第223話 畏れ、崇めよ
泣きながら血を落とす為にに手を擦るヘルを横目に、ナイは倒れた男を見下した。
その表情のどこにも子供らしさはなく、どこまでも美しく恐ろしい。
『……心臓外してる』
ヘルは胃の位置に刃を突き立てていた。計三回の刺突は全て脂肪に阻まれ、内臓もほとんど傷つかず、男はただ痛みに呻いているだけだった。
もうしばらくすれば痛みに飢えが上書きされ、また食事を求めるだろう。
『……もう一回、は無理かな? ここで壊しちゃ面白くないし……仕方ないか』
ナイは男の頭に片足を乗せ、思い切り横に捻った。
鈍い音が響き、男の呻き声は止む。
通常なら曲がらない角度の首を元に戻し、ナイはヘルの隣に戻った。
呼吸が整わず、肩で息をする僕の背に小さな手が触れる。
『ヘル君、ヘル君、大丈夫?』
「多分、大丈夫……ナイ君は?」
『ボクは大丈夫だよ、ヘル君が守ってくれたからね』
「え……あ、そう、そうだった。あの人は」
『んー、見ない方がいいかな?』
首を折った形跡が見つかると面倒だし、ナイは声に出さずに心の中だけで呟いた。純真で可愛い子供を演じるのも面倒臭い、とも。
「僕、やっぱり、あの人を殺したの?」
『…………ヘル君』
「殺したんだよね、そうだよね……僕、人を殺した。この手で」
顔の前で手を開くと、真っ赤に濡れた両手があった。
自分なものとは思いたくない自分の手。
その手にもみじの葉に似た小さな手が重なる。
『ヘル君、ありがとう、守ってくれて』
「…………でも、僕、殺した」
『守ってくれたんだよ、ボクを』
「僕がもっと気をつけてれば、僕が君を離さなければ、僕がもっと丈夫だったら、もっと強かったら、もっと足が速かったら」
僕は誰も殺さなくて済んだのに。
『ヘル君はボクを助けてくれたんだよ?』
「僕が、僕じゃなかったら」
『キミじゃなきゃ、きっとボクを見捨てて逃げてたよ』
「……僕は、僕でよかったの?」
『君は、君じゃなきゃ駄目なんだよ』
この星にただ一つしか存在しない魔物使いの力。
それを持つ君としか出来ないゲームがある。
ナイはそんな本音を隠して、人間が大好きな''存在を認め、ただひたすらに肯定する''言葉を並べる。
「…………そう、かな」
『そうだよ』
ナイの小さな手を赤く濡れた僕の手が包む。
汚してしまうな、なんて思えるほどの余裕はできた。
手を握って、じっと目を合わせて、また下手くそな微笑みを見せた。
「ありがとう。僕を、認めてくれて」
『あははっ、どういたしまして』
無邪気に笑う小さな体を抱き締めると、不思議と呼吸が落ち着いた。
心も少しずつ穏やかになり、頭も冷える、少しずつ少しずつ、癒されていく。
先程まで感じていたナイへの恐怖は全て安心へと姿を変える。
「……ナイ君、僕と一緒に来てくれる?」
『いいよ、どこに?』
「さっき言ってた、地下」
『分かった。こっちだよ』
腕を解くとナイは可愛らしい足音を立てて走っていく。
早く追いかけなければ、ああ、武器を持っていた方がいいかな。
あの子のためならもう一人くらい殺したって──何を考えているんだ僕は。
護身用、そうだ護身用。何かに捕まった時に腕や足を切りつけて逃げる為に持って行こう。
人殺しなんてもうしない。
僕は男の腕に刺さったままの果物用の小刀を引き抜く、胸に刺さった大きい方の刃物は回収出来ないだろうか。
僕の力ではこの巨体を持ち上げることなど叶わなさそうだ。
肩の下に足を差し込めば少しは……と、首の不自然な捻れに気がつく。
ネジのような奇妙なシワが出来ているのだ。
「……っと、重……」
肩の下に差し込んだ足を上げるが、男の巨体は少しも持ち上がらない。
やはり首の捻れが気になり首だけを持ち上げる。
すると、妙に軽い。試しに回してみると、抵抗が異常に少ない。
