第93話 下拵え


山、そう聞いて思い浮かべるのはどんなものだろうか。

ゴツゴツとした岩肌? 鬱蒼とした森? それとも険しいけもの道?

人それぞれだろう、ちなみに僕はなだらかな散歩道だ。

言われなければ分からないくらいの坂、道沿いの名も知らぬ小さな花、子鳥のさえずり。

そんな山を登りたかった。


『ねぇ、あとどれくらい?』


僕の現実逃避は数分で終わる。

道のない急な斜面を酒樽を押して登っているのだ、もう少し逃避させてくれてもいいものを。


「さぁ……ねっ! と、ちゃんと引っ張ってよ」


適当な意味のない答えを返そうとした時、酒樽がバランスを崩して僅かにずれ落ちた。

縄で頑丈に縛ったそれが手のひらに擦れる、見た目は地味だが拷問と言ってもいいほどの痛みだ。

上から縄を引く『黒』に配慮を求める。


『引っ張ってるよ、肘からぶちっと取れちゃいそうなくらいには』


「怖いこと言わないでよ。そうなったら僕、酒樽に潰されちゃう」


『僕の手の心配をしないなんて優しい子だねぇ』


縄をしっかりと引くために肘のあたりまで巻きつけてある『黒』の負担も相当なものだろう。

御前様も過酷な仕事を押し付けてくれたものだ。

けもの道……いや獣だろうとこんな道は通らないだろう、尖った枝で肌の露出したところが傷つくのはもちろんのこと、着物も引っかかって破れていく。

あの屋敷に戻る頃、僕はどうなっているのだろうか。

科学の国で見た人体模型を思い浮かべ、ゾッとした。


『ねぇ、あれじゃない?』


不満が滲んでいた『黒』の声に喜びが灯る。


「そうかもね、早く行こうよ」


酒樽を押し上げている僕にはチラリとしか見えないが、大きな屋敷だということは分かる。

こんな山奥にいくつも屋敷があるわけもない。

それに御前様から聞いた「私の屋敷と同じくらいの大きさのおんぼろ屋敷」という特徴にも一致する。

御前様の住む屋敷と同じくらいの大きさの、今にも崩れ去りそうな屋敷。

門に使われた木はもう腐っている。


『……酒、それにうっすらと血の匂い』


「え? 血?」


腐った門の前に立つ、一度酒樽を置いて開門を求めることにした。

『黒』の不穏な発言、それと聞き返した僕の言葉も一旦ここに置いておこう。


『すみませーん、玉藻前の使いですがー、誰かいらっしゃいますかー?』


「いないのかな?」


『そんな馬鹿な、でもそうだったら酒置いて帰ろうか』


『黒』は腐りきった木に触れるのを躊躇い、門を開けようとはしない。

僕もあの門に触れたくはない、それに『黒』の言った酒と血の匂いとやらが気になって仕方がない。

出来ることならばもう帰りたい。


『……お待たせしました』


か細い女の声が聞こえて、ギィィと嫌な音を山中に響かせて扉が開く。


『あー、こんにちは?』


現れた女は手ぬぐいを頭に被せている、まるで髪と顔を隠すように。

長い袖に左腕は隠れ、右手で神経質に手ぬぐいの位置を直していた。

酒屋で見たあの女……だろうか、よく似ている。


『玉藻前、と申されましたか?』


『うん、お酒のプレゼントだってさ』


『これはこれは……おおきに。ささ、お入りくださいな』


ゆっくりと門が完全に開く、だが僕も『黒』もどちらかが先に入るように目配せをするだけだ。

のたうつ蛇のような女の黒髪は僕の帰りたいという欲求を加速させる。


女はその真っ白な細腕に酒樽の縄を絡める。

そして軽々と酒樽を持ち上げ、僕達を先導した。

『黒』は僕にそっと耳打ちする。


『ね、こっそり帰っちゃおうか?』


「僕もそうしたいけど、ダメだよ」


『なーんか、嫌な予感がするんだよね』


