第336話 夫婦

ヘルとアルが去った後、川辺に座り込んだ篦鹿の女神はぼうっと空を眺める。黒い、鳥とは少し違った合成魔獣の影を眺める。


『…………お前さま』


彼女はこの森に隠された女神だ。

この山には神に愛されし獣人達が住んでいる。その麓の森には人も悪魔も出入りしないだろうと隠されたのだ。


『独りは……嫌、いや、イヤ…………寂しい』


鹿の見た目で森に住んでいれば、誰しもが彼女をこの森の土着の神だと思うだろう。国連は木々の精霊だと指定しただろう。


だが、実際には彼女はこの森と何の関係もない。信仰を失った彼女は力を失っていつかどこかに還るはずだった女神だ。何の関係もない森に隠され、還る機会を失った女神だ。


『寂しい……さみしい』


ふら、と女神は立ち上がる。

川辺の丸い石を踏みしめ、木々の間をすり抜けていく。

女神の爪先が触れる度、草花は萎れ木々は葉を散らした。

枯れていく植物に呼応するように、純白の女神は足先から黒く濁っていく。

森に住む動物達は慌てて逃げ出していく、だがそんな女神に近づく者が現れる。


「おい女神! 旦那の出前だ!」


『ちょっとやめ……もうちょっとで面白く…………うわぁっ!?』


女神と同じ角を生やした青年は背負っていた子供を女神の前に投げる。

頭のてっぺんから爪先まで真っ黒なその子供は枯れた草木に服を引っかけ、顔を地面に擦ってようやく止まる。


『……お前さま! お前さま、お前さまぁ!』


女神は目の前に投げられた子供を抱き締め、涙を零して喜んだ。


『な、な……何してくれてんの鹿っ子ちゃん!』


「うるさい。自分の嫁泣かせてんじゃねぇよガキが」


鹿の獣人の青年、ハートは枯れた木に背を預けて呆れた目を喚く子供に向ける。

女神に抱き締められたまま、黒い子供ことナイはハートを責め立てる。


『いい!? 鹿っ子ちゃん。信仰を失った神ってのは大抵、消えるか人を呪うかの二つなの! でもそれだけじゃつまんないでしょ、だからボクはこの子を拾って隠して消えないように色々微調整して……その上で孤独に保って、力を保ったまま人を呪うように仕向けて…………このままいけば森の力も吸って強大になって、この大陸の脅威になるはずだったのに!』


「酷い扱いだな。見ろ、お前に会えて喜んでるぞ? 純粋で可愛い子なんだよ、しっかり夫勤めてやれよ」


『い! や! だ! よ! よく見てよボク子供だよ!?』


「見た目だけだろ、この甲斐性なし」


ナイは女神の腕の中から脱出しようともがく、だが女神は決して腕を緩めず、かえって強く抱き締める。


『もう置いて行かないで……お前さま』


『キミと婚姻したのはボクじゃない! 別の顕現! キミが妻だなんてボクにとってはデータでしかないのぉー! 離して!』


「さっき調整がどうたらって言ってただろ」


『あれもデータ! あのね、ボクはいっぱいいるの! キミもキミも知ってるでしょ?』


ナイは力で脱出するのを諦め、説得を試みる。

女神は微笑んでナイの話を聞く。


『ニャル様いっぱい……楽しい』


『そう! ボクがいっぱい愉しい! キミ中々話が分かるね、話が分かる素直な子は好きだよ』


好き、の言葉だけを拾って女神はさらに喜ぶ。


「お前みたいなのが大勢いるって知ったら八割は自殺するだろうな」


『何の八割?』


「人間……いや、獣人や鳥人、亜種人類も含めて…………知的生命体?」


『ボクを何だと思ってるの! 酷いよ鹿っ子ちゃん、ボク達の友情は偽りだったんだね!』


またバタバタと暴れ出したナイを押さえつけ、女神は愛おしそうに微笑む。

ハートはナイが自力で脱出出来ないと悟り、柔らかい草をちぎって鼻をくすぐった。


『何すんのさ! やめ、やっ、やめっ……やめろってば! 怒るよ!』


「怒りたきゃ怒れよ」


ハートは上機嫌に笑い出したが、反対に女神はムッとしてハートを睨む。ナイの顔を手で隠して、庇う。


『やめて』


『……さっすがボクの嫁! いやぁ頼りになるね、可愛いよ鹿っ娘ちゃん!』


「すごいなお前、もう尊敬するよ」


『どんどん尊敬して! そのまま崇拝してよ鹿っ子ちゃん!』


ハートは日頃の恨みを返してやろうと思っていたのだが、神術を教わった恩神にやめろと言われては仕方ない。


『お前さま……私、役に立つ?』


『ううん全然。キミで遊ぼうとも思ったけど鹿っ子ちゃんが邪魔しちゃったからね。もう離してくれる? ボク別の遊びで忙しいんだ』


「……おい、ガキ」


『何? 文句あるの?』


「ああ、それも大量にな。もう我慢の限界だ」


今までとは違ったナイの声色に女神は腕を解く。ハートは悲しそうな顔をした女神を見て心を痛め、ナイに歯向かう。


『ふぅーん……まぁ、いいよ。いい足だと思ってたんだけど。キミがそう言うなら仕方ない。いいよ? ほらおいで、死んだ方がマシだって千回は言わせてあげるから』


ナイは人差し指を立て、その上に魔法陣を浮かべる。その指をハートに向け、首を傾げる。


『来ないの? 鹿のくせに鶏なのかな?』


「…………分かったよ」


『ん? 何が?』


「従えばいいんだろ従えば! ほら乗れよガキ、お前の足だ!」


『…………ふん、つまんない奴』


ハートはナイを背負い、また駆けていく。ナイが思う場所に思うまま。

女神はまた孤独に心を蝕まれるのだろう。

今ナイと会った思い出はその寂しさをどれだけの間和らげていられるのだろう。

何百年か何千年か、いやもっと短く何十年か、いやもしかしたら明日にでも、また呪いを撒き散らす日が来るのだろう。

ハートは孤独な女神を心の中だけで憐れみながら走り、森を抜けた。

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