第94話 隠れ屋敷


数分なのか、それとも数時間なのかも分からない。

女が再び現れるまで待っていた時間は酷い苦痛で、本来の時の流れを感じられなかったのだ。

匂いに感触、見た目や軋む音。

この屋敷は五感すべてに訴えかけてくる、人の居るべき場所ではないと。


僕達の前に再び現れた女は美しく着飾り、その顔もさらしていた。

不気味なまでに整い、薄化粧のされた顔。

そして何よりも目を引くのは額に生えた黒い角だ。


『やっぱり……人じゃないんだ?』


『あら、驚かれへんのやね』


「見慣れてますから。あの、お名前を伺っても? 僕はヘルです、こっちは『黒』」


茨木いばらき申します……まぁ、適当に』


する、と赤い豪奢を極めた着物の右袖が僕の前を揺れる。

茨木は僕達を先導し、大広間へ。

並んだ膳は四つ、あの酒樽は最奥に置かれていた。

料理には肉や魚は使われていない、山菜だろうか。

そっと『黒』が僕の肩に顎を載せて囁いた。


『ね、ここの料理とか食べたくないんだけど。なんか、こう、病気になりそう』


その意見には同意だが、それを茨木に聞かれるわけにはいかない。

茨木に言われるがままに座り、覚悟を決めて箸を握った。

味は……まぁ、普通だ。

古くなっているわけでもない、妙な調味料を使っているわけでもない。

ここまで普通だと逆に勘ぐってしまう。


『あら、旦那様。おはようございます』


『あぁ……こいつら誰や?』


破れた襖が乱暴に開かれ、燃えるような赤髪の男が欠伸をしながら入ってきた。


狂気を孕んだ黄金の瞳に捉えられ、箸が止まる。

男の額には茨木以上に立派な角が生えていた、真っ直ぐな黒い角は美しいと言えるだろう。


だが僕は自分と違うモノに原始的な恐怖を抱いていた、今まではどんな異形のモノだろうともそういった類の恐怖は感じなかったはずだ。


なら、何故。

考えられる原因は二つ。

僕の男に対する恐怖は見た目ではなく、それ以上の決定的な違いによるもの。

隣にアルがいないせいで異形のモノへの耐性が下がってしまっていた。


そんなところか、後者ならば実質的な危険はないのだが。

この恐怖が杞憂ならば良いと考えながら、僕は自己紹介を手短に済ませた。


『玉藻の贈りもん、か。なんや裏ありそうや思わんか』


『貴方様ほどの鬼、手ぇ組みたい言わはっても不思議ちゃう思います』


『……酒、なぁ』


男は訝しげに酒樽を見つめる、まるで毒が入っているとでも言いたげに。

素手で酒樽を開け、手のひらほどの盃に透明な酒を掬った。


『……お前、先飲めや』


「え? 僕、ですか?」


筋肉質な腕が伸ばされ、目の前で酒が波紋を作る。


「でも、僕まだお酒飲めなくて」


未成年を盾に断ろうとする。


『いいから飲め。お前が持ってきたんやろ、お前が毒味せえ』


「えっと……く、『黒』?」


『君の年でも飲酒OKな国はあるよ、酔っ払ったら面倒見てあげるから』


『黒』の答えは僕の望んでいたものと反対のものだ「僕が飲む」と言って欲しかった。

それにしても毒味とは……疑り深いと言うべきか、御前様は信用されていないと言うべきか。

何を言っても考えても解決しない、飲むしかない。


盃を受け取り、一気に飲み干す。

喉が焼けるように痛い、まさか本当に毒が入っていたのか。

目が回り、隣の『黒』にもたれかかった。


『っと、大丈夫?』


『毒……やないな、酒弱いんや。そんならええわ』


一杯分損をした、と男は席に戻った。

『黒』に背を撫でられ、水を飲まされる。

頭がガンガンと痛む、『黒』が僕を心配する声も頭痛に変わった。

