第173話 知らない感情

ミーアの家はこの国では一般的な大きさの一軒家、大きさから見て三から四人家族用だ。

だが家には誰も居らず、ミーアが両親は出稼ぎ中だと言った。


「飲み物持ってくるから適当に雑誌か新聞でも読んで待っててにゃん」


生返事をして部屋を見回す、当然といえば当然だが拷問器具のような者は見当たらない。

淡い桃色のソファに座らされた、拘束はない。

……僕の考えすぎか。

純粋な好意からの行動を曲解しては無礼だろう、そう自分に言い聞かせ戒める。


「おまたせにゃー」


「あ、ありがとう」


手渡されたのは冷たいオレンジジュース、四角い氷が浮かんでいる。

結露した透明のコップが何故か懐かしく思えた。


「……ヘルさん、さっきコルネイユちゃんが言ってたこと、嘘じゃにゃいのにゃ」


「へ? あ、ああ、そうなんだ」


さっき言っていたこと……とは、何だろう。

何か特別なことを言っていたかな。

「美少女は排便しない」……違うな、これだけは違う気がする。

必死に記憶の棚を漁るが、何も出てこない。

一心不乱にヤスリがけをして外界を絶っていたからなのか。


「……お返事、聞かせてもらってもいいにゃ?」


「へ、返事? 返事……って、何の?」


返事が必要、となると質問があったのか。

何も覚えていない。

ミーアの紅潮した顔に潤んだ瞳、僅かに俯いた仕草から推測……出来ないな、人の考えを汲み取るのは苦手だ。

ミーアがもう一度言ってくれるのを待った方が良さそうだ。


「ヘルさんのこと、好きだって……言ったことにゃ。お返事欲しいのにゃ、ヘルさんはわたしのことどう思ってるにゃ?」


「………好き? 僕を? 君が?」


「にゃー……にゃんども言うの嫌にゃ、恥ずかしいにゃ」


「あ、あぁ、ごめん」


予想の遥か上の質問だった、思考回路が完全に止まっている。

そんな話を聞いた覚えは……覚えは、あるな。

その時は適当に「人としてだろう」とか考えていたな。

だがミーアの表情を見るにその推測はハズレだ。


「………ヘルさん?」


硬直した僕を不審に思い、ミーアが僕の顔を覗き込む。

何か言わなければと思うほどに何も思いつかなくなる、それで余計焦って何か言わなければと思って……負の連鎖。


僕に返答など思いつくはずもないだろう。

魔物使いの魔力の影響で、悪魔に好かれることは多々あった。

だがそれは食欲に近いもので、愛情………ましてや恋愛感情とは程遠いものだったのだ。

さらに言えば僕は誰かに恋をしたこともない。


何が言いたいか分からないって? 僕もだ。

まぁつまり、僕は色恋沙汰に疎いという訳で、今とても混乱していると。

頭の中は大騒ぎだが、実際の僕は静かなものだ。

身動き一つしていない。


「何で……?」


「にゃ?」


「何で、僕が好きなの?」


最も大きな疑問が発言しようという思考もなく勝手に口から出ていった。

かなり失礼なことを言ってしまったのではないか?


「にゃんでって……言われても、好きだから好きのにゃ。それじゃダメにゃの?」


「ダメ……だよ、ダメに決まってるだろ、おかしいよ、そんなの」


「ヘルさん、私のこと嫌い?」


「違う! 違う…そんなんじゃなくて、おかしいって言ってるんだよ。僕が好かれるなんておかしいんだよ! 今の僕は、魔物使いですらないのに、本当に無価値なのに! なんでそんなの好きになるんだよ、おかしいだろ!」


