第250話 地上最速の女

ゆっくりとベッドの下から現れたその人は、両手を頭の上にあげていた。

長い触角は垂れ下がり、硬そうな翅は閉じたままで、長い前髪から微かに覗く瞳は恐怖に満ちていた。


「……こ、殺さないで」


「…………アル、威嚇やめて」


アルは行儀よく座り、翼を畳む。

だが警戒は決して緩めず、睨み続けている。


「すみません、その、お騒がせして。ちょっと追われてて……匿ってくれませんか?」


「お、追われて……? な、なんだよ、お前人間だろ」


「はい。その、侵略とかそういうんじゃないんです、僕ここの王様と知り合いで……少し話したくて来たんですけど、言い訳聞いてもらえなくて」


「アイツの知り合い? なら、どうせお前も私が嫌いなんだろ」


「何言ってるんですか……会ったばかりなのに」


黒檀のような髪に、真っ白な肌。

髪で顔を隠してはいるが、間違いなく美人だ。

彼女は自分の肩を抱き、怯えた目で僕を見ている。


「人間追っかけるってことは……ホルニッセかアーマイゼの奴らだろ、軍隊ごっこしやがって、アイツらも私のこと嫌いんだ、陰口叩いて……」


「……王様がどこにいるか知ってますか?」


「知ってるよ、知ってなきゃ、安心できない。アイツとは離れてないと……アイツだけだ、私に追いつけるのは……だから離れてないと」


「教えてくれませんか?」


「…………そしたら出ていくか?」


肩を震わせながら、か細い声で話す彼女は見ているだけで可哀想になる。

何があったのかは知らないが、彼女は何かを──全てを、恐れているように感じた。


「はい、出ていきます」


「わ、私は殺さないな? 殴らないな? 喰ったり……は、しないか。私なんか……喰わないよな」


「何もしませんよ」


「…………信用はしないぞ。どいつもこいつも私が嫌いなんだ。すぐに出ていけよ。今から言うからな、よく聞けよ、一度だけだぞ」


「はい、ちゃんと聞きます」


「ここから西北に向かうとシュピネ族の集会所がある、それを真上に立って、南西に十七歩。そこにある大木の少し色が違う皮を剥がせ、今はそこにいる」


「分かりました、ありがとうございます」


「は、早く出てけ!」


アルに声をかけ、ウロから顔を出す。

アルは怯える女から決して目を離さず、ゆっくりと後退した。

上半身が外に出て、誰かに服を掴まれ引きずり出される。


「……見つけた」


「よし、殺せ」


僕に向けられた槍を噛み砕き、アルは勇ましく吠えながら僕を体の下に庇う。

槍を砕かれたことで怯えたのか、女達は間合いを広くとる。

長く続くだろうと予測された膠着状態は、思いの外早く終わった。


「な、なんだよ、私は何もしてないだろ!」


洞穴の奥から声が響いてくる。


「中にいるのは誰だ?」


「ツァールロス・キュッヒェンシュナーベ。確か、キュッヒェンシュナーベ族最後の生き残り。侵略者を匿ったのだから同罪。おい、ツヴァイテ、首を刎ねろ!」


その号令の直後、洞穴から黒い影が凄まじい速さで飛び出した。

それは地を這うように走り、木の影に見えなくなる。


「……速い。なっ、何をしている! 追え!」


今逃げていったのは洞穴に住んでいた女らしい。

巻き込んでしまった、僕の中の罪悪感が膨らんでいく。

だが彼女を追って女達は半分に減ったのは好機だ、そうアルに伝える。

見上げたアルの呼吸は荒く、足は震えている。

気力だけで何とか耐えている状態、そう分かった。


「アル……? どうしたの?」


『…………大丈夫、大丈夫だ。この程度』


アルは弱々しく翼を広げ、牙をむく。


「バケモノにも効いたようだ」


「当然だ。血の通った生き物なら、神経のある生き物なら、我々の毒は通じる」


「……慢心するな、魔獣に人の常識は通用せん」


「毒……アル、どんな感じなの? 大丈夫じゃないよね、教えて?」


症状が分かったら対処法も見えるかもしれない。


『大丈夫、何も無い』


だが、アルは強がって教えてくれない。


「痛いの?」


『いや……大丈夫』


「どう痛いの?」


『痛みなどない』


痛みに耐えるアルを遠巻きに眺め、女達はクスクスと笑っている。

毒が全身に回るのを待ちながら、僕の首を刎ねるその時を待ちながら。




艶のある黒髪を振り乱し、ツァールロスは走っていた。

あの軍隊もどきから逃げるために、人間とのいざこざから逃げるために。

倒れた木と地面の僅かな隙間を通っても、飛び出した枝を避けるために頭を下げても、彼女の走る速度は決して落ちない。

ホルニッセの女達はもう既に彼女を見失っていた。

初めから最高速度で走る彼女を追うなど、あの女達には荷が重過ぎた。


「……巻いた、か。本当……最悪、もうあの家使えない。匿って同罪とか絶対嘘だ、私を殺したいだけだ、私が嫌いだから……」


下を向いたままふらふらと歩き出した、自分がどこにいるのかも確認せずに。

下だけを見ていたから、木に吊り下げられた家に気がつかなかった。

つま先だけを目で追っていたから、横を通った大木の皮が剥がれたことに気がつかなかった。

イミテーションの皮を音を立てないように倒し、木のウロから這い出た男──ウェナトリアはツァールロスの背後に忍び寄った。


そして、いきなり……抱きついた。


「きゃあぁああぁあっ!」


「やぁ、ツァールロス。元気かな? その声を聞く限り元気そうだね、君から私を訪ねてくれるなんて珍しい。だが今は侵略者が来たと大騒ぎだ、少し時が悪かったね」


「いやっ、いやぁ! 離して! いやぁっ!」


「いや待てよ、侵略者が来たのなら私の傍にいた方がいいな。まさか……怖くなって私を訪ねたのか? それはいい判断だ」


「いやぁあああぁああぁぁっ!」


バタバタと暴れるツァールロスを八本の足で押さえつけ、ウェナトリアは淡々と話す。

その様子を見ていた姫子が、ウェナトリアの顔布を捲って提言する。


「離してあげて、怖がってる」


「そうすると逃げるんだ。追いかけるのも大変でね」


「……怖がってる」


「それが一番の問題だね、ツァールロスは何故か私に殺されると思い込んでいる。私が彼女に危害を加えたことなど一度もないのに」


ウェナトリアに言っても無駄だと判断した姫子はツァールロスに話しかける。


「大丈夫、何もしない」


「いやっ、いやぁあああ! 離してぇ!」


「……聞いて、彼はいい人。何もしない」


「嘘吐き! どうせお前も私が嫌いなんだろ! だから殺すんだ、八つ裂きにする気だろ!」


「そんなことしない」


「嘘だぁあ!」


泣き叫ぶツァールロスにそれ以上何も言えず、姫子はウェナトリアを見上げる。


「分かったかな」


「うん」


「こういう子なんだ」


「うん」


「何をしても治らなくてね……困ってるんだよ」


そう言って苦笑いを姫子に向け、頭上からの羽音に空を見上げる。


「……やぁ、ホルニッセのお嬢さん方、隊列組んでお散歩かな」


カチカチと音を鳴らす警戒色の彼女達にも、ウェナトリアは紳士的な笑みを浮かべた。

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