第2話 美しき銀狼
目が覚めたのは魔物襲来翌日の昼間、大量の人と魔物の死体が転がる噴水広場だった。
頭には薬草を挟んだ包帯が巻かれており、一晩の間に完治したらしくもう痛みはなかった。だが頭はまだボーッとしており、誰が巻いたのかという疑問は露ほどもなかった。
周囲に生きているモノはなく、酷く寂しい。
噴水を覗き込めば死体、死体、死体……とても顔を洗ったり飲んだり出来るものではない。そもそも水が見えない。
僕は水を諦め、噴水の縁に腰掛けた。
ぼうっと空を眺める。昨日の出来事がまるで何年も前の夢のようだった。
だがアレは確かに昨日あった事だ。凄惨な景色の中に両親の姿を見つけて吐いた。胃の中のものがなくなっても構わずに吐いて、吐いて、喉も痛めた。
覚束無い足取りで広場を離れて、小川に頭から突っ込んだ。
冷たい水に全身を洗われ、呼吸器官を冒されて。そのまま水底についた。僕は何故か息苦しさを忘れていた。
目を閉じた瞬間、襟首をなにかに掴まれて川から引き摺り出される。そしてその主を見て、掴まれたのではなく噛まれたのだと理解した。
昨日僕を助けた銀狼だ。濡れた顔を振るう狼はやはり美しい。水も滴るいい狼……なんて、くだらない冗談を思いつく。
狼は尾にかけてあった袋を咥え、僕に差し出す。
受け取れずにいると首を傾げる。その仕草は愛らしい。
思わず笑みを零し、袋を受け取った。
中身はパンだ。確か、城下町の通りの店の…見覚えがある。
「………えっと、僕にくれるの?」
狼はそれに答えず座り込んだままの僕の膝に頭を置き、寝息を立て始めた。
「えっ…? ちょ、ちょっと…寝ないでよ。これ、くれるんだよね? た、食べるよ?」
狼を起こすのを諦めてパンを齧りながら、僕は今まで起こった出来事を順に思い出していった。
まず火事、アレはおそらく魔物のやった事だ、人を一箇所に集めるためだろう。
そして魔物達は、人を喰うという目的を果たした。だが僕は何故か食べられなかった。
僕……だけが。母さんと父さんには、もう二度と会えない。初めて愛されていると感じたばかりなのに。
この狼は、一体なんなんだろう。
あの大きな魔物がアル…なんとかって言っていたような、いなかったような。種族名なのか個体名なのかは分からないが、あれが狼を指す言葉だとは確信できる。
パンをなんとか食べ終わって、僕はぽろぽろ零れる涙を必死に拭った。両親の事、これからの事、色んな悲しさと不安で胸がいっぱいになった。
僕の涙が狼の顔に落ちて、狼は目を覚ました。いや、初めから寝ていなかったのかもしれない。
「あ……ごめ、起こし……た? その…ごめんなさい」
きっと怒る。きっと僕を嫌う。
こんなまともに喋れもしない僕なんて、皆嫌いに決まっている。
狼は僕の頬を舐めた。涙を拭うように、僕をあやすように。僕の涙を舐めとって、僕の胸に頭を擦り寄せる。その仕草が僕にはたまらなく嬉しくて、愛おしくて、僕は狼を抱き締めて泣いた。
何時間かそうしていて、僕は少しずつ落ち着きを取り戻した。まぁ僕の落ち着きなんて、怠惰か諦めの言い換えだけれども。
「……ごめんね、鬱陶しくて」
僕はようやく狼の首から腕を離して、狼の頭の上から背中までを何度も撫でた。狼は気持ち良さそうに僕に体を擦り寄せて、クゥン、と可愛らしい鳴き声を上げる。
「ありがとう…ねぇ、君は…………なんなの?」
その言葉に狼の耳がピクリと動く。自分でもおかしな質問をしたと後悔する。
君は誰なの?
どこから来たの?
名前は? あるの?
どうして僕を助けてくれるの?
僕は一体何なの?
