第65話 頼み事


僕を押さえつけるように抱き締めた人物──少女と仮定しようか、少女に話しかける。


「だ、誰? 離してくれないかな」


『暴れないならいいよ』


少女を刺激しないように出来る限り柔らかい口調を使う。

少女の声は思っていたよりも落ち着いたもので、どこか聞き覚えがあった。


「暴れないよ、だから離して」


想像以上に簡単に拘束は解かれる。

振り返った先に居たのは黒い髪と目をした少女だ。

僕よりも少し長い髪で、目は殆ど隠れている。

微かに覗いた目は冷たく、何の感情も無い。

そんな儚く冷たい見た目の少女には見覚えがあった。


『久しぶりだね、僕の事覚えてるかな?』


「温泉の国で……えっと、天使……だったっけ」


温泉の国、洞窟に現れたあの天使だ。

悪魔の居場所を教え、弓を運ばせたなんて言っていたか。


『僕の事は『黒』でいいよ、名前なんて覚えてないし、どうせ人間なんてすぐ死ぬんだから』


「そりゃ、天使からしてみればすぐかもしれないけど」


『そんな短命の生き物に心を裂くわけにはいかないよね。仲良くなったら危ないから……でも僕の中の二人は君の事が好きみたい』


に、と感情など欠片も込められていない笑みを浮かべる。

『黒』には何も無い、僕はそう直感した。

それでもこの天使は美しく、不気味だと思っていながらも見蕩れてしまう。


「二人って?」


『僕、昔は一人だったんだけどさ、ちょっと前に分裂させられちゃって。自由奔放な子供と、ちょっと感情的な女、中でずっと言い争いしてる』


「えっと……『黒』は多重人格者、ってこと?」


『理解が早くて助かるよ。その認識で構わない』


「君が主人格?」


『いいや、僕は二つに分かれた内の残りカスだよ。記憶も何も無い、本当に要らないもの』


『黒』は窓辺に腰掛け、僕の手を引いた。

『黒』の腰の横に両手をつく体勢になってしまい、あまりの近さに顔を背けた。

細長い足が僕の体に絡み、『黒』は両手で僕の顔を優しく挟んだ。


「ちょっと……近いよ」


『ダメ? 僕は感情を全部渡してしまったから、彼女の感情に引っ張られてしまうんだよ』


「どういう意味?」


『他の二人の事、『白』は君が好きなんだよ。『灰』もそれに引っ張られたのと好奇心とで君を気に入ってる。だから僕はそれに引きずられて君に惹かれている』


僕を抱き締め、首元に顔を埋める。

背に回された手は冷たく、僕の焼けた肌を癒す。

何の感情もなく「惹かれている」なんて言われても、僕にはどうすればいいのか分からない。

半分無意識に『黒』の肩を抱いて、頭を撫でた。


『へぇ……? もっと照れると思ってたんだけど、案外手馴れてるんだ、モテるんだね?』


「そ、そんな事ないよ。君は……ちょっと違うから」


自分でもよくそんな言葉を吐いたなと驚いた。

でも違うんだ。

他の女の子……たとえ悪魔や天使だったとしても、こんなふうに抱きつかれたらきっと僕は照れて突き放してしまうだろう。

『黒』にはそうさせるモノが無い、狼やコウモリを抱き締めている時と似た感覚がある。

それに、何故か懐かしさを感じさせられるのだ。


『違う? まぁいいよ、そろそろ本題に入りたいな』


「本題?」


僕を押しのけて、部屋の中心で気取ったように一回りする。

僕は何故か『黒』の体温が恋しくなって、『黒』が離れた事に異常な寂しさを感じた。


『頼みがあるんだ、牢獄の国に来てくれないかな?』


「牢獄の、国?」


随分と物騒な名前だ。


『そこに気配を感じるんだ、昔に会ったあの人の』


「天使なの?」


『天使長だよ、最近会ってなくて。天界にいると思ってたんだけど、この間散歩していた時にその国に気配を感じた』


僕は無意識のうちに『黒』に歩み寄り、そっと頬を撫でた。

自分でも何をしているのか分からない、『黒』は僕の手に頭を乗せるようにして目を閉じた。


『ずっと地下に居るみたいでね、でもあの国は魔王の統治下だろう? ちょっと……気になるよね? あんな所で何してるのかなって』


「魔王、って、そんなの居るの?」


『知らなかったの? 最近力をつけた魔物が牢獄の国の王権を奪い取ったんだよ。

魔王とは言ってるけど、魔獣なのか悪魔なのかもよく分かってないんだよね。

本物でないことは確かだけど、正確に分かることは何もない』


「そこに天使長が居る……って事? 見張りとかじゃなくて?」


『あんな暴政に見張りなんて要らないよ、天使が居るならとっくに倒されてる。

あの国には天使の力を弱めるような何かが施されていて……そんな所に天使長が何もせずに居るなんておかしい。そう思わない?』


何の感情も宿していないはずの瞳に微かな不安が宿る。

僕はそれをかき消したくて、『黒』を抱き締めた。

細く柔らかい体は非常に頼りなく、庇護欲を掻き立てる。

『黒』の腕は力なく垂れたままで、瞳には僕だけが映る。

それは、自分では理由が分からないほどの悦びを与えてくれた。


「天使長について僕が調べればいいんだね?」


『頼みたいけど、別に断ってもいいよ』


「大丈夫、僕に任せてよ。解決してみせるから」


『……『白』が君を気に入るのも無理ないね、その優しさは身を滅ぼすよ』


『黒』の体温が、感触が、消える。

僕の体をすり抜けてそっと窓に近づく。

霧でも抱いていたみたいに何も残らない、少し寒くなる。

『黒』は窓を開き、そこから抜け出す。

入ってきた時もきっとああやったのだろう、『黒』は翼も出さずに宙に浮かんでいる。


「安心して『黒』、僕は怪我なんてしないで天使長って人を君の目の前に引っ張り出してみせるから」


『そう、だね。たまには信じてみるのもいいかもしれない。裏切られる事なんて考えないで、馬鹿みたいに君を待つよ』


「ねぇ、僕の名前はヘルシャフトって言うんだ、君じゃなくてヘルって呼んで欲しい」


『……裏切らないなら、考えてあげる』


『黒』の姿はふっと消える。

窓の外には何も無い、『黒』なんて居なかったかのように。

僕の白昼夢だとでも言うように砂が巻き上がり顔にぶつけられる。

窓を閉じ、カーテンも閉じた。


今度は背後を振り返っても誰もいない。

僕は顔を洗って、二人を起こさないようにベッドに潜り込んだ。

『黒』が去った寂しさをかき消すように。

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