第209話 不安定

液状化した呪、それは竜の意思で自在に動く。

『憤怒の呪』は竜の怒りと憎しみを増幅させ、魂を繋ぎ止めていた。


トールはそんな有様の竜を憐憫など欠片もなく眺め、特徴を記憶する。

自らの素晴らしさを、神たる所以をエアに見せつけるためには正確な報告が必要。だから観察しているだけ。


竜はそんな不躾な視線に怒りを見せた。

押し寄せる黒い水、トールは焦ることなく得物を振るう。

振るわれた柄の短いハンマーは、稲光を放ちながら呪を吹き飛ばす。


『竜の死骸、超上級悪魔の呪、でいいのか……?』


風圧で揺らいだ竜の隙を無自覚について、トールはエアの元へ戻った。


『何かわかった?』


『ああ、えっと……竜に、呪……だ』


『は?』


『だから、竜と呪』


正確な報告をするつもりが、観察能力と記憶力の欠けた彼には不可能だったようだ。

まぁ、「欠けている」というよりは「必要ない、興味がない」の方が近いのかもしれないが。


『意味分かんないんだけど、呪われた竜なの? 呪いを吐き出してる竜なの?』


『……アイツに付き添いを頼めばよかった』


『はぁ!? ねぇ、何なの? 君が何を言いたいのか全然分かんないんだけど!? 何? 僕が神様じゃないからなのかなぁ!?』


『エア、怒らないでくれ』


『君がちゃんとしてくれないからだろ!? あぁ、もう、分かってんの? 僕の弟は人間なの! ちょっとしたことで死んじゃうんだからね!? 天使が近くにいるなら、魂盗られちゃって蘇生できないし……!』