「まさか……これ、折れて」
『何してるの?』
「うわぁっ!? あ、ナイ君」
『どうかした?』
ナイが僕の顔を覗き込んでいる。深淵そのものの瞳が僕を映す。
「あ、ああ、その、ナイフ……持って行こうかなって」
『なら調理室から取ってきなよ、血がついちゃって切れ味悪くなってるだろうし』
「あ、そうだね、その方がいいよね」
『大っきいのは下の棚にあったよ』
ナイには気づかせたくなかった、首の骨が折れているなんて。
僕は首を戻して、調理室を漁る。
小刀を探しながらふと思う、首が折れているのなら僕の刺突は彼を殺していないのではないか、と。そう考えなければ心を保てない。
そして、疑問が浮かぶ。
何故ローブを着ているのに男は僕を吹っ飛ばせたのか、防護結界はまだ壊れていないはずだ。
そもそもあの巨体といえども、僕をあの勢いで吹っ飛ばすことなど出来るのか。
何故同じ方向から体当たりされたのにナイと反対方向に飛んでしまったのか。
『へールー君、まだー?』
「あ、今行く」
『こっちだよーこっちー』
ナイのおかげで癒された心の傷が、ナイの不審な言動でこじ開けられていく。
ナイはローブを着ている僕に普通に話しかけている、触れている、しっかり目を見ている。
「ね、ねぇナイ君。僕、見えてるの?」
『どういう意味?』
「……何で声聞こえてるの?」
フードまでしっかりと被っているのに、今ナイはローブに隠れてはいないのに、僕の声に返事をした。
「こ、このローブはね、人に見えなくなるんだよ? 悪魔にだって効くって、言ってた……なのに、どうしてナイ君には見えてるの?」
『そんなこと……ボクには分からないよ? ボク、ちゃんとヘル君が見えるよ』
「見えちゃダメなんだよ、おかしい。魔法陣は壊れてないはずなんだ。効果が急に切れるわけない」
『そんなこと言われたってー、見えるもん』
ナイは頬を膨らまし、パタパタと手を揺らす。
その子供らしい仕草にナイへの疑念が消えていく、きっと魔法陣に傷でもあるのだろう。
「……防護結界も発動しなかったし、まさか本当に壊れちゃったのかな」
裾を目の高さまで持ち上げ、難解な魔法陣を眺める。
予想に反して汚れも傷もなく、淡い光は灯ったままだ。魔法が発動しない原因は分からない。
『ヘル君、もしかして、ボクのこと疑ってるの?』
「……へ? な、ちが、違うよ! 君を疑ったりしないよ!」
疑念を抱いたのは確かだ、だがそれはナイに向けたものではなく、ローブに向けたものだ。
今、他に人がいない以上魔法の効き目はナイでしか確認できない。
だが、あの男に吹き飛ばされた時点で防護結界が失われていた事は確かで、それは調理室から出る以前に魔法が何らかの原因で発動しなくなったという証拠だ。
「違う……本当に違うんだよ、ちょっと確かめたいことがあっただけで、そんなふうに思われるなんて思ってなかったんだ」
口下手は損だ、弁解だって出来やしない。
「ごめんなさい」
言い訳が出来ないのなら、謝るしかない。
ナイに嫌われたくない、ナイに見限られたくない、置いて行かれたくない、捨てられたくない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
体を丸めて、頭を地面に擦り付けて、謝罪を繰り返した。
何故こんなにもナイの機嫌を気にするのか、僕にだって分からない。
ただ本能が叫んでいる、逆らうなと。
『違うなら別にいいよ、早く行こ』
「あ、ありがとう……ごめん、本当に……ありがとう」
先程とは反対に、今度は僕が手を引かれる。
人と関わった経験の少ない僕は、小さな子供と関わった経験のない僕は、何にも気づくことが出来なかった。
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