第3話 名の盟約
手の甲に擦り寄せられる頬を心地よく感じる。
僕はアルが導くままに細い通りを歩いていた。
噴水広場を離れれば人……死体はない、店先に置かれた果物を手に取って、狼に話しかける。
「僕の他に生きてる人って……いないの?」
『貴方が目を覚ます前に見回ってみたが、一人も見ていないな』
店先のベンチに腰掛けると、アルは僕の足の間に入り込み右の太腿に顎を乗せた。
『リーダー格を討てばあのような集団は散り散りに逃げる。だが、まぁ、ご馳走を置いて帰る気は無かったようでな、連れて行っていた。何匹かはこちらに向かってきたので返り討ちにしたがな。』
「……連れて行かれる人を、助けなかったの?」
質問をしてすぐに、失敗だと後悔した。
自分を助けてもらっておいてそんな言い方はないだろうと自分を責める。
そして返事を聞いてアルとの価値観の違いに苦しむ事になったからだ。
『何故私がそんな真似をしなければならない』
「なぜって……そんなの」
『私は人に何の思い入れもない、貴方は別としてな』
「僕が魔物使いじゃなかったら……?」
『私はあの時、空を散歩していた。この国が襲われているのを眺めていただけだ。魔物の狂暴化の手がかりを探してな。
貴方の声が聞こえたのは貴方が魔物使いであるが故、そうでなければ存在にも気がつかなかっただろう』
淡々と答えるアルに空恐ろしさを感じる。だが当然の事とも思えた、魔物なのだから。
そして、僕はまた余計な質問をした。
「……君は、人を食べるの?」
『好んでは喰わん』
「食べるんだ」
『捧げられたからその分は喰った、その分の仕事もした』
アルは僕の顔を見てすぐに目を逸らした。僕は今どんな顔をしていたのだろう。
「捧げられる……の?」
『昔の話だ』
そう言ってアルはそっぽを向く。
これ以上は聞くな、そう言われた気がした。
僕らはしばらく無言の時を過ごした。
沈黙に耐えかねた僕はアルに話しかける、背けられたままの目に反して、耳だけはピクピクと動いてこちらに向けられる。
その仕草に僕は安堵する。
アルが話しかけられるのを待っていた事に。
アルに嫌われてはいない事に。
アルも僕と同じに気まずく思っている事に。
「これから…僕はどうすればいいのかな」
アルが半分程こちらを振り向く。
「この国は…もう、ダメなんだよね」
自然と涙が零れる。それを視界の端に捉えたアルは焦ったように僕を見る。
「どうしよう……僕、どうすればいいの?」
とうとう決壊した。
溢れてくる涙を止められずに僕は情けない泣き声を上げる。焦ったアルは首を伸ばして僕の顔に頬を擦り寄せる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん…なさい。嫌わないで、お願い……僕を見捨てないで」
アルを抱き締める。
声が震えて、上手く息が吸えなくなる。さっきまでは上手く話せていたのに、またコレだ。
いつもこうだ。
僕はいつまで経っても何も出来ない、話すことも出来ないままに相手に嫌われて。
『………不安、か』
アルはその尾で僕の顔を無理矢理上げさせて、目を強制的に合わせた。
『私が何を言っても、貴方の不安は解消されないのだろうな』
真っ直ぐな黒い瞳が僕を射る。アルはしばらくそのまま動かずにいたが、僕の腕をすり抜けて店の中に消えた。
僕はただ呆然として座っていた。アルの姿が完全に見えなくなってから動けるようになった。
「や、やだ! 行かないで……待ってよ!」
棚にぶつかって、綺麗に並べられていた果物が床に散乱する。
それを踏んずけて転んで、僕はまた泣いた。転んだからじゃない、アルに二度と会えない気がしたから。
でもその予感は外れてくれた。
『………大丈夫か?』
「アル……アル、よかった。居たんだ。ねぇお願い、僕を嫌わないで、お願い。ひとりにしないで」
砕けた果物の汁で滑りながら、這いずるようにアルの首にしがみついた。こんな鬱陶しい真似していたら嫌われても仕方ないのに。それを考えられないからダメなんだって気がつかずに。
『ああ、全て貴方の望みのままに』
尾の黒蛇が果物用のナイフを咥えている。そしてそれを手渡された。
『さあ、名を刻むといい』
「………え、名を…って」
小さなナイフは見た目に反して重い。
アルの前で正座をするように座り込んだままの僕は、ただ呆然とアルの眼を見つめ返した。
『知らないのか? 名の盟約だ。この国では有名な筈だが』
知っているに決まっている、アレはこの魔法の国で最も使われている契約の方法。
だがアレは魔法道具なんかに使うものだ、それを生き物に使うなんて。
「知ってるよ! 知ってる……けど」
『魔性のモノとの契約には血が伴う。これも知っているだろう? 気にする必要は無い。さあ、早く。これで貴方の不安は消え去るだろう』
名の盟約、対象に自分の名を彫り込むことで服従を誓わせるもの。
痛みや自我のない''物''に使うものだ。''生物''に対しては禁じられている。今やそんな法律は機能していないのだが。
盗まれて使われないように契約違反があれば即座に対象物が壊れるこの魔法。
妻に使った男の話を聞いたことがある。妻は不貞を働き、体が焼け崩れて死にかけた。
王宮魔法使いにより解除されたが、妻は一生寝たきりになったという。男の方は厳罰に処された……だったか? とにかくそんな真似をするわけにはいかない。
「アル……ごめんなさい、僕は、ただ、あの、そんなつもりじゃなくて」
説明しなければ、そんな大層なものではないと。ただ少し不安になっただけだと。
『……早く、名を刻め』
頬を撫でようと差し出した手の上に尾が乗せられた。黒蛇がこちらを見つめ、それからゆっくりと目を閉じた。
この美しい鱗に刃を突き立てろと。この素晴らしい尾に僕の名を刻めと。
アルはその場に座り、蛇と同じに目を閉じた。
「……アル、アル、違うんだよ。僕は、こんなの」
『やれ。そうしなければ私の気が済まん。私の忠誠心を貴方に示したい』
「………っ…ごめん、ごめんね。アル…ごめん」
ナイフを尾に突き立てる。真っ赤な血が流れて、ズボンが染まっていく。
そのままナイフを滑らせて、硬い鱗を裂いていく。嫌な感触だ。
こんな行為。
そしてなによりもこの行為を''良い''と思っている僕が嫌だ。
これでもうひとりになる心配はない、そんな事を思う僕がなにより嫌いだ。
Herrschaft
僕の名前が、美しい鱗に彫られた醜い文字が怪しく光る。その光が収まると、傷は焼かれたようになり血は止まった。その痕は更に醜く見えて、僕は目を逸らす。
『ふむ、中々良いものだな。ヘルシャフト……でいいのか? 良い名だ』
アルは上機嫌に傷を眺める。嬉しそうに尾を振り、舌で器用にナイフを取り上げると、僕の手についた血を綺麗に舐めとった。
「アル……ごめん、なさい。痛い?」
『いいや、謝る必要はない。私が望んだ事だ。無理を言ったな、すまない。』
「アル……ありがとう、これで…良かったの? せめてもう少し綺麗に彫れれば良かったんだけど」
『いいや……美しい文字だ、貴方の必死さが表れている。見た目だけ綺麗なものになんて価値は無い。特に契約というものは醜い方が本心だと分かるからな』
尾に彫られた僕の名前を愛おしそうに僕に見せる。
アルが美しいと褒めるその文字は、やはり僕には見た目は勿論、込められた想いも醜く見えて仕方がなかった。
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