第244話 強欲な悪魔

黒い燕尾服に身を包み、怪しげな仮面で目の周りだけを隠したその男。彼は部屋の有様を見て鞄を落とした。


『あ、帰ってきた。久しぶりですね、マンモン』


『これはこれは、ベルゼブブ。ここで一体何が……』


『客人ですよ、もてなしなさい。この汚い部屋を片付けて、美味しいお茶を入れなさい』


『あら、相変わらず冗談がお上手ね……本当、何をしたのかしら?』


オールバックの紫の髪、青紫と金のダイクロイックアイ。

その高い背に燕尾服はよく似合っており、いかにもなエリートといった出で立ちだ。


『虫を呼んでくださる? 貴方の子供達よ、壊れたもの全部食べちゃって』


高い声を作り、マンモンは壊された家具や壁紙、窓を指した。

ベルゼブブが指を鳴らし集まった無数の虫は瞬く間にそれらを喰い尽くし、部屋から物を消した。


『あら……お陰様で綺麗になったわ、どうもありがとう』


『いえいえ』


僕はベルゼブブとマンモンのやり取りを見て、マンモンが家主だと察した。

そして、丁寧な言葉に隠された怒りも手に取るように分かった。


『いえいえ……じゃねぇーっんだよ! んっの便所蝿ぇ! 何してくれてんだって聞いてんだよ俺ぁよぉ!』


『私は何も』


マンモンは突然声を低く荒くし、ベルゼブブに詰め寄る。その声は先程までとは違い体格に合っている。


『ホラ吹いてんじゃねぇよ……あぁん?』


『ちゃんとお客様をもてなしたらどうです?』


仮面の下に隠された目が僕を捉えた、その途端マンモンは先程までの威圧感を嘘のように消し、にこやかに対応した。


『あら、可愛らしいお客さん。ふふっ、少々お待ちください』


「な、何、あの……お、同じ人だよね?」


『ちょっと裏と表が激しいんですよ、彼』


「ちょっ……と?」


マンモンは扉の前に落とした鞄をその場で広げ、内側に描かれた呪詛紋様を指でなぞる。


『欲しい、欲しい……豪華な家具が、美しい壁紙が、割れない窓が…………ベルゼブブが来なくなる虫除けスプレーが』


『最後の物について少し聞きたいのですが』


鞄の内側が黒く染まり、マンモンはそこに腕を入れる。

水面のような波紋が広がり、マンモンが腕を引き抜くと──豪華絢爛なソファがその手に掴まれていた。

マンモンはそれを放り投げ、前にあった位置に戻す。

次々に家具を取り出し、壁紙を取り出して貼り、窓ガラスを取り出し……部屋はあっという間に元に戻った。


『あぁ……疲れんだよなコレ、ったく……』


『マンモン、絨毯は?』


『あらやだ、忘れてたわ』


きゃ、と口を手で隠す。仕草だけは可愛らしい。


『馬鹿ですね、相変わらず……いえ、悪化しましたか?』


『んだとゴラァ! 表出ろ便所蝿!』


その後も口喧嘩は続き、僕はとりあえず新しく現れたソファに座った。

見た目も座り心地も、以前にあったものと似ている。

だが、装飾の位置や色が違う、全く同じものではない。


『ふっかふか、いいなぁこのソファ』


「アルもおいでよ」


『私が乗ると毛が落ちるし、爪で生地を傷つける。ここでいい』


アルは僕の足に頭を置き、目を閉じて尾を揺らした。

アルの頭や背を撫でていると手前の机にカップが置かれる。


『どうぞ』


「あ、ありがとうございます……あと、その、すみません。上がり込んで……部屋、汚しちゃって」


『やだぁ、もう。気にしなくていいわよぉ、子供は元気が一番なんだからぁ』


『……マンモン、何千年も前から言っていますが、その喋り方はどうかと思います』


『んっだよ文句あんのか? どうでもいいだろぉがよ喋り方なんざ』


喋り方、というか、声まで変わっているような。

やはり同じ人だとは思えない、目の前で見聞きしていてもそう思う。


『ほら、ヘルシャフト様が怯えていますよ? 貴方が変な声出すから』


『あらやだ、ごめんなさいね、怖かった? 大丈夫よ〜、あの便所蝿以外にはとぉっても優しいんだから』


『……そっちの方が怖いと思いますよ、ねぇヘルシャフト様』


『ヘルシャフトっていうのね? やだ〜もう、可愛い名前ねぇ、羨ましいわぁ〜』


もう、気にしない方がいいのかもしれない。豹変に毎度驚いていては身も心ももたない。


「あ、ありがとうございます。その……ヘルって、呼ばれたりもするので、そう呼んでもらっても……」


『あらいいのぉ!? ありがとう、もう〜可愛いわねぇ』


『……マンモン、それくらいにしなさい』


『何よぉ、うるさいわねぇ』


マンモンは僕の向かいに座り、鞄から取り出した酒を瓶のまま呑んでいる。

鼓動のように動く喉仏は男らしいと思えた、一体どこからあの高い声が出ているのか……悪魔だから、と思考を停止していいのだろうか。


「あの、マンモン……さん?」


『なぁにぃ、ヘルくん』


「その、僕さっき、料理……作って、勝手に冷蔵庫開けて、使っちゃったんです。その……すみません」


『いいのよぉ、好きに使ってくれて。いくらでも手に入るから。但し……便所蝿、てめぇは許さねぇぞ?』


『私一応上司ですよね?』


『人ンち荒らして勝手にもの食うような奴ぁ上司じゃねぇ、クソ野郎っつーんだよ。蝿は蝿らしくクソでも喰ってな』


『相変わらず品性のない……だから嫌いです』


知人だとか、自分がいるから大丈夫だとか言っていたが、ベルゼブブの言葉を信用しなければよかったと心の底から思った。

僕に対しては温和に対応しているが、怒っているに決まっている。

ベルゼブブが何を言おうと大人しく待っているべきだったのだ。


まさに一触即発の空気の中、唐突に扉が開く。


『やっほー! まーくん! 久しぶりに来てやったぜー……て、え、何これ』


赤い伊達眼鏡と刺々しい金髪には見覚えがある。

前にこの国に来た時、闘技場で見た……乱暴な天使だ。

ゼルクは扉の奥で立ちすくんだまま、僕達を注意深く観察していた。

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