第281話 食欲増進

ベルゼブブ達は破壊した壁と倒した棚にヘルが下敷きにされる可能性を考えず、今回の乱暴な突入を行った。


『ヘルシャフト様ー? どこですかー!』


『あの、ベルゼブブ様。この棚の下からヘルの匂いが……』


『え……わ、私のせいじゃありませんよ!』


『誰のせいでもいいから早く見つけろ、死んでなければ我が治す』


ベルゼブブは壁と棚を蹴り飛ばし、アルとカルコスは散乱した缶詰の下からヘルを掘り出す。

意識を失ったヘルを咥えて、カルコスは自慢げに鼻を鳴らした。


『また気絶してるんですか? よく寝ますね』


『今回は…………いえ、何でもありません』


ベルゼブブが考えなしに壁を破壊したせいだ、と言いかけた口を噤む。

賛同したのは私も同じなのだから──と、アルは自分も責める。


『にしてもホンットいい匂いしますねぇ、この缶詰。いくつか貰っていきましょう』


『……いいのですか?』


『いいんですいいんです、これだけあったらちょっとくらい無くなっても気付きませんから』


缶詰を拾い上げ、微かに香る人間の匂いで特別美味な物を探す。ベルゼブブは選りすぐりを両手に抱え、治療中のヘルの顔を覗き込んだ。

アルも芳しい人間の匂いに惹かれ、一つを咥える。そしてアルは缶詰の下に人を見つけた。


『やぁ……オオカミさん、もし良ければ引っ張り出してもらえないかな?』


深淵のように黒い瞳がアルを捉え、弱々しく助けを求める。

アルは特に深く考えず男を助け出した。

男はこちらに背を向けて缶詰の中身を貪るベルゼブブを見て、微かに笑った。


『……んー! やっぱり美味しいですね! カルコスさんも一口いかがですか?』


『後で貰おう』


アルはそんなベルゼブブを見てため息を吐いてから、男に視線を戻す。


『……見たところ研究者のようだが』


『うん、そうだよ。ナイ君って呼んでくれると嬉しいな』


『ではナイ、ここで何をしていたか教えてもらおう』


『何って……ここに材料があってね、ほら、向こうの棚だよ』


ナイは棚を指そうとした腕が折れている事に気が付き、仕方なく目線で示す。

アルは科学の国でよく見る薬品が並んだ棚を確認しながら、重傷にも関わらず流暢に話すナイに微かな疑心を抱いた。


『そうか、ではヘルとの関係は?』


『…………ヘルって、だぁれ?』


『ここに居た子供だ』


『知らないなぁ』


『…………そうか』


アルはナイをただ不運な一般人だと思い始めた、この倉庫は普通に使われているものだろうし、扉を閉めたとは言っても関係者なら入ることも可能だ。


『私の杞憂だな。済まない、少し待ってくれ、そこに居る獅子が傷を癒す力を持っている。ヘルの治療が終わったら貴様の分もやらせよう』


『……どうも』


アルは缶詰の山を下り、カルコスの元へ。

ナイは折れた腕をぶら下げて、不安定な足場でゆっくりと立ち上がる。

座って待てと声をかけるアルに笑みを返し、ナイはポケットから小瓶を取り出す。その小瓶の蓋を口で外し、ヘルに向かって投げた。


『ちょっと、ちょっと、ちょっと……なんてもん出してくれてんですか先輩!』


『……え?』


ナイの手を離れた小瓶は暗い青紫色の液体を零しながらヘルの頭にぶつかる。


『ふ、ふふ……あは、はははは! うん、完璧』


液体はヘルの髪を濡らし、服を汚した。空になった小瓶は床を転がった。

丁度目を覚ましたヘルは頭と体の一部分の冷たさと奇妙な臭いに不快感を覚える。


『ヘルシャフト様! 大丈夫ですか、何かおかしなところはありませんか!』


「え……何も、ないけど……なんか臭い?」


臭いは僕から──いや、僕にかけられた何らかの液体からのものだ。

科学の国でよく嗅ぐ薬と消毒液と、吐き気を煽る鉄錆に似た臭い。


「え、今、どういう……」


罰ゲームが嫌でベルゼブブを呼び出して、そうしたら棚が倒れてきて意識を失った。

起きたらベルゼブブとアルとカルコスが居て、変な臭いの水をかけられている。

この状況を説明してもらおうと問いかける僕の言葉は、ベルゼブブの僕を見る視線に止められる。


「あ、あの、ベルゼブブ? 何、その目……」


ベルゼブブの目は爛々として、野生の獣のようだった。アルも、カルコスもそうだ。

僕を見て飢えた獣の目をしている。


『うんうん、効果はバツグンだ! あっは、どう? ご感想は!』


「……君の仕業? みんなに何したんだよ、戻せよ!」


『ふふっ、はは、キミ……今、とっても美味しそうな匂いがするみたいだねぇ。どうしてだろう? あっはははははは!』


ナイをそれ以上問い詰める事は叶わない、大口を開けたカルコスが飛び込んできたから。

僕の足は少しも動かなかったが、アルに突き飛ばされて助かった。


『あっれ、我慢強い子がいたみたいだねぇ。ま、もう無理だろうね。ほらほら逃げなよ、食べられちゃうよ? 罰ゲームの始まりだ!』


美味しそうな匂い、食べられる、罰ゲーム……この嫌な臭いの液体を僕にかけたのはナイだ。

効果はおそらく、魔物を興奮させる、食欲を煽る、といったところ。ベルゼブブの呪とよく似ている。

魔物使いの力を使って止める? いや、アルとカルコスはそれでいいとしても、僕に本気になったベルゼブブを止められるとは思えない。

逃げるしかない。


『……ふっ、はははははは! ちゃーんとボクを愉しませてよねぇ。あぁそうそう、この子達はキミを追いかけて食べようとするけど、意識はハッキリしてるんだ。体の自由が利かない状態だね。だーかーらーぁー……ふふ、あっはは、はははっ!』


背を向けて逃げる僕を、ナイが笑っている。

あの心を逆撫でするような嘲笑を響かせながら、ゲームを促す。


『キミを食べちゃったら後悔するだろうね? どうして、なんで、って自分を責めるだろうね? 食べてる時も……嫌だ嫌だって思うんだろうねぇ! ほんっと、可哀想……あっははははははは!』


逃げ切らなければならない理由が増えた。

ベルゼブブは僕を食べても「あーあ」で済ますだろうが、アルが僕を食べたとしたらその後の行動は容易に想像出来る。

自惚れではなく僕はアルに愛されている、愛している者を殺してしまったら……僕なら死にたくなる。

いや、死ななければならないと考える。


どうせ喰われるのならアルがいい、だがアルのことを考えるとアルにだけは喰われる訳にはいかない。

逃げなければ。

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