第111話 偽られたのは
僕は寝室を抜け出し庭にいた、草木も眠り街の灯りもなく、真っ暗闇の中『黒』を待っていた。
何がどこにあるのかも見えない、自分がどこに立っているのかも分からない。
……僕は何故ここに居るのだろうか、『黒』がここに来るとどうして知っているのだろうか。
誰かのものかも分からない情報が僕の頭になだれ込む。
暗闇は感覚を鋭敏にし、恐怖を煽る。
柔らかな風も、夜を楽しむ虫も、今の僕には悪魔よりも恐ろしい化け物だ。
ギィー、と錆びついた扉の開く音。
倉庫の扉が開く音──倉庫? そんなものあったか?
僕の困惑を嘲笑うように、『黒』はそこにいた。
「ねぇ、『黒』。いるんだろ?」
僕は話しかけたことを後悔した。
鋭くなった鼻が血の匂いを嗅いだから、その匂いが倉庫から漂っていると分かったから。
『黒』が何かを殺していると察したから。
『起きてたの? 悪い子』
「く、くろ…だよね? 何、この匂い」
『……材料』
真っ暗闇の中歩くのは、綱渡りをするような気分だ。
どこに何があるのか、何がいるのかも分からない。
そんな僕の恐怖を感じ取ったのだろうか、『黒』は僕を抱き寄せた。
温かさと柔らかさは僕の恐怖を和らげる、だがそれと同時に血の匂いも濃くなった。
「血……血の、匂いがする。『黒』のじゃないよね?」
『敏感だね、君は』
「ねぇ、何してるの? 材料って何なの?」
『ダメだよ』
腰に腕が回され、僕は簡単に抱き上げられた。
そのまま寝室まで運ばれ、小さなライトスタンドでようやく『黒』の姿を見た。
『黒』自身には傷もなく、血もついていない。
それなのに血の匂いがする。
『ねぇ、君はあの狼に会いたいんだよね』
分かりきったことを聞く、当然のことを。
聞かなくたって分かるくせに。
『例えば、例えばの話だよ? 恋人と知らない人がいて、二人とも死にかけていて。
どちらかしか助けられないなら……恋人を選ぶだろう? 知らない人なんてどうでもいいよね。恋人じゃなかったとしても、知ってる人を助けるよね?』
あまり肯定したくはない例え話だ。
だが、否定できる人は少ないだろう。
『好きな人じゃなくとも知り合いを選ぶ、それは自分のためだ。自分の心のためだ。見知った人間を見殺しにすることにより心が傷つくのを避けるためだ。自分が一番可愛いんだよ、結局は皆そうさ。自分以外の何がどうなろうと知ったこっちゃない』
この話は……否定、したい。
僕は自分本位な人間だと認めたくない、それも勝手なことだろうか。
『ねぇ、君は。君は……ううん、何でもない。君は優しいから、この話をすればきっと我慢してしまうよね。願う権利があるのに、それを捨ててしまう。不幸になる義務なんてないのに、そうだと信じ込んでしまう。幸福は悪だと思い込む、君は自分自身を貶める』
ベッドに寝かされた、今までなかったはずの睡魔に襲われる。
眠くなんてないのに、眠くてしかたがない。
『おやすみ………ヘル。何も知らずに眠るといい。君にはそれが似合ってる』
『黒』の声が遠い、水の中にいるように。
名前を呼んでくれたような、気のせいかな。
……瞼を閉じるとノイズは止んだ。
真っ黒になった世界の端に、燃え上がるような目を見つけた。
あの目は、誰のものだったかな。
目が覚めると、昨晩の血の匂いなど嘘のように爽やかな朝日に出迎えられた。
セツナは地下室にこもりきりで、冷めた朝食をひとりで食べた。
『やぁヘル君、こんにちは』
朝食の片付けをしていた僕の前に、真っ黒いローブを着た男が立っていた。
音もなく気配もなく、話しかけられるまでそこにいることに気がつかなかった。
フードの下に顔は見えない、黒以外の色がない。
「……こんにちは」
人間ではないだろう、天使や悪魔でもない。
今まで会った誰とも違う不気味な雰囲気。
敵意は感じないが、それがまた恐ろしい。
『キミに教えてあげたいことと、プレゼントがある』
「ありがとうございます。でも、誰かも分からない人からは受け取れません」
『見かけによらず良い子だね。ボクは『黒』の古い知り合いさ、怪しい者じゃないよ』
「……『黒』の?」
『そ、『黒』という呼び名もボクがあげたもの。人に何かをあげるのが好きなんだ』
黒いローブが目の前で揺れる。
