと意識を手放しかけた瞬間。
ぐるる、と獣の唸り声が隣から聞こえた。扉が開いた音も閉まった音もしなかったのに。
「……アル?」
視界を塞いだまま手を伸ばすと、柔らかい毛が指に絡んだ。
「…………誰?」
その感触はアルの毛並みとは違っていた。
僕はゆっくりと撫で上げ、顎の下を見つける。
『夶、ヒト?』
何人もの人の声を継ぎ合わせたような不気味な声。僕は声の主を確かめようとタオルをどけた。
そこに居たのは巨大な半透明の薄い茶色の毛の狼……いや、犬? どちらかは僕には見分けがつかない。
「可愛いね。君どこの子?」
『…………仅、コ? 何処? 凇、尌……御主人様?』
「ご主人様がいるの?」
『…………イ、斿?』
まだまだ拙いが、人の言葉を扱うということは人に造られた魔獣なのか、はたまた人を騙す為に言葉を覚えたのか。
「どこから入ったの?」
扉は閉まったままだ。
僕は撫でるのをやめて、姿勢を整えて向き直った。
『……ク、衂、乆』
「お腹空いてるの? ここにはお肉ないよ」
『憎イ、獰……憎イ憎イ憎、憎──』
「…………え?」
憎悪に満ちた吠え声を上げ、大口を開けて僕に突っ込んでくる。
僕は咄嗟に浴槽に体を沈める。牙は浴槽の縁に引っかかり、僕には届かない。
「ま、待ってよ。僕君に何かした!?」
湯の中で体を反転させ、反対側から顔を出す。
僕が叫んだ直後、浴槽は顎の力に負けてひしゃげる。あと少し避けるのが遅かったら僕は喰われていた。
「お腹空いてるなら何か買ってきてあげるから! だから落ち着ぅ……わっ!?」
浴槽の破片を吐き捨て、犬は再び僕に迫る。
壁を背にしていた僕に逃げ場はなく、迫り来る牙にただ目を閉じることしか出来なかった。
だが、僕の体が食いちぎられる事はなかった。
巨体ゆえか犬は僕を噛まずに飲み込んだ。
「やば……ゆっくり溶かされるのこれ…………い、嫌だ! アル! アル!? 聞こえないのアル!」
半透明の巨躯に反して腹の中は真っ暗だ。感じる振動から察するに、犬はどこかを走っているらしい。
僕から外が見えないのだから心配はないだろう、飲まれる前も内臓が透けて見えた訳ではないのだから大丈夫だろう、だが考えてしまあ。
彼が街中を走っていて、彼の腹の中にいる裸の僕が衆目に晒されていたら──と。
「そんなこと考えてる場合じゃない! 溶かされる……ね、ねぇ! 聞こえる!? 吐いてよ! 人気のない所で 吐 い て !」
巨体、半透明化、彼は明らかに魔獣だ。けれども僕の命令を聞く気配はない。
まさかいつかの鳥のような魔物なのか? 魔物にしか見えないのに魔物ではないとかいうふざけた生き物なのか?
「どうして来てくれないの? アル……」
浴室で大きな音を立てていたのに、アルは来なかった。
腹の中で必死に呼んでいるのに、アルは来ない。
「嫌だ嫌だ嫌だ! こんなの嫌だ! こんな死に方やだぁ!」
殴っても蹴っても、どれだけ暴れても僕が吐き出される事はなく、犬はただどこかに向かって走り続けた。
ヘルが丸呑みにされて数分後、室内では。
『酒呑様もう寝はったわぁ。きったないのに湯浴みせんと……』
『ヘルが上がったら起こして入れろ』
『せやねぇ。あの子長風呂なん?』
『どうだろう。比べる者を知らないからな』
アルも鬼達も犬の襲来には全く気がついていない。
そういえば──と、臓腑が撒き散らされていた通りの話をし出す始末だ。
『あれ、犬神やろか』
『犬の魔獣の様だったが、神性なのか?』
『本物の神様やあれへんよ。呪いの産物や』
茨木は妖鬼の国で流行っていた犬神を作る呪いについて話す。
『まずなぁ、可愛い仔犬を育てるんや。頭ええ子がええなぁ、それでもうて頭悪い子がええわぁ』
『どっちだ』
『御主人様の言うこと聞く賢い仔、御主人様が絶対な愚かな仔……同じ意味や』
『…………そうか。まぁ犬など誰も彼もそんなものだ』
『可愛い可愛い言うてしぃっかり懐かせるんや。ちゃんと懐いて成犬なったらな、首だけ出して埋めるんや。このまま放置か……目の前にご馳走置くか、まぁそのへんはお好みで』
ベッドの縁に顎を置いていたアルの耳が跳ね上がる。
茨木はそれを見つめて愉しげに笑い、説明を続けた。
『大好きな御主人様、なしてこないなことしはるん? 僕のこと嫌いにならはったん? お腹空いた……御主人様、はよ出してぇな、御主人様、御主人様、御主人様……』
演技がかったその口調にアルは不快そうに眉間に皺を寄せる。
『吠えて吠えて声枯れて、犬が死ぬ直前、ご馳走近づけるんや。そしたら最期の力振り絞うて首伸ばす。そこをバッサリ……首切るんや』
アルの反応を見てくすくすと笑い、茨木は深く息を吐く。
『愛慕、困惑、憎悪、希望、絶望、そこまで揃えんと普通の生き物から呪いは生まれん。せやけど……やからこそ、ちゃんと作られた犬神の力は凄まじい』
『…………あれがその犬神だと?』
『そうちゃうか? ちゅー話や。犬神は不可視やからなぁ。けどあの犬臭さ、粘っこい憎悪、そう似たようなもんは居れへんやろ』
アルはあの血塗られた道を思い返す。
無数の罪のない人の死体に、食欲を煽る血の匂い、そして立ち込める憎悪の念。
『多分やけど主人は死んではるわ。犬神は主人の願いを叶える呪い、一人の人間があんな大量虐殺望むゆうんは……まぁありえへん話やないやろけど、ちょっと、なぁ?』
『主人が死んだ犬神はどうなる』
『子孫に受け継がれるんが筋やけど……たまぁに暴走しはるなぁ。主人死んだ分からんと必死に探して、探して、探し回って見誤って、ちゃう気付いて殺す』
『あの数を間違えたのか?』
『それもおかしいなぁ……人間全てを恨んでもうたんか…………それとも、えっぐいもんに付き従っとるんか』
アルは遠い同族の悲運に同情しつつ、最も気にしている事を口にした。
『ヘルに危険が及ぶ可能性は?』
『誰かに従っとるんやったらその人次第。従ってないんやったら……可能性は高いなぁ。人間に惹かれるやろからなぁ。それもあの子の力は…………魔物全てが御主人様ゆうに相応しい』
『そうか……数日は寝ずの番をしなければな』
『せやねぇ』
ぽすんと顎をベッドの縁に落とし、アルはため息をつく。
茨木は時計を見て、それから風呂場の方に耳を傾け、きょとんとした顔で首を傾げる。
『……遅ない? 水の音もせぇへんし』
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