第35話 藍本
見たことのない文字の羅列。
翼が生え尾が蛇になった狼の挿絵。
そして、魔法陣のようなナニカ。
禁書の時のように気分が悪くなる事は無かった。
本に魅入られる僕の右手に、マルコシアスの細い指が絡む。
手の形を確かめるように、指先から手首までを強く弱くなぞっていく。
『僕の本だよ。グリモワールってやつ。世界中に
「なんて書いてあるか分かりません」
『今は分からなくていい、読めなくていい。それを完全に理解出来ればこの世の中で唯一つ、僕を支配できるものとなるのだからね』
「どうしてこれを僕に?」
『言っただろう? 真の契約者だと。君は僕にとって相応しい、だからその本をあげる。その本の持ち主となっていれば、死後は必ず地獄行きさ。その時は僕が案内してあげる、帝王の座を奪おうじゃないか』
なんと答えていいものか分からない。
死んだら地獄? 地獄の帝王? どういう意味なのだろう。
何の狙いがあって僕にこの本を渡すのだろう。
何も言えなくなった僕にマルコシアスは優しく微笑む。
『まぁ、今はまだ気にしなくていい。今気にするべきなのはこのページ、そうそれ』
魔法陣らしきモノを指差す。
淡い色の桜貝のような爪に惹かれてしまう。
『この上に血を垂らして僕の名を呼べば世界中どこにだって一瞬で駆けつけてあげる。危なくなったら僕を呼びなよ、どんな相手だって石にして砕いてあげるから』
悪戯っぽい笑みを浮かべて、僕の頬を擦る。
触れられた手は氷のように冷たい。
僕の顎を持ち上げて、吐息が触れるほどに顔を近づけて囁く。
『あの天使達だって君の前から消してあげただろう?』
「……あなたは、うわっ」
続けようとした言葉は、ベッドに押し倒された衝撃ともに吹っ飛んだ。
『ちゃんと名前で呼ばないと。悪魔にとっては大切な事なんだよ?』
「え…ま、マルコシアス…さま?」
『うんうん、それでいいよ』
ようやく顔が離れる。
だが甘い残り香は鼻について離れない。
マルコシアスはベッドから降り、黒髪を揺らしながら演技じみた台詞を吐く。
『僕は本気の時は変身を解くんだよ、つまりあの天使程度ならこのままでも十分だって思ったって事』
くるん、と一回転してカルコスを指差す。
『その子の時は空を飛ばなきゃならなかったから元に戻ったけどね。威嚇で終わらせたかったし、君にも一度見せておきたかったし』
急に真剣な顔をして、僕を真っ直ぐに見つめる。
『だから、信頼してくれていいよ』
踵を返し、扉を開く。
『代償分の仕事はするからね』
いつも通りの優しい微笑みを残して扉は閉じた。
出国の日。
朝早くから荷物をまとめて、昼過ぎには定期便に乗った。
血の滲んだ左手の包帯を見つめながら、ぼうっと朝の出来事を反芻する。
花だらけの天使像の置かれた庭でスーツ姿の悪魔に別れを告げる。
『今日の分、と言いたいところだけどもう行っちゃうんだよねぇ』
「はい、お世話になりました」
『感謝致します、マルコシアス様』
『うん、ばいばい……って言いたいところだけど』
マルコシアスは僕の前に跪くような姿勢で、僕の左手に巻かれた包帯を解いていく。
『朝食の分は貰わないとね』
声を発する暇も与えず、悪魔は傷口にくちづける。
一瞬の、鋭い痛み。
ふと横を見ればアルがバツの悪そうな顔でこちらを見ていた。
今までのように傷口を舐られる事はなかった。
包帯は新しいものに代わり、額にキスを落とされる。
『じゃあねヘルシャフト君、是非呼んでね。ああ、アルギュロスも元気でね』
深々と礼をして、彼女の家を後にした。
アルは心配そうに僕の傷を見ていたが、痛みをこらえながら左手で頭を撫でるとそれをやめた。
離れていく書物の国を眺めてため息をつく。
乾燥肉を食みながらアルは不思議そうに僕の顔を覗き込む。
顔を縦に振って肉を飲み込むと、僕に静かに話しかけた。
『ヘル、どうかしたのか?』
「え、あぁ……いや、色々あったなぁって」
『そうだな』
包帯に出来た血の滲みは、何かの模様でも作っていそうだ。
月の影がウサギに見えるように狼にでも見えないかなんて考えてじっと見つめる。
『痛むのか?』
「それも……あるけどさ」
名残惜しい、あの苦痛でしかなかった時間が。
寂しい、あの甘やかな痛みが与えられないのが。
「ちょっと、ね」
『次の国についたら医者にでも行こう』
虚ろな瞳で窓の外を眺める僕を見て、アルは器用に次の国のパンフレットを捲りだした。
観光案内しか載っていないだろうに、アルは必死に病院を探している。
長い間バスに揺られて着いたのは空港だ。
大きな窓から見える空に太陽は見当たらない。
もう夜だ、少し眠くなってくる。
チケットを買いながら欠伸をする。
魔獣を連れているという事で多少手続きが長引いた。
申し訳なさそうな顔をして落ち込むアルを慰めながら飛行機に乗った。
『次の国は島国か、静かなところだといいが』
煩いところも匂いのキツいところも嫌だと話すアルを無視して、僕は小さな窓から外を眺めていた。
『ヘル、高い所は苦手だろう?』
「え? 平気だよ! すっごく楽しい!」
窓からは雲しか見えないが、それだけで十分だ。
『私の背の上では震えていただろう』
「うーん……これあんまり空飛んでる感じしなくって。体が剥き出しになってないから安心感が違うっていうか」
そう、ただただ景色を楽しめるのだ。
『……私の方が落とさない自信がある』
きゅうん、と可愛い鳴き声をあげて拗ねるアルの頭を撫でながらも、僕はやはり外から目が離せなかった。
魔法の国ではこんな乗り物はなかった。
こんな大きくて重いものが空を飛ぶなんて。
「どうやって飛んでるのかなぁ、ホウキでもないのにさ」
『それも飛ぶものではないな』
「え? ホウキって飛ぶものだよね?」
僕は飛べなかったけど、という言葉を飲み込んで疑問だけをアルに伝える。
『掃除用具だ』
「掃除……魔法でホコリを消すんだよね?」
僕は消せなかったけど、という言葉も飲み込む。
『掃くんだ』
僕は魔法を全く使えない、だから価値観は他国の人々と同じだと思っていたのだが、思いがけない常識の違いを今更実感した。
魔法の国では何も出来なかった僕も、今では空を飛んで旅をしている。
今なら、いいやアルとなら、僕は何でも出来るのだ。
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