第215話 最初の人間、だったもの

束の間の安らぎの時間を謳歌し、怯えながらも兄への感謝を述べた僕はまたアルの背に跨った。

危機はまだ脱していない、魔界から出る手立てもない。


『あの程度で私を殺せると思うなよ』


トールの真後ろにいつの間にか影が忍び寄っていた。

それを認識した途端、僕達を閉じ込めるように円状に焔が広がった。


『……中々だ、だがぬるいな』


『吠えるなよ、神が』


『狼でもないのに吠えはしない』


影もまた黒い焔で作られていた、影はトールに覆い被さるが、即刻かき消される。

焔は脅威だが、トールがいれば大丈夫そうだ。僕はそう慢心した。


ぼとり、と僕の首に何かが落ち、絡みつく。

それには僕の腕よりも細く、鱗がびっしりと生えている。

そしてそれは、次から次へと落ちてくる。


『う……へび、きらい』


『言ってる場合か! 上から退け、ヘルは私の下に隠れろ!』


「ま、待って、首に……」


湿った体に指が滑る、首がどんどんと締め付けられ、呼吸を止めさせる。

見かねたトールが僕の肩を左手で掴み、右手の指で蛇の頭を軽く弾いた。

蛇の頭は破裂するが、まだ体は締め付けを止めない。

だが僕の首を絞め落とすには足りず、ずるりと落ちた。

死後の余力はそう長くは続かなかった。


「あ、あの、ありがと……」


『隠れてろ、邪魔だ』


「ごめんなさい……」


フードを被り直してアルの下に潜り込む、次々に落ちてくる小さな蛇と目が合う。

アルは僕に近寄らせまいと蛇を必死に払ってはくれるが、数が多すぎる。


『面倒だな、一掃……おい弟』


「……あ、はい!」


弟なんて呼ばれては、僕のことかどうか分からない。

目線から判断したせいで少し返事が遅れた。


『お前、絶縁体か?』


「ぜつ、えん……何ですかそれ」


『違う! 私もだ。生物は基本的に違うぞ』


聞き覚えのない言葉に戸惑っていると、アルが代わりに答えてくれた。


『そうか……なら、やめておく』


『そうしてくれ』


僕の眼前で鎌首をもたげた蛇が噛みちぎられる。

トールは槌を適当に振るい、蛇を潰し焔を牽制していた。

兄はトールから解放され、ふらふらと頭を揺らしている。

あの奇妙で美しい鳴き声が、何度も何度も繰り返されていた。

そして、兄が頭を止めると同時にその音も止む。


『り。おナかすイ……つケた、み、けた。タベる』


うわ言のような呟きは兄の声ではない、魔物の、鈴のような鳴き声が歪んで言葉に押し込められていた。

高く歪んだその声は、鈴のようによく通る。

兄はドラゴンのような神獣のようなその姿を捨て、不気味なスライムに似る。

無数の目玉が上を見た、大量の口がひとつに繋がり牙が生え舌が伸びた。

そして、魔法陣が兄の姿を消した。


『エア!? どこに……』


突然消えた兄に気を取られ、トールもアルも蛇潰しの手を止める。

僕もアルの下から顔を出して兄を探してしまった、そんな僕の真上に落ちてくる蛇は鋭い牙を持っていた。

すんでのところで首を掴み、噛みつきを防ぐ。

手首に絡まる蛇、牙から滴る液体……ただの唾液だと思いたい。


突然、女の叫び声が聞こえた。

布を裂くようなその声は魔界中に響き渡り、次の瞬間蛇の動きが止まった。

蛇は糸の切れた人形のようにぐったりと項垂れ、口も目も開いたまま静止する。

異様な光景に目を奪われていると、アルの横に見覚えのある人物が降り立った。


『ん、腹二分目かな、及第点』


兄は人の姿に戻り、アルの下から僕を引きずり出した。


『……あぁ、毒かかっちゃったね。治すからじっとしてね』


兄は僕の顔を撫で、短く詠唱する。

治ったよと頭をぽんと叩き、優しく笑った。

穏やかな兄に安心しきって礼を述べようとしたところで、また女の絶叫が聞こえた。


『最っ低! もうやだ! なんなの!? だーりん、早く治してよ! だーりんったらぁ!』


体の右半分を歪に齧られ、血を吹き出しながら不満を叫んでいた彼女を抱き締めたのはサタンだ。


『リリス、落ち着け! 大人しくしろ。治せん』


『早くしてよ!』


『今やってる!』


サタンが手をかざすと、欠けた部位が少しずつ再生されていく。

サタンは治癒の術を使っている訳ではない、魔力によって新しく作り直しているのだ。

一からやり直すのだ、時間もかかる。


『アイツ、あの、気持ち悪い奴! ぶにょっとしてて、どろっとしてて、大っきい口の奴!』


リリスの人差し指が兄に向けられる。


『今は人型になってる! 私を食べたの! ねぇ……だーりん? 分かってるわよね?』


『勿論、至上の苦痛を与えてやるさ』


破れたドレスすらも元に戻る頃、僕達を閉じ込めていた焔が消える。

それ同時にサタンが僕達の前に降り立った。

温和な笑みを浮かべ、紳士的な挨拶を述べた。


『……前に出ろ』


その瞳は怒りに満ちていた。

まだ口は貼り付けられた笑みのまま、腕も上品に揃えられたまま。

不釣り合いな瞳と、口調、声。


『余の妻を傷つけた罪は重いぞ? 隠匿も誤魔化しも罪の重さを増すだけだ。もう一度言うぞ? 前に出ろ。出ないなら、全員が罪人だ』


全員。

その言葉を聞き、兄が動いた。

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