第222話 それは罪悪感か
男が彷徨いているかと思うと迂闊に食料庫を出る訳にもいかない。
扉に耳を当て、外の様子を伺うが何も聞こえず参考にならない。
『にゃんにゃにゃるにゃー、にゃにゃるにゃーん』
「……その歌、何? 可愛い」
『オリジナルー』
「へぇ……そうなんだ」
『一緒に歌う?』
「いや、止めておくよ。君が歌うなら可愛いけど、僕が歌っても……気持ち悪いだけだよ。僕みたいなのがにゃーにゃー言っても、不快感しか生まないよ」
『あははっ、かもねー!』
パタパタと揺らされる足が前に立つ僕のふくらはぎを蹴っていることには何も言わない。
痛くもないし、これで怒っては流石に大人気ない。
何を叱ればいいのかなど、大人らしい大人に教育されたことのない僕にはよく分からない。
「……えっと、ナイ君でいい? ナイちゃん? 男の子だよね?」
『どっちに見える?』
「正直、どっちにでも」
『えー……じゃあ男の子』
「じゃあって……えっと、ナイ君」
『うん、何?』
「えっと、このローブはね、あのおじさんから見えなくなる魔法がかかってるんだ。だからここを出たら、僕から離れないでね」
僕はナイをローブの下に隠し、そっとドアを開く。
目に見える範囲には男はいない。とりあえずの安心を手に入れ、ふぅと息を吐いた。
『あ、ねぇねぇアレ使えない?』
「え? どれ?」
小さな手が指したのは調理台だ、ナイがはみ出てしまわないようにゆっくりと歩を進め、もう一度聞く。
「どれ?」
『それ!』
「……これ?」
『そうそう』
壁に掛けられていた小刀を手に取り、ナイに見せると嬉しそうに頷いた。
こんな物騒なものを……いや、命の危機を感じているのなら、分からなくもない。
指で弾いても金属音は鳴らない、どうやら硬いお菓子らしい。けれどしっかりと研がれて鋭く尖っているので、安物の包丁よりはずっと切れ味が良さそうだ。
「危ない気もするけど……まぁ、念の為」
そう自分に言い聞かせ、小刀を右手に握らせる。
何かあればこれを使って守らなければ。
何を守るのか? ナイに決まっている、何の力もない小さな子供だ、僕が守らなければ。
「……大丈夫、何も起こらない、大丈夫」
『探し物は? いいの?』
「え、あ、ああ、そうだったね。探そうか」
『何探してるの?』
僕の足にしがみついて、僕を見上げて小首を傾げる。
その仕草は確かに可愛いのだが、深淵そのもののような黒い瞳には本能的な恐怖を感じてしまう。
「んー……地下、かな? ナイ君は知らない? この国の人が太ったら連れて行かれるところ」
呪いが強くなったことと悪魔は関係ないなどと言ってはいたが、自分の呪いが他者に弄られたとあれば、何かしらの行動は起こすはずだ。
それに兄も地下を目指していた、魔法が何を探知しているかは知らないが、今のところ情報は地下を示している。
『うーん……あ、知ってるよ』
「え、本当!?」
『うん、少し前に見たんだ。悪魔が大きな人を連れて行くの。お城の裏の方だったよ』
「やった。ありがとう、じゃあそこに行かないと……あ、いや、場所だけ教えてくれる?」
ナイを危険な場所に連れて行きたくはない。場所だけを聞いて兄に伝えるか、メルの所にナイを預けて僕だけで行くかしなければ。
いや、メルの所にはセネカがいる。安全とは言えない。
そもそもこの国に安全な場所など……
『近道があるよ? ちょっと狭いけど』
「よく知ってるね……ここに住んでるわけじゃないんだよね?」
『散歩してたから』
またローブの隙間から手が伸びる、人差し指を立て、ドアに向ける。
『あっちだよ』
「……分かった。僕から離れないでね」
ローブの前をしっかりと閉め直し、ドアを開ける。
廊下に踏み出した瞬間、何かに吹っ飛ばされた。
それはドアが開いたのを見てか走ってきた男だった。
柱に背中を打ち付け、肺の空気が追い出される。
呼吸を整えながら、フードを被り直し……ナイがいない。
立ち上がって見渡せば、反対側の壁に背を預け倒れていた。
僕が吹っ飛ばされたのだから、ナイはそれ以上の衝撃をあの小さな体で受け止めたに違いない。
名前を叫ぶと、瞬きをしながら顔を上げ僕を見た。
大きな怪我はないようだと安堵する。
「いた。見つけた。いた」
巨体を揺らす男がナイに向かって走る、大口を開けて。
僕は最悪の事態を避けるために男に体当たりを仕掛けた。
体格差など考えずに、小刀を両手に握り締めて。
大きな腹に深々と突き立った小刀は、もう柄の部分しか見えていない。
男は言葉にならない声を上げながら痛みに悶え、それでも収まらない食欲を滾らせた。
ギラついた目がナイを捉える、ローブの魔法で僕の声も姿も見えていないのだ。
「あ……僕、僕は、そんな……刺そうなんて」
男に危害を加えようなんて思っていなかった、ただナイを守りたかっただけだ。
『ヘル君! これ、さっき取ってきたの!』
ナイの声に現実に引き戻される、人を刺したという現実に。
そして今なお危機は去っていない現実、男はまだナイを食そうとしている。
ナイが僕の足元に滑らせたのは、今僕が男に突き刺した小刀よりも大きな物だった。
「これ、で……これで、何を……しろ、って」
銀色に僕の顔が映る、人を傷つけることに怯えた僕の顔が。
そして、刃の向こうには腕を掴まれ持ち上げられたナイが見えた。
「……大丈夫、守る、それを刺せば……守れる」
僕は男の腕に刃を突き立てた。
男はナイを落とし、血が溢れ出る腕を咥えた。
自分の血ですら馳走に見えるのか。
『ヘル君、ヘル君』
「大丈夫、大丈夫……守るから、ちゃんと」
落とされて怪我をしていないか、なんて考える頭もない。僕はただ震える手で刃物を握り締めていた。
『ねぇヘル君、心臓の場所知ってる?』
「……え?」
ナイは僕の足を支えに立ち上がり、男を指差して言った。
『胸の真ん中、少し左、握りこぶしくらいの大きさ。だから……あの人なら、もう少し腕を上げて真っ直ぐ歩けばいいよ』
「……な、何言ってるの。殺せっていうの? 僕に、あの人を」
『殺さないの?』
「え……あ、でも、だって、あの人は、呪のせいで、あの人は普通の人間で、いつもは……きっと、あんなんじゃ、なくて」
傷口をしゃぶるのに飽きた男が顔を上げ、僕を──いや、ナイを見つめる。
飢えた瞳で。
「……来るな!」
僕の手はもうこの武器を離してはくれないから、こっちに来たら刺してしまうから、来ないで。
ローブの魔法も忘れて、男には聞こえない警告を叫んだ。
「来るなってばぁ!」
『……ヘル君』
「あ、あ、あぁぁあぁああぁっ!」
目を閉じて、真っ直ぐに腕を伸ばして、一歩踏み出した。
ずぶりと刃が肉に沈む感触、手にかかる生温い液体、どしゃと大きな物が落ちた音。
『ヘル君、ヘル君』
「……やだ、嫌だ、嫌だ……やだ」
僕はその場に座り込んで、頭を振って駄々をこねた。
涙を零しながら、目を閉じたまま、ぬるぬるとした感触を忘れたくて手を擦った。
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