第282話 消えゆくもの
彼らは全員僕の魔力を感じ取ることが出来る。魔力だけでなく、匂いでの追跡も可能だろう。アルとベルゼブブなら契約の力で僕の居場所が分かるかもしれない。
さてどこに逃げ込むか、入り組んだ狭い道? 駄目だ、彼らは空も飛べる。
だったら地下だ、入り組んでいる上に人も多い。
リンの家という選択肢? 無いに決まっている、クリューソスが増えるだけだ。
「……地下、地下…………あれ? 確か、この辺りに……」
科学の国は地上よりも地下の方が広い。だから地下へ降りる階段やエレベーターがそこら中にあるのだが──どういう訳か見つからない。
「倉庫に行く前見たのに……」
僕は一度通った道は必ず覚える。地図だって並の人より上手く読める。アルに何度か方向音痴だと言われたが、そんなはずはない。
僕が道に迷うはずがないのだ、そのはずなのに……ここがどこか分からない。
「ど、どうしよう……アル。ダ、ダメだ、アルは今…………あ、すいません! あの、道を……」
分からないなら聞けばいい。僕は人の良さそうな中年男性に声をかけ、地下街への行き方を尋ねた。
「あぁ、それなら向こ……」
僕が歩いてきた方向を指差したまま、社交的な笑顔のまま静止する。
「……お、おじさん?」
「君…………美味しそうだね?」
虚ろな瞳でそう言った男性を突き飛ばし、道行く人々にぶつかりながら逃げた。
まさか、人間にまで効果があるのか? 声をかけた人が偶然食人嗜好のある人だったなんて考えは的外れだろうか。
「……そうだ。あの変な水のせいなんだから、洗い流せば……!」
解決策を見つけた僕は川や噴水がないかと首を振って探しながら走った。
そして、誰かに襟首を掴まれて盛大に転んだ。
『知ってますかぁ? ヘルシャフト様。私……悪魔では一二を争う、いえ、ぶっちぎりで最速なんですよ』
「……べ、ベルゼブブ……離して、落ち着いてよ。ね? ちょっと話そ。前言ってたじゃないか、今食べても大して美味しくないって、育つまで待つって!」
僕を掴んだのはベルゼブブだった、彼女は空を飛んで僕を追ってきていた。
『言いましたっけぇ? ま、言ったとしても関係ありません。後で言うことが常に正しいんですよ』
突如街中に現れた悪魔に人々はパニックになり、逃げ惑う。
そのおかげで開けた道路で僕を蹴り転がし、ベルゼブブは口元を隠して微笑む。
『ちゃーんと味わって食べますからぁ……許してください』
僕はベルゼブブが最も近づいた時に力を使って、一瞬だけでも隙を作ろうと構えていた。
ゆっくりと身を屈めるベルゼブブ、僕は彼女の服にまだ新しい血の跡があるのに気が付いた。
「……ベルゼブブ、その血、何?」
『えぇ? あぁ……先輩が私の腕を噛んで離そうとしなかったので…………ちょっと。あ、殺してませんよ?』
「…………アルの血なの」
『んなことどうでもいいでしょ? これから死ぬんだから……ほぅら、そんな質問より可愛い命乞いでもしてくださいよぉ』
アルは僕を助けようとしてくれた、アルは僕が逃げる時間を稼ごうとしてくれていた。
この女はアルを傷つけた、血が出るほどの傷を負わせた。
この女は、この悪魔は、こいつは──
「許さない」
『……だから、命乞いを…………熱っ!? いったぁい、何なんですかもう……これからって時に!』
ベルゼブブは袖を捲り上げてその細腕を日に晒す。
彼女の白い肌に残った醜い僕の名前の焼印が気味悪く蠢き始めた。
焼印は中指から肘にかけて真っ直ぐに線を描き、蠢きは止まる。
次の瞬間、ベルゼブブの腕はその線通りに真っ二つに裂けた。
『嘘っ……!? まさか、もうこんな力が……イイですね、及第点じゃないですか!』
「そのまま……裂けろぉ!!」
『ですが、詰めが甘い』
焼印の線はベルゼブブの喉元にまで達する、腕の裂け目が線にならって喉元を目指す──が、ベルゼブブは自らの腕を引き抜いた。
僕の頭の横に落とされる肩から下の腕。
それはビクビクと痙攣し、焼け爛れていく。
『…………抵抗はぁ、無駄ですよぉ? でもぉ……私はその方が楽しいので、もぉっとしてください』
ベルゼブブの腕はもう再生し始めている。