人が入っているとは思えない動き、顔も手も見えない、実体があるのかも分からない。
嘘をついているとも思えないが、信用するには至らない。
『キミの狼を作るのに必要な材料を教えてあげる、『黒』がキミのために何をしてるのか教えてあげる』
信用は出来ないが、知りたいという欲望は抑えられない。
僕の意識と関係なく僕の首は縦に揺れた。
『まず賢者の石について、何故賢者の石と呼ばれるのか、賢者とは何なのか。答えは簡単、賢者は材料だよ。賢者を集めて殺して凝縮して、その知識と魔力を石に込めて、そうして出来上がり。あ、賢者っていうのは錬金術師のことだよ』
さも当然のように並べられた言葉、それが真実であろうとなかろうと、サラリと言ってのけたこの男はまともではない。
『だからキミの狼を作るのには、大量の魔物の死が必要なんだ。『黒』はそれをやってるんだよ。君のためにたくさんの魔物を殺してるんだよ』
ゆらゆら、ゆらゆら、楽しげに揺れる。
黒いローブだけが揺れる、そこに人はいない。
『キミのため、キミのため、キミのためにたくさん死ぬ。キミのためだけに、キミの我侭のために、愛されたいなんて馬鹿な願いのために。ただ生きていただけの魔物達が殺される……どう思う? ねぇ、どう思う?』
男の信じ難い言葉が、真実として頭に流れ込む。
異常なまでの罪悪感が膨れ上がる、おかしいと頭で分かっていても心が逆らえない。
男の言葉は真実、『黒』は魔物を虐殺している、僕はとても罪深い存在。
そんなわけない、違う。反対の感情も考えも何もかもが押し隠される。
「……僕は、僕が、全部悪い」
『そう! よく出来ました! 良い子だね。そんなヘル君には御褒美だ』
僕の手のひらにはいつの間にかガラスの小瓶が握られていた、中には金平糖のようにカラフルな粒が入っている。
『これを飲めば全て終わるよ。狼にも会える、『黒』も誰も彼もが幸せになれる』
「……本当?」
『ボクは嘘をつかないよ』
小瓶の中身を手のひらに零す、星のようにキラキラと輝き美しい、この美しい物を飲めば全て終わる。
ああ、なんて素晴らしい。
『ヘル!』
頬に痛みを感じて、いつの間にか閉じていた瞳を声の方へ向けた。
『黒』だ。
怯えたような表情で僕を見つめている。
『……どうしたの? 大丈夫? 何かあったの?』
「何が……って、え?」
『こんなもの触っちゃダメだよ、飲もうとするなんてもっとダメ』
僕の手には緑色の瓶が握られていた。
見覚えのない薬品……そういえば、ここはどこだ? 僕は朝食の片付けをしていて、その最中に……なんだっけ。
『劇薬だよ。ほら、棚に戻しなよ』
言われるがままに目の前の棚に瓶を置く、この部屋は何だ? 棚には大量の薬品が並べられている、こんな場所に覚えはない。
「ねぇ、ここどこ?」
『はぁ? 研究室だよ、覚えてないの? セツナに賢者の石作りを頼んだろ』
「……賢者の石、そうだ、賢者の石!」
『うわっ、何いきなり』
「ねぇ、賢者の石の材料ってさ、賢者なんだよね、人なんだよね、ダメだよそんな物作っちゃ!」
『何言ってんの、君』
変なものを見るような『黒』の目が、段々と可哀想なものを見る目に変わる。
『賢者の石は優れた錬金術師が作る万能石、道端の石ころだってキャベツの芯だって賢者の石になるよ。式さえ正しければね』
「……え? だって」
『あらゆる物質にはそれを形作る原子があってね、錬金術はそれを組み替えて卑金属を貴金属に変えようって編み出された術なんだよ。核融合の上位互換って思ってもらってもいいよ。
材料に凝ってたらそれはもう錬金術じゃないね、価値を上げようって言ってんのにさ。石ひとつ作るのに人を使ってどうすんのさ。割に合わないだろ』
棚を漁りながら『黒』は淡々と説明した。
そして奥の戸棚から古びたノートを引っ張り出す。
『あった、賢者の石のレシピ。ほら帰るよ』
手を引かれて研究室を後にした。
『黒』が言うには僕達は刹那に頼まれてレシピノートを探していたのだと。
僕は何も覚えていない、それどころか全く違う記憶がある。
もう少し落ち着いたら、『黒』に相談しなければ。
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