いつまで経っても慣れない大声は、何度も裏返って気持ちの悪いものになる。


「ありえない、僕のどこに好きになれるところがあるって言うの? 無いよね、ある訳ない。それに会ったばかりじゃないか、何が「好き」だよ、何も知らないくせに……!」


「初めて見た時から好きににゃってたのにゃ、どことかじゃにゃいのにゃ」


「見た時から? 何、それ。見た目? 違うよね、こんな見るからに陰気で気持ち悪いの見た目で好きになるような奴いないよね」


「ちょっとお話して、もっと好きににゃったにゃ」


「話……なんて、嫌いになることしか言ってないよ、僕。

挙動不審で、失礼で、気持ち悪くて、急にぶっ倒れて、そんな僕の何が良いのさ」


今もそうだ、嫌いになるのが当然の言動。

鬱陶しくて気味の悪い男。

魔物使いですらなくて、足もろくに動かなくて、本当に何も出来ない無価値な人間。


「……今、分かったにゃ。そういうところが好きにゃのにゃ」


「は? 何……言ってんの、君」


「放っておけにゃいにゃ」


「…………意味分かんない」


「分かんにゃくても良いにゃ、私は分かったにゃ」


「趣味悪いよ、君。めちゃくちゃ悪い」


自分を抱き締めるように蹲った、瞼の裏が熱くなってきた、本当に気持ち悪い。

ありえないことが起こった時は目を覆いたくなる、眠ってしまいたくなる。

目を背けている間に日常に戻れと願うために。


「………帰る」


「もう帰るにゃ? ゆっくりしていって良いにゃ、まだ家族帰ってこにゃいにゃ」


「帰る、から」


「にゃー……にゃら、送っていくにゃ」


「いい、一人で帰る」


「にゃ、でも……」


「いいって言ってるだろ! ほっといてよ!」


肘掛けに手をついて、無理矢理立ち上がる。

怒鳴ったあと特有の喉の痛み、心臓が冷える感覚。

何もかもが呼吸を乱し、足の感覚を消した。


左足がいつ地面を踏むのか、どう動くのか、何も分からない。

感覚がないから足を捻って転んでも、倒れて打ったところが痛いだけだ。

これまで何度も捻ったせいで足首が腫れ上がっていても、見た目が悪いだけで痛くはない。


「一人でなんて無理にゃ、帰るにゃらちゃんと送るから、ほら、肩掴んでにゃ」


「一人で帰れる」


「……足、見たにゃ? 腫れてるにゃ、また転んだらもっと酷くにゃるにゃ。本当に歩けにゃくにゃっちゃうにゃ」


「なら這いずっていくから、ほっといて」


何故こんなにも助けを拒絶するのか、自分でもよく分からない。

今までなら足にすがってでも助けを求めたくせに。

きっと嫌なんだろう、憐れまれていると認識してしまうから。

可哀想だって思われているのが分かるようになったから。

ましてやミーアは、僕のことが好きだなんて訳の分からないことを言う人だ。

好きだと言われた事が嫌な訳じゃない、ミーアが嫌いな訳でもない。

ただ、分からないだけ。

怖いんだ、意図の分からない感情が。

打算のない純粋な好意が、気持ち悪い。


「にゃー……そんにゃに、私が嫌いにゃのにゃ?」


「……そういう訳じゃないけど、一人で大丈夫だから」


「にゃらせめて杖を貸すから、使って欲しいにゃ」


「……杖」


渡された木彫りの杖、確かにコレを使えば安定するだろう。

だが、憐れみが目に見えるのは嫌だ。

断ればミーアは無理矢理僕を抱きかかえて宿に運ぶだろう、ここに来た時のように。

そういえば……何故、ここに来た時は拒絶しなかったのだろうか。

いや、理由が分からないのは今の方だ、何故こんなにも拒絶しているのだろうか。

好きだと言われたから?

訳の分からない人だと、分かったから?


「じゃあ、借りとく。ありがと」


「にゃ……また、明日にゃ」


杖を借りるのと横抱きにされるのなら、杖を借りた方がマシだ。


けれどもやはり嫌だった。

だからミーアの家を出てすぐに、杖を家の壁に立てかけて、宿まで一人で歩いた。

いくら慎重に歩いたところで転んでしまうのには変わりない。

宿に帰る頃には砂まみれで、足首の腫れも酷くなっていた。

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