第174話 隠して、愛して、傍にいて

宿に帰る頃には外は薄暗くなっていた。

店主に心配されるのも鬱陶しくて、階段も一人で這って上がった。

それなりに腕が鍛えられたのではないかと期待している。


「……アル、いないな。どこ行ったんだろ」


シャワーを浴びて着替えを終えて、ベッドに倒れ込む。

簡素な部屋を見回しても狼の姿はない、どこにも居ない。


新たな主でも探しているのかもしれないな、なんて。

「望む限りは傍に居る」か、信用出来るのかな。

「果てるまで傍に居る」ねぇ、嫌になったら殺されるのかな? それもいいかもしれない。


前までなら……そう、魔物使いであったのなら、アルが他の者を主としたいと言ったのなら、力で従わせて傍に置くことも出来るのに。

無理矢理「愛している」と言わせることだって出来るのに。

今はもう何も出来ない。


がたんと窓が開いて、アルがするりと部屋に入る。

ベッドの上の僕には目もくれずにシャワー室に。

銀と黒の影が遠く見えた。


しばらく水音を聞いていて、ふと思った。

アルが足首の腫れを見たら、全身の擦り傷を見たら、何て言うだろう。

心配してくれるかな? それともこの程度なら何も言わないかな?

それなら……もっと、酷い傷にすれば良い。

見た目にも分かるような痛々しい傷に。


僕はベッド脇に置かれたランプを手に取った。

重たい。

ぼうっと見つめる、温かい光に目が痛む。

僕はそれを頭の上まで振り上げて、左足首を狙って落とした。

大きな音がしたが、アルが出てくる気配はない。

丁度良いとばかりに割れたランプの破片を拾う。


ベッドの下に壊れたランプを隠す、自傷したとは知られたくない。

破片で少し指を切った、それから思いついて足首にまた傷をつけた。

感覚がないので加減が分からない、見た目で判断するしかない。

腫れ上がったその頂点が裂け、変色した青と滲み出た赤が白い肌によく映えた。


水音が止まって、僕は急いで残りの欠片を隠した。

アルは毛と翼を乾かすのに時間がかかる、もうしばらくは大丈夫だろう。

何も無かったフリをして寝ておこう。




眠くもないのに目を閉じていると、ベッドが揺れた。

アルが飛び乗ってきたのだ、まだ湿ったままの銀毛は柔らかく心地良い。

目を閉じたまま手を伸ばし、そっと撫でる。

きゅうん、と甘えたような声が聞こえた。


懐かしいな、なんて思った。


『……ヘル? 起きているのか』


「ん、一応」


『なら聞こう。この傷はなんだ? 昨日までは無かったぞ』


ああ、まずい。

怪我の理由を考えていなかった、自分でつけたなんて言いたくない。

衝動的な自分が、さらに嫌いになる。


「あー……何でもない、よ」


アルとの会話で長い沈黙は危険だ、だからと言ってこんな返事も良くないのだが。


『何でもない? そんな言い訳が通じると思ったのか』


「……思ってなかった。ううん、何も考えてなかった」


『そうか。正直なことは良いことだな。怪我にも正直になればさらに良い』


正直に……か。

勝手に一人で外に出て、転んで捻って悪化させた。

そして帰って来てから心配されたいなんてふざけた理由で自傷した。

正直は美徳なんて、質問する側の方便でしかない。


『先程、何かを壊すような音が聞こえた』


ああ、まずいな。バレてる。


『そういえば……ランプが無くなっているな』


アルらしくもなく回りくどい、じわじわと追い詰められる感覚は酷く不快だ。


『……血の匂いがベッドの下からもするな』


アルの尾がベッドの下に伸びる、黒蛇がランプの残骸を咥えて戻ってくる。


『何をしていた? ヘル、正直に答えろ』


「……明かりを、その、点けようとして、落としちゃって」


『落として割ったのか、なら何故隠した?』


「あ……えっと、その、怖くなっちゃって」


『怖い? 何がだ』


「……物を、壊したら怒るでしょ? 怒ったら……痛いことするでしょ? アルがそんなことしないって分かってるよ? でも、でも……クセなんだよ、怖いんだ」


壊した物を隠そうとする癖があるのは本当だ。

怒られるのが怖くて、見つかった時のことを考えずに隠そうとする。

幼い頃からの悪い癖だ。


『……そうか、分かった』


騙せた? まだ分からない、まだ気を緩めるな。


『一度落としただけで腫れ上がるとは思えんがな』


「……腫れてるのは別。こっちは歩こうとして転んだからだよ」


『歩いたのか? 何故』


「シャワー、浴びたくなって」


『……室内で転んだんだな?』


部屋に入る前に払ったとはいえ、アルの嗅覚を誤魔化せるほどに十分とは言えない。

ズボンを撫でれば、まだサラサラと砂の感触がする。

それでも僕は、嘘を通した。


「うん」


『分かった』


アルはそう言うと部屋を出ていった。

本当に騙されたかどうかは分からないが、とりあえず胸を撫で下ろす、やらなければ良かったと無駄な後悔をした。

安直過ぎた、酷い怪我をすれば心配してくれるだろうなんて、昼間も傍に居てくれるだろうなんて、馬鹿なことを考えたものだ。


自責の念が一気に押し寄せる、そもそも外に出るべきではなかったのだ。

部屋で大人しく寝ていれば良かった。


アルが救急箱を咥えて戻ってきた。

器用に尾で傷口にめり込んだ破片を取り除き、消毒液を塗った。

感覚があれば痛いと泣き叫んだだろうが、感覚がないので手当の様子をじっと眺めた。

くるくると包帯が巻かれていくのは見ていると少し面白い、痛々しい傷痕が白い布に隠されていくのだ。

醜い僕を、美しいアルが隠してくれる。

僕の醜さを全て知っているのは、これでアルだけになる。

仄暗い悦びを覚え、同時に気持ち悪い自分を蔑む。


『……これでいいか。痛みはないか?』


「平気」


『他に傷はないな』


「うん」


全身の擦り傷は手当てが必要な程ではないし、指先の傷は血が止まってからはどこにあるのかも分からなくなった。

だが痛みは確かにある、左足とは違って。


破片で切ったのはどこだったかなと指先を眺めていると、アルが頭を胸に擦り付けてきた。


「アル? どうかしたの?」


『……見ていない間に、怪我をするとはな』


ぐり、と動かして体を足の間にねじ込む。

黒蛇がじっと包帯を見つめている。


『本当に目が離せないな、貴方は』


「ね、どこ行ってたの?」


『貴方の兄を探しているのだ、眼だけでなく足も頼んだ方が良さそうだな』


「……にいさまを? そうだったんだ」


『まぁ明日はここに居る、貴方が心配だ。』


「本当に……!? やったぁ!」


『その分長引くんだぞ、分かっているのか?』


「アルが居てくれるなら、僕もう足も目もいらないよ!」


『馬鹿を言うな、全く……手のかかる』


そう言いながらもアルの声はどこか嬉しそうだ。

僕の目論見も上手くいった、あぁもう本気で思う、足も目も要らない。

アルが居てくれるなら、本当に傍に居てくれるのなら、もう何も要らない。


本当に……なら、ね。

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