ところどころ穴の空いた廊下を進む、門同様に腐った床の感触は、裸足には辛すぎた。

湿った木、先の丸いささくれ、カビのような何か。

壁や床の端には赤黒いシミがある。


『……こちらで、お待ちください』


女は酒樽を置き、右手で襖を開いた。

広い部屋だったが予想通りに畳は腐りきっている、部屋の真ん中から壁を通り天井まで何かを引きずったような赤黒いシミ。

これに比べればお化け屋敷はどれだけ快適だろう。


『……すぐに、宴の準備を致します』


必要ない、すぐに帰してくれ。

そんなふうに言えたのなら僕はもっといい人生を送れていたのだろう。

現実は聞こえるかどうかも分からない小さな返事をするだけで手一杯だ。

中身のないような女の左袖が揺れ、襖が閉じられた。

女の足音が遠ざかるのを確認して、ボソリと呟く。


「あぁ……帰りたいなぁ」


『ほーんと、なんなんだろうね、この屋敷。そこら中血まみれだし、酒臭いし、その上このボロさ。数百年やそこらじゃないと見たね』


「御前様の知り合いなら人じゃなくてもおかしくないのかな?」


『さぁね、どっちにしろ関わりたくないよ』


腐ったい草の臭いは酒と血の匂いも混じって吐き気を煽る。

靴下を通して感じる柔らかく湿った感触、畳に足が沈んでいく。

『黒』はそんな感触を嫌ってか部屋に入ってこない、ささくれ立った廊下も不快だと思うのだが。







ヘルと『黒』を部屋に通し、酒樽を抱えた女は楽しげに鼻歌を歌った。

不気味な、それでいてどこか懐かしい曲だ。

大広間の最奥に酒樽を置くと、指を鳴らした。

途端にどこからともなく醜い小鬼達が現れ、女の言葉を待った。


『あの女狐が酒と肉を送ってきはったわ、手ぇ組みたい言わはるんやろ。

ま、それはあの方の御心次第や。あんたらはなーんも考えんと宴の準備しぃな』


キィキィ、と承知の鳴き声。

腹だけが膨れた妙な見た目の小鬼達は忙しなく働き、素晴らしい早さで宴の準備が成されていく。

女は酒樽の縄を解くと大広間を後にした、腐り落ちた廊下を進み、自室らしい小部屋に入る。

割れた鏡を覗き、化粧を整えた。

手ぬぐいを投げ捨て髪をとく、その額には漆を塗ったような黒い角が生えている。

そしてみすぼらしい着物を脱ぐ……その体は美しく引き締まった男のものだった。

無い右腕を不便そうにもせず豪華な着物を着込んでいく。

すると再び、艶やかな女へと変わる。


帯を巻いた頃、襖が乱暴に開かれた。

先程の小鬼が数匹、キィキィと喚いている。


『……着替え覗くとはいい度胸やね』


女……いや、男と言うべきか? だがその見た目は並外れた美女だ。

そんな美女の冷たく赤い瞳に睨まれても、小鬼達は喚くのをやめない。


『どないしたんな、やかましい。あの方が起きてまうやろ、静かにしぃ』


たった今まで騒いでいた小鬼達が音を奪われたように黙り込む、あの方とやらが恐ろしいのだろう。

無言のままに女の袖を引く。


『なんや料理が出来へんてか、なっさけないなぁ……そろそろ覚え。ついといで、ちゃーんと教えたるわ。次に肉が手に入るまでには覚えときや』


肉……それはこれから調理する対象ではない。

これから女と小鬼達が調理するのは山菜だ、精進料理とも言えよう。

そこには一切の肉や魚は使われていない。


『気ぃ利かへん女狐やな、あーんな細っこいの送ってくるなんて。もっと肉付きのいい年頃の女送ってくるのが筋っちゅうもんやろ』


ぶつぶつと文句を言いながら女は包丁を振るう、背後では小鬼が豆腐を切り薬味を盛り付けていた。

その様は平和な調理風景だ、角や見た目に気を取られなければ。

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