『エア……いや、だから、竜と呪なんだ。それは間違いないし、俺の敵ではない』


『そっかそっかぁ、君、強いもんねぇ? そもそも偵察なんて要らないのかぁー……なんてね。敵じゃないなら早く倒してきて、そしたら許したげる』


『ああ、もちろ……ん?』


竜に対し背を向けていたトールは勿論、竜の方を向いていたはずのエアも気がつかなかった。

竜がすぐそこに来ていたことに。


『こいつ、僕がヘルに操らせた……な、何してんの! 早く倒して!』


『承った、少し下がれ』


トールはハンマーを天高く掲げ──勢いよく振り下ろした。

雲を散らす破裂音、地を抉る衝撃波、散り散りに消える竜。


『ん、やるじゃん』


『当然だ、戦神だぞ』


『はいはい、分かったよ神様』


『……トールだ、覚えていないのか? 名前で呼んでくれ』


瓦礫まで吹き飛び、粘土質の湿った土が露出している。

エアはそこに降り、再び魔法陣を描き宙に浮かべた。


『ヘル、ヘル……僕の弟……示せ、寄越せ、映し出せ!』


魔法陣は矢印を表し、その矢印は下を示した。

だが、下向きの矢印をには魔法用の文字で注意書きが成されていた。


『は? 何これ、Misserfolg!? 人界に存在しないぃ!? んっだよこれ! ふざけんな!』


『お、おい……エア?』


エアの表情と口調の豹変に、困惑するトール。

当然だ、長く時を共に過ごした彼の弟ですらこの豹変には逐一たじろぐ。


『人界じゃなきゃ、どこだってんだよ! そこへの行き方を教えろ、いや、あの玩具を連れて来いよ! 今! ここに! すぐに!』


自分で描いた魔法陣を自分で破壊し、苛立ち紛れに炎を放った。


『エア、矢印が正しいなら、人界の下に位置する世界は魔界か地獄だ。俺はあまり詳しくないが……何か、魔物でも捕まえて聞き出すか?』


トールの推理は当たっている、ヘルは魔界にいる。

魔界に立ち入る方法など、悪魔に招待される以外に人間には存在しない。

人間を魔界に立ち入らせられるほど上級の悪魔が辺りを彷徨いているとは考えにくいが、トールの案は理にかなっている。

ただ、今のエアにはその案を聞き、質を確かめるほどの余裕がなかった。


『ふ、ふふ……ははは……』


『エア、炎を消せ、暑い』


『やだぁ、やだ、嫌だ……ヘル、返せよぉ……僕のなのに、なんで、いっつも……』


怒り狂い炎を放ち、笑い出したかと思えば泣き出す。

ぱちぱち、ゆらゆらと燃える炎に少しずつ包まれていく。


『暑い』


トールは地面を穿ち、エアを蹴落とし自分も飛び降りる。

少しばかり涼しくはなるが、狭く暗い穴の中は酷く居心地が悪い。


『ヘルは僕の玩具なんだよ! なのに、いっつもいっつも、僕の手を勝手に離れて!』


トールの胸倉を掴み、泣きながら叫んだ。


『僕の、僕の……僕の玩具、僕の所有物。僕が最初に手に入れた物なのに! ねぇ、君、神様なんでしょ? だったら何でもできるよねぇ! ヘルを連れて来てよ……ほら、早く!』


『今までユグドラシルの結界から出たことがなくて……あまり、こちらのことには詳しくない。居場所が分かればそうするが、分からないのではやりようがない』


胸倉を掴まれ、揺さぶられてもトールは全く表情を変えない。

声色からも感情は伺えない。

ただ淡々と、事実を並べるのみ。


トールはふと横を──土壁を見て、染み出してくる液体に気がついた。

黒く、禍々しい水。

呪の凝縮体。


竜の怒りの矛先は、竜が最も恨んでいるのは、エアだ。

竜が生前、唯一主と認めた少年の兄……主を、虐げた者。

そう易々と逃がす訳がない。

地の底へ、魔界の最深部へ、落としてやる。と、竜は再び魔界への扉を開いた。


『落ちる? なら……ちょうどいい、かな?』


『そうだな。よし、着地は任せろ』


竜は自ら主を魔界に落としたことにまだ気がついていなかった。

天使だけを送るつもりが、手違いで巻き込んでしまったのだ。

そして竜はまた、思い描いた未来を作るには間違った行動をとった。

竜は主から遠ざけるつもりでエアを落とす、逆に近づけてしまうとも知らず。



薄暗い魔界の底に目を眩ませる閃光が走る。

一通り放電し、トールはふぅと息をつく。

落ちてきたジェル状の物体を受け止め、優しく下ろす。


『エア、溶けてるぞ』


トールが逐一名を呼ぶのは単なる癖や呼びかけではない、ちゃんと理由がある。

人間をやめ、不定形なモノに成り果てたエアはよく溶けて自らの姿を失う。

その際に記憶や感情まで溶け出してしまわないように、エアオーベルング・ルーラーという個人を印象付けるために何度も呼んでいるのだ。


『エア、エア……? 大丈夫か、雷が必要か』


『……り・リ…………ら、ナィ』


『要らない? そうか。なら早く戻れ』


鈴の音の響かせながら、エアはゆっくりと人型を取り戻す。


『……ちょっと、衝撃が強くてね。呪も結構強力だし、魔界の底で魔力濃度も地上と全く違うし……原形保てなくて』


頭や体、重要な部分は肉に戻るが、手足など末端は半透明のままだ。

かろうじて五つに分かれた指先から滴る液体は、地に落ちては虹色の輝きを失う。


『テ……っとと、危ない。気を抜くと意識も飛んじゃう』


『その時は弱めの雷を落としてやる』


『要らない。にしても本当に調子悪いな、お腹空いた』


『桃の缶詰ならあるぞ。あれ、焦げてる』


少し俯いたエアの頭に大きな目が生える、背からは触手が生え、服を破いた。

あらわになった肌には牙の生えた口がいくつも出来ていた。


『エア、器官の数を間違えているぞ』


トールはさして気にせずに、黒焦げた缶詰を開けた。

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