第345話 狐火

茨木の疑問にアルは身を跳ねさせる。鬼よりも耳がいいはずの自分がなぜ気がつかなかったのか──と自分を責める。


『……見に行ってくる』


『待ち。うちも行く』


アルは茨木を待たず風呂場に走り、扉を強引に開ける。

そこでアルが見たのは異常なまでに静かな浴室だった。浴槽にも壁にも傷一つなく、水面には波一つない。


『……ヘル?』


『あれ、居らへんの? 変やねぇ。出てった……でもあらへんなぁ』


茨木は脱衣場に残された着替えを見てそう判断する。裸、もしくバスローブのまま外へ出るような性格はしていないだろうと。


『…………何処に行ったんだ? 水と洗剤で匂いが消されて……』


『ここの床濡れてへん』


『何?』


『湯ぅ上がったんやったらここ濡れた足でペタペタしはるやろ? せやけど……濡れてへん。おかしい思わへん?』


『妙だ、とは思うが……それから追跡は出来ん』


濡れた足で歩き回って足跡があった──というならまだしも。足跡が無いという報告など要らない。

アルはそう考えていた。


『細かいもん拾わんと謎解かれへんよ』


『謎など解けなくてもいい。ヘルが何処に居るのかさえ分かればいいんだ』


『無粋なお人やねぇ……男の人みたいやわぁ』


『貴様に言われたくない、それに……』


男は貴様の方だろう、と女の装いをした鬼を睨む。

くすくすと笑う茨木を放って、アルは部屋を出る。中に居ないのだから外に居る、そんな短絡的な考えで。


『……ほんま男の人みたいやわぁ。しゃーないなぁ』


茨木は深くため息をつき、それからキッと目を見開く。

赤い瞳は更に赤く、血よりも濃い赤に変わっていく。


『あーぁー……可愛いらしい足跡や』


犬神は幽体、不可視の呪い。だが痕跡を全く残さないモノなど存在しない。

茨木は故郷で霊気や妖気と呼ばれていた魔力の気配を視て、小さな犬の足跡を見つけた。




犬に丸呑みにされて、僕はしばらくの間抗っていたが、そのうちに暴れる体力も尽きた。皮膚がヒリヒリと痛みを感じ始め、呼吸も苦しくなってくる。

どれだけの時間が経ったか、僕はようやく吐き出された。

僕の命令を聞いた? 違う。

アルが吐かせた? 違う。


『おぉ、ようやったわ犬神。犬なんぞにと思っておったが……ふふ、存外犬も良いものよ』


犬神、それが名前か。名前を呼べば魔物使いの力も通じやすくなるかもしれない。魔物なら、の話だが。

犬神は目の前の女に、玉藻に従っていたらしい。犬神は苦しそうに息をしながらも期待に満ちた目で玉藻を見つめている。


『うむ、確かにこの小僧だ。刺してやったと言うのにしぶといやつじゃ。私を操った憎い小童……見苦しい格好をしおって』


玉藻は扇で口元を隠し、僕に侮蔑の視線を寄越す。

羽織っていた豪奢な着物を一枚僕にかけ、演技臭い笑顔を浮かべる。


『くれてやる。はなむけじゃ……ふふっ、いくら憎い相手とはいえ、その格好で死なせたりはせん』


殺す気か。神降の国でもそうだったが、何故こうまで僕を殺そうとするのか分からない。

操られた事でプライドが傷付いた? そんな理由だったら死んでやる訳にはいかない。


『……さて、冥土の土産に教えてやろう。その犬について…………ふふ、これから殺される相手じゃ、知っておいた方がいいであろう』


玉藻に命令を──ダメだ、犬神に試し過ぎた。

右眼の視力が一時的に消えてしまっているし、頭痛も意識が飛びそうな程に激しい。

そんな中で僕は犬神の作り方を聞いた。非道で、残酷で、そんな話を笑いながらする玉藻が化け物に見えた。


「君が…………それをしたの?」


頭痛を堪え、枯れた喉に鞭を打ち、尋ねる。


『まさか! どうして私が犬なんぞを……そいつは拾い物じゃ。偶然犬神憑きを見かけたのでの、殺して奪ったのじゃ』


自慢げに言う玉藻。

それを聞いてか、玉藻を見上げて尻尾を振っていた犬神が静止する。

ちぎれんばかりに振られていた尾も、呼吸での上下すらも止め、目を見開いて玉藻を見ていた。


『ふふ……さて、そろそろ飽いた。犬神! この小童を殺せ』


嘲るような邪悪な笑み。僕は向けられるであろう牙を想像し、身を強ばらせた。

だが、どれだけ待っても痛みは来ない。


『犬神……? 何をしている。早く殺せ!』


『…………御主人様』


『主人は私じゃ! 言うたであろ! その小童を早く殺せ、主人の言うことが聞けんのか!』


『否、嫌……違。オ前ジャ、無イ』


『愚かな…………所詮は犬か!』


犬神は大きく口を開け、玉藻に飛びかかった。

玉藻の身体に牙が突き立てられるその直前、業火が犬神の体を包む。

犬神が一瞬怯み、玉藻はその隙に狐に姿を変えて逃げた。


『……狐、狐狐狐狐狐…………殺スッ!』


「待って!」


火に包まれたまま玉藻を追おうとする犬神の尾を掴む。

手の皮膚が焼け焦げ、剥がれた皮膚片がぼろぼろと落ちる。僕はそれでも手を離さなかった。


「…………おいで」


足を止めて向き直ったのを確認し、僕は尾を離して両手を広げた。


『御主人様……?』


「君の御主人様は殺されちゃったらしいよ」


『…………狐』


「そう、あの狐に殺された。ねぇ……えっと、犬神でいいの?」


どうにも犬神が名前とは思えない。茨木や酒呑が鬼と呼ばれるような、僕が人間や小僧と呼ばれるような、そんな呼び名に思えた。


『………………カヤ』


「カヤ? それが君の名前?」


犬神は何も言わず、ただ僕を見つめ返した。

僕はそれを肯定と取り、カヤと呼んだ。


「おいで、カヤ。僕は君の御主人様じゃないけど……でも、君を抱きしめてあげることは出来るよ。めいっぱい抱き締めて、撫でて、褒めてあげる。それだけでよければ、おいで」


僕の言葉に戸惑ったようで、カヤは不安そうに前足を上げて首を回す。僕の方に来ようとしているのか、逃げようとしているのか。いや、きっと両方だ。


「…………大丈夫、僕は裏切らないよ。ほら、おいで」


前足が僕の足に乗る。じゅうと音を立てて皮膚が焦げていく。


「……っ! だ、大丈夫……大丈夫だよ。おいで」


戸惑いながらもユキは僕に身を寄せた。僕は彼の首に腕を回す。

皮膚を焼かれる苦痛は、熱よりも痛みに近い。


「……だい、じょう……ぶ、だから、ね?」


頬を寄せる──顔の半分が火に包まれ、視覚も失われる。嗅覚もとっくに焦げ付いていて、僕は痛みと自分が焼ける音だけを感じていた。

すっとユキが僕の肩に顎を置く。また新たな場所に痛みが襲ってくる。けれども僕は半分意地になって、ユキを抱き締め続けた。

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