駄目だ、僕の勝ち筋が全く見えてこない。
喰われる痛みを想像して瞼を固く閉じた僕の肩に誰かの手が触れる。その優しい手つきからベルゼブブではないと判断した。
『…………この者に自由意志の加護を与える』
聞き覚えのある美しい声、その姿を確認する為に僕は目を開いた。
僕の腹にベルゼブブの腕が突き刺さっている……いや、違う。
透過している。
『貴方は……天使ですか。その空気の読めなさからして間違いありませんね』
『天使……天使? ああ、そうだったかな…………もう、よく分かんないんだよね。自分が何なのか。思い出したはずなんだけどなぁ……』
白い翼と輝く光輪は確かに天使のもの、だがその額の角は鬼のもの。
彼女は僕の体を透過し、ベルゼブブと睨み合う。
『君、僕の名前知ってる?』
『は? あぁ……知ってますよ。一万年前のご主人様の婚約者様、でしょう? 確か……××××様でしたね』
『…………駄目だね、聞こえないや。裏技や抜け道はなしって訳だ。バグの一つもないなんて、ホント、最っ高のゲームだねぇ』
ベルゼブブが言った彼女の名は僕にも聞こえなかった。この世全てが気に入らない、そんな厭世的な微笑みを浮かべて彼女は僕に向き直る。
「…………『黒』?」
『うん、やっぱり今はそっちの方がしっくりくるよ』
「助けてくれるの?」
『そうしたいんだけどね。今の僕にはそんな力はないから、僕はもうすぐ消えてしまうから。君が名前を呼んでくれればすぐに解決するんだけどねぇ、覚えてないよね、仕方ない…………うん、仕方ないよ』
『黒』の名前を僕は知らない、『黒』が教えてくれないから。
『黒』も知らないから──
名前は存在を確定付ける、名前が無いモノは存在出来ない。
「……『黒』、消えちゃうの?」
『うん、でも、まだだよ。まだ大丈夫……まだ僕が''自由意志''だから』
『はっ! くっだらない。貴方は元々あやふやな存在。消えたいと願えば消え、在りたいと願えば在る。何にでもなれるのに何でもない貴方に、今はそんな存在ですらない貴方に! 私を止められますかぁ?』
『止められるよ、僕らしくない方法でね』
『なら、どうぞやってみてくださいよ。ほぅら、動かないでいてあげますから』
ベルゼブブは両手を広げ、不敵な笑みを浮かべる。
『黒』は周囲を見回し、騒ぎで店内に隠れた中年男性を指差した。
『彼を贄に』
『……は? 私にあのオヤジで我慢しろと?』
『我が元へ現れよ、そして我が障害物を排除せよ、あぁ……我が忌まわしき狩人よ』
ショーウィンドウが真っ赤に染まり、割れる。
先程の男性の頭部を咥えて、蝮のような魔物が現れる。
蝙蝠に似た翼を生やして、ずるりと道路に這い出でる。
『…………本っ当に忌まわしいですねぇ、アレの使い魔ですかぁ? ンなもん呼び出しやがって、余程死にてぇらしいな』
『口調が崩れてるよ、蝿の王様。君相手じゃ力不足だろうけど、こっちには数の暴力ってものがある』
不吉な羽音に空を見上げれば、店内から現れたモノと同じ魔物が大量に飛んでいた。
どこからともなく出現しては、ベルゼブブの元に急降下する。
『僕は彼のお気に入りだからねぇ、結構教えてもらってるんだよ。さて次は……我が元に現れよ、そして我らを運べ、シャンタク鳥よ』
僕の背後に何かが着地する、これまでの蝮のような魔物とは違った音だった。
磨りガラスを引っ掻くような不快な鳴き声に振り返ると、そこには象ほどの巨体の鳥がいた。
希少鉱石の国で見た、蝙蝠に似た翼で飛ぶ馬頭の鳥──人間を襲っていた、あの鳥だ。
『何してるの! 早くおいで!』
『黒』はその鳥の背に飛び乗って、僕に手を差し出す。
僕はその手を取って、鳥の背によじ登る。
『あっ! ま、待て! このっ……あぁ鬱陶しい! 邪魔なんですよ! どけっ……あぁもう!』
ベルゼブブの怒号と地上が遠ざかっていく、鳥は素晴らしい速さで上昇し、雲が真横に見えた。
僕はひとまず胸を撫で下ろし、それから『黒』に事情を聞くことにした。
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