第214話 空腹

魔界の底、崩れた魔王城の下から吹き出した虹色の輝きを放つ黒い粘着質な液体。

それは天井に届き、植物のように根を張った。

表面に無数の目が生え、その全てが僕を見た。

奇妙な鳴き声が響き渡る、魔法陣が至る所に発生する。


『な、なになになんなの!?』


「怒ってる、すっごい怒ってる! アル、逃げて! 早く、今度こそ殺されちゃうよ!」


『アレは……貴方の兄か』


「そうだよ! 早く逃げてよ!」


『説得は』


「聞く訳ないだろ!? 僕の話なんか!」


兄を宥める方法はただ一つ、好きなだけ僕を嬲らせること。

だが、今となってはその方法は使えない。

人間だった時ならまだしも、完全なバケモノと化した兄に身を捧げれば一瞬のうちに喰われて終わりだ。

僕を喰ったと認識するかどうかすら怪しい。


『逃げると言ってもな、あの目からは逃れられん。攻撃は避けるから説得を試みてはくれないか』


「無駄だって!」


『ヘル、大丈夫。貴方は昔とは違うだろう? 対等に話が出来る筈だ』


どこまでも優しい、諭すような声。安心しきって身を委ねたくなる。


「……知らないくせに」


対等なんて、兄がそんな存在を認識する訳がない。

兄にとっては兄以外のものは愚鈍で目障りな塵芥なのだから。


何も言わずにアルの背にしがみつき、兄から目を逸らす。

爆発音にも似た魔法の音と衝撃波だけを感じていた。

とん、という揺れとともに飛行が安定する。

いや、違う。着地したのだ。

恐る恐る顔を上げると、僕の目の前には僕の頭よりも大きな眼球があった。

ぐりんと動き、瞳孔が開かれる。


「ひっ……ぁ、アル、早く逃げてったらぁ!」


『……攻撃が止んだ、話をしてくれ』


「僕の話なんか聞かないって!」


『ヘル』


「嫌だ! 早く逃げてよ!」


アルは全く動こうとはしない、ミカは気持ち悪いと僕の背に顔を埋めた。

嫌だ嫌だと駄々をこねているうちに、また地が揺れた。

玉虫のように色を変えながら、目の前の液体が形を変える。

アスガルドで見た、ドラゴンにも神獣にも似たあの姿へと。


揺れの原因は雷だ、空もないのに真横に落ちる雷が地を揺らしているのだ。

雷も対抗するように絡みつく黒い焔も、今はまだ遠くの出来事。


『ヘル、ほら、話を聞いてくれるらしい』


「そ、そんなわけ……ない、よ」


『大人しくなっただろう? 姿も変わり話もしやすくなった』


「話する気なら人に戻るだろ!?」


『それは……そう、だが』


アルは虹色の魔物へ歩み寄る、兄だと分かった今でもその美しい姿は僕を魅了する。

額の宝石に僕が映った。


「…………に、にいさま?」


その調子だ、とでも言いたげにアルが口角を上げて僕に振り向く。


「あの、僕……」


話と言っても、説得と言っても、何も思いつかない。

要らないと言ったことを謝ればいいのか?


「さっきは、その……」


『ヘル』


「あっ、な、なに?」


『おナカ、スいた』


「……にいさま?」


『たべタい、ヒト、おいシいの』


「あの」


『…………ヘル、おいしい?』


真っ二つに割れる頭、首。

断面に並ぶのは牙、奥から伸びるのは舌。

アルは咄嗟に後ろに飛び退き、僕の前髪が僅かに食まれた。


「……か、ら。だから! 言ったじゃないか! 無駄だって、僕の話なんか聞かないって!」


『す、済まない……私は、貴方に』


「にいさまは僕どころか、誰の話も聞かないんだよ! そういう人なの!」


『貴方に……ただ、家族というものを分かって欲しくて』


「そんなのいないんだよ! そんなのっ……いないの! 僕には、いないんだよ!」


『ヘル……』


「早く逃げて! 今は知性もなさそうだし、いつもより酷いよ!」


『……分かった』


魔法も使わずに、ただ大口を開けて襲いかかるだけ。

先程よりも余程逃げやすい。

だが、捕まった時にどう死ぬのか、どういった痛みを味わうのか、全て想像がつく。

肌を掠める牙が、粘着質な液体が、僕の恐怖を煽っていく。


『落ち着け』


耳を劈く轟音と共に目が眩む、最後に見えたのは光の柱。

視覚と聴覚を同時に奪われ、僕は半狂乱になってアルの毛を掴んだ。


『ヘル、ヘル! あまり引っ張らないでく……痛っ』


ぶち、と手に感触が伝わる。

引き抜いてしまったのか? 自分の声すら聞こえない中で謝罪を繰り返す。

返答も聞こえないから、感覚で謝罪を止め首周りをなでて許しを乞う。


『……なに? 神性? ふざけないでよ』


『ヤハウェ以外は認めない、と?』


『あたりまえ、そうじゃなきゃしめしがつかない。天使がほかの神性となかよくしてちゃ人間のしんこうにかかわる』


『ふっ、天使様も大変だな?』


不機嫌なミカを嘲り笑い、煽るアル。


『ばかにしてる? ぺっともたいへんだよね、ごしゅじんさまにむしられて』


『……すぐに生えるから別に構わん』


少しずつ目の痛みが収まり、視界が元に戻る。

チカチカと瞬く度に光が見え、頭も痛くなってくる。

兄がいるであろう方向に目を向けると、金髪の男が槌を肩に担いで立っていた。


『……り? テ…………なか、すいた』


『弟を探しに来たんだろ、喰ってどうする』


『君、だレ?』


『……トールだ、早く覚えてくれないか』


『とー……ァかスいた』


『ここに人はいない』


『いる、そこ』


『それは弟だろ?』


美しい魔物の姿に戻り、兄は僕を見つめる。

僕のことは肉としか見ていないようだ。

だが、トールが押さえつけてくれているおかげで口を開きはしない。


『あー、弟。エアは腹ペコだ。今は少し頭が悪い。お前を慌てて探しに来たんだ、焦って準備を怠った』


「慌てて……」


『怒るし、燃やすし、泣くし、大変だった』


「泣く……にいさまが? 泣いたの?」


『ん? ああ、泣いた。お前がいない見当たらないと』


「そ……う、ですか」


兄の体の表面を時々小さな稲光が走る、押さえるために電流を走らせているのだろう。

だから触れるのはやめておいた。

僕は僕を飢えた目で見つめる兄にぎこちない笑顔を向ける。


「…………探してくれて、ありがと」


一瞬、瞳孔が膨らむ。

それにどんな意味があったのかは分からない。

ご馳走が近づいて興奮しただけかもしれない。

だが僕は、兄が僕の感謝を喜んでくれたと思いたい。

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