訊きたいことがありすぎて、もう分からなくなった。そもそも狼に質問して答えが返ってくるなんて思っていること自体、よくよく考えればおかしなことだ。
いくら魔物だとはいえ、人と同じ言語を操れるのは人型のモノか、超高等なモノだけだろう。
人を誑かそうとでも考えていないのならば、人の言葉など扱う理由はないのだし。
昨日の魔物は……誑かそうとしていた、だろうな。
『名はアルギュロス、旅をしている』
「…………へ?」
喋った。
狼……改めアルギュロスは僕の目の前に座り直し、畏まって頭を下げる。
『旅の目的は……そうだな、世直しとでも言おうか』
「え? あ、あの…ちょっと」
『知ってるだろうとは思うが、このところ世界規模での異常が起こっている。魔物は凶暴化し、人々の心は病み、作物は枯れ疫病は流行り……このままでは世界は終わってしまう。』
「い、いや、ちょっと待ってくれる?」
熱が入ってきた狼の言葉を遮ると、少し残念そうな顔をして僕を見つめた。
『なんだろうか?』
「ひとつひとつ……ゆっくり質問に答えてもらえる? その、僕、かなり要領悪いから」
アルギュロスは座り直し、僕の目を真っ直ぐに見つめた。やはり視線は苦手だ、反射的に目を逸らした。
「えっと、まず名前……は、聞いたね。アルギュロスって呼んで、いい……の?」
『呼びにくければアルでいい、気に入らないのならクロでもポチでも好きなように。』
「あ……うん、じゃあ……アル、で」
アルギュロス……再び改めてアルは、クゥンと可愛らしい鳴き声を上げて僕に頬を擦り寄せてくる。やはりこの仕草は可愛らしいし、また非常に美しい。
「つ、次は僕の事なんだけど、どうして助けてくれたの? あと……僕って、その、他の人と違うとこ、あったりする?」
魔物使いという言葉は出さずに、それとなく聞き出す。僕の勘違いだったら恥ずかしい、なんてくだらない理由だ。
『助けを求めていたから助けた、人の声が聞こえたのは久しぶりだったからな。まぁ、それもこれも全て貴方が''魔物使い''であるが故。自身では気がつかなかったようだな』
ああ、やっぱり。
あの魔物の言葉は聞き間違いなんかじゃなかった、確かに魔物使いと言っていたんだ。
「……魔物使いって、何?」
『ご存知ないか。魔物使いとはその名の通り、魔物を使役する者よ。あらゆる魔物を支配し、やがては世界を統べる者。
それが貴方だ。
私も魔物使いをこの目で見たのは初めてでな……お恥ずかしながら緊張している。』
僅かに目を逸らすアル……お恥ずかしながら可愛らしいと思っている、なんて言ったらどういう反応を示すだろうか。
なんて現実逃避している場合じゃない、世界を統べるとか言わなかったか? 僕が?
『この広い世界で前回魔物使いの才能を目覚めさせたのは…ざっと一万年前か? いや、もう少し前か? 私も聞いた話だからな。
前回は世界から争いを消したなんて逸話もあるが、どうだろうな、真偽は分からん』
「……えっと、じゃあこの眼って関係あったり?」
髪をかきあげ、右眼を見せる。ぐっしょりと濡れたままの髪を触れるのは少し気持ち悪い。
『証だ。魔物使いの才能が目覚めた証…まだ片眼だけか。魔眼とも言うな。いずれ左眼もそうなるだろう。ああ、その髪もそうだ。』
チラリと僕の髪を見やる。
毛先の方から白くなった髪。
今まで気味悪がっていたものが魔物使いの証だなんて。
そんなの。
『美しいぞ。素晴らしい。その眼は……こんな輝きが出せる物だとは。ああ、早く両眼ともなってしまえばいいのに。』
アルは僕の右眼を食い入るように見つめている。
どこか狂気的なその様を恐ろしく感じた。
『隠してしまうのか?』
アルの顔を背けさせ、髪を元に戻すと狼は残念そうに唸った。
「……えっと、ちょっと…ね」
昔、よく殴られていた時に痣を隠そうと髪を伸ばした。眼の色が変わってから丁度いいと分け目を変えた。
外に出ることもなく、人に会うこともないのに、見た目を気にしてどうするんだか。
『勿体無いな。非常に残念だ………まぁいい、隠しているモノを暴く時ほどの快感は無いからな』
意地の悪そうな笑みを浮かべるアルから少し距離を置く。すると、冗談だから本気にするな、と詰め寄ってくる。信用出来ない部分もあるような気がしてきた。
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