視界の歪みが少しずつ和らいできた、部屋の隅に小鬼が見えるのは幻覚だろうか。


『あ、見てほら小鬼。可愛くはないね』


幻覚ではないらしい、小鬼は酒樽の裏に貼り付けられていた手紙を男に渡した。

御前様が出発直前に貼り付けたものだ、険しい山道ですっかり忘れていた。


男は手紙を開くと、途端に眉間に皺を寄せた。

酒樽から何度も酒を掬いながら手紙を読んでいく。


『あんっの女狐がっ! おい茨木!』


『どうされました? ……あぁ、これはこれは』


いつの間にか茨木も酒を飲んでいた、少し顔を赤らめながら手紙を覗いた。

袖で口元を隠し、わざとらしく驚いたような顔をする。


『何かあったの?』


『黒』が言うが早いか、手紙がこちらに投げ渡された。

男は不機嫌に酒を浴びるように飲み、茨木はその様子を楽しげに眺めていた。


『黒』の肩に頭を寄せて手紙を読む。

書かれていたのはあの腕のことだ、御前様の部屋に置いてあったあの鬼の腕。

アレは確か……右腕、だったような。


手紙を読むふりをしながら目だけで茨木を見た、彼女は先程から左手しか使っていない。

あの酒屋で見た女もそうだった、それに酒樽を軽々と持ち上げていた。

僕の中で何かが繋がった。


「ねぇ、これって』


『え? 気持ち悪くて吐きそう? ちょっと外の空気吸おうか!』


違うと否定する間もなく『黒』は僕の口を押さえ、無理矢理外に連れ出される。

縁側にまで引きずり出されたところで解放された。


「どういうつもり?」


『聞かれるわけにはいかないんだよ、腕があるって知ってるとなると面倒だろ? 何にも知らない、酒を届けさせられただけ、そうすっとぼけて帰ろうよ』


「……御前様は、何をするつもりなのかな」


『神便鬼毒酒って知ってる? 僕もさっき気がついたんだよ。そう、君が飲まされた時。

アレを僕が飲む訳にはいかないんだよね、ほら、僕は鬼でもある訳だから』


屋敷の中から怒声が響く、地震でもないのに家がガタガタと揺れ、柱が軋み瓦が落ちた。

パキン、と何かが割れるような音。

振り返れば塀の上の何も無い空間がガラスのように割れている、割れた向こう側には青い空が広がっていた。


『成程、隠れ屋敷だった訳だ』


崩れた屋敷から赤髪の男が這い出る、聞き慣れない言葉で僕達を罵倒した。

『黒』はそんな男には目もくれずに翼を現し、僕を横抱きにして飛び立った。


「隠れ屋敷って何? それにさっきのナントカ酒ってのも」


『隠れ屋敷、隠れ里、結界によってこの世からズレた空間の呼び名。

神便鬼毒酒はその名の通り鬼とかの妖魔だけに効く毒の酒、人間には無害だから安心しなよ。

君は魔眼の持ち主だけど、まぁ……大丈夫だろう』


無意識のうちに右眼を髪で隠していた。

酒のせいでまだ頭は痛いが、毒の症状らしきものは無い。

それよりもこの高い景色のせいなのか、吐き気が増してきた。


『まだ夜には早いと思ってたんだよね、時間もズレていたんだよ。

玉藻はどういうつもりなんだろうね、僕達を鬼の屋敷に放り込むなんてさ。やっぱり早く国を出たほうがいいかな?』


珍しく真面目な話を始めた『黒』だが、僕は胃を逆流するものを抑え込むので手一杯だ。

緑が終わり街並みが見える、整然と並んだ家々に目が回る。

下を見ないように見ないようにと必死に瞼を閉ざした。

そのうちに微かな振動を感じて目を開けた、御前様の屋敷に帰ってきていたのだ。

『黒』は僕を抱いたまま真っ直ぐに御前様の元へと向かった。

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