第335話 篦鹿の女神

ミナミは僕の腹に刺さった包丁を引き抜き、また刺す。

そしてまた引き抜き、刺そうとしてアルに腕を食いちぎられる。


「いやぁぁああぁぁ!? 痛い! やだぁ! 腕、私の腕返してぇ!」


アルはミナミの腕を吐き捨て、僕の腹に尾を巻きつける。普段より強く巻かれた蛇は止血も狙っているらしい。


『大丈夫かヘル! しっかりしろ、もうすぐだからな!』


アルは店の外壁を蹴り、翼を広げ、屋上を足場に高度を上げた。

もうすぐと言うのは門のことだろうか。国の外に出て何をする気なのだろう。


『鬼共と約束をしている! 神降の国近くの森に潜んでいるから準備が出来たら声をかけろと言われている! 赤髪の方は癒しの術が使える、彼奴を呼ぶ!』


そんな約束をしていたのか。言ってくれればもっと早く国を出たのに。

そうすればミナミに会わずに済んだのに。


『何処だ、何処に……大丈夫だからな、安心しろ、すぐに呼ぶ!』


アルは森の入り口、川辺に僕を寝かせる。僕の横に腰を下ろして遠吠えをする。

遠く遠く、アルの声は森を越えて届いていく。


『早く、早く来い、早く……っ!』


ガサガサと草木が揺れる。鬼達か……と僕とアルは揃って首を回す。

けれどその予想は裏切られ、立って居たのは巨大な白い鹿だった。

一軒家程度の大きさはあるだろうか、その角もまた巨大だ。一体どうやって木々の間を抜けているのだろうか。


『な……何だ貴様は。去れ! 喰われたいか!』


狼の遠吠えに釣られてやって来る鹿などいない。

なら、この鹿は……大きさからして分かるが、普通の動物ではない。魔獣であったとしてもアルの声を聞いてやって来るのはおかしい。


『ヘルに近寄るな!』


アルは必死に威嚇するが、鹿は意に介さず僕の傷口の匂いを嗅ぐ。アルが顔に噛み付いても意に介さず、傷口に息を吹きかけた。


「…………アル! 離れて、大丈夫……この鹿、敵じゃないよ」


痛みが消えた。治してくれたのかと服を捲り上げ傷を見てみれば、傷口が蔦に覆われていた。


『な、何だこれは……大丈夫なのか?』


「…………分かんないけど、平気みたい」


蔦は傷を縫い合わせるように絡まっている。どこから生えているのかは見ても分からない。


「……えっと、ありがとう……だよね?」


体を起こして鹿の頬を撫でると、鹿はゆっくりと瞬き、光り輝いた。

視界が一瞬白く染まり、光が収まるとそこに鹿は居なかった。代わりに鹿と同じ角を生やした少女が座っていた。


『……ヘル、分かったぞ。此奴は神性を持っている。恐らくはこの森の神だ。国連に言わせれば精霊だな』


「神様? そっか……えっと、ありがとうございます……?」


巨大な角には見覚えがある。

あぁそうだ、ハートの角とよく似ている。普通の鹿の角が棒に似ているとしたら、彼らの角は手のひらに似ている。


『…………お前さま』


「へ……?」


『お会いしとうございました、お前さま』


「え……?」


真っ白い角を生やし、真っ白い長い髪を揺らし、真っ白い瞳で僕を見つめる。白く透けた羽衣に隠された白い肌は陶器のように美しい。


『知り合いなのか?』


「い、いや、初対面だと思うけど……」


アルの声がいつもより低い、目つきも鋭い。機嫌が悪いようだ。


『その割には随分と気に入られているらしいな。流石だ、女誑し』


タラシだなんてそんな特殊技能は僕にはない。

僕は女性には気持ち悪がられるタイプだと自覚している。

まぁ、魔物には好かれるし、神と人間の価値観は違うのかもしれないが。


『お前さま、次は何をすればいいのですか。私はお前さまの言いつけ通り、私と同じ角を持つ者に術を教えました。お前さまの言いつけ通り、この八千年間ずっとお前さまを待っておりました』


「……は、八千年?」


僕の前世は一万年前。ということは前世の知り合いでもない。

その「お前さま」と僕が他人の空似だとか、森に入ってくる人間全員「お前さま」なちょっと変わった思考の持ち主なのか、僕の予想はその程度にしか及ばない。


『お前さま、私はもう独りは嫌です。私も連れて行ってくださいな。邪魔にはなりませんから……それが駄目なら、もっと私に目を向けてください。お前さま……』


『ヘル、この女……』


「…………うん、分かってる。しばらくは話合わすよ。寂しかったんなら、少しくらいはね」


八千年という長い時は分からないけれど、独りの辛さはよく分かる。

同情した僕は彼女の背に触れようとしたが、アルの言葉に手を止める。


『この女、貴方に話し掛けている訳では無さそうだ』


「えっ……」


女の瞳は真っ白で、どこを見ているのかよく分からない。

だが、あぁ、確かに。僕の顔は見ていない。その少し下……胸の方を見ている。

女は僕の首に手を伸ばし、ネックレスの紐に指を絡め、服の中に入れていた石を引っ張り出す。


『お前さま……』


「…………石? え、石? 僕は……?」


女は石を両手で愛おしそうに包み、聖女の如き微笑を浮かべる。


『その石に何かが宿っているとは感じていたが……貴様の好い男なのか?』


『お前さま、お前さま……』


『おい、返事をしろ』


『独りは嫌です。お前さま……』


『聞いているのか!』


『……昔は皆、私を崇めてくれていたのに』


怒り出しそうなアルを制して女の手から石を奪う。女は悲しそうに僕を見つめながらも微笑んでいた。


「…………この石、兄さんの形見なんですよ。あなたが神様だろうと、この石とどんな関係があろうと、渡したり出来ませんからね」


『お前さま……』


弱々しく伸ばされた手を、払う。


「アル、行こ」


この石がどんな力を、どんなモノを秘めているとしても、形見だという事に変わりはない。

僕はアルに跨り、女から離れようと提案する。

アルは鬼達が近くに来ていない事を耳と鼻で確認してから木々を足場に空へ上がった。

そして空を飛びながら、森の端にまで届くように高く美しく遠吠